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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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12/21

第12話 光の筋 〜届かない声は道になる〜

 始末書の紙は、思っていたより重かった。


 たった数枚の薄い紙なのに、犬飼陸斗の手の中では濡れた石板みたいに感じられた。白い紙の端は少し折れていて、そこに自分の指の汗が薄く滲んでいる。


 廊下の窓から、午前の光が斜めに差し込んでいた。


 施設の外には、低く刈られた芝生と、風に揺れる細い街路樹が見える。葉が擦れる乾いた音は、厚い窓ガラスに遮られてほとんど聞こえない。ただ、光を受けた葉の裏が一瞬ずつ白く返り、そのたびに地下で見た青白い筋が、陸斗の瞼の裏をかすめた。


 足首にはまだ包帯が巻かれている。


 歩くたびに痛みが足の骨を伝い、ふくらはぎの奥で鈍く広がった。湿布の匂いがズボンの裾からかすかに上がってくる。普段なら人に見られたくなくて無理にでも普通に歩いただろう。けれど今日は、どうしても歩幅が小さくなった。


 靴底が廊下を叩く音が、やけに大きい。


 こつ。


 こつ。


 その音が、昨日までとは違って聞こえた。


 地下の濡れた石を踏んだ時の、ぴちゃりという音。


 B-9区画へ続く暗い通路。


 壁面を走った青白い光。


 あれがなかったら、自分は今ここを歩いていない。


 陸斗は手の中の始末書を握り直した。


「独断行動により隊列を離脱……二次崩落の危険を招き……救助活動に重大な支障……」


 何度も書いた文章を、頭の中でなぞる。


 言い訳の余地はなかった。


 全部、自分が悪い。


 レア鉱石を見つけた瞬間、評価のことを考えた。上に行きたいと思った。早く認められたいと思った。母親に仕送りしたいと思った。その気持ちだけなら、たぶん嘘ではない。


 でも、それを理由にして、誰かを危険に巻き込んでいいはずがなかった。


 廊下の先で、自動扉が開いた。


 冷えた空気が静かに流れてくる。


 その向こうから、一人の女性が歩いてきた。


 背筋の伸びた、無駄のない歩き方だった。黒い髪は後ろでまとめられ、白い照明を受けてわずかに艶を帯びている。視線はまっすぐで、こちらを見る前から、すでに何かを判断しているような鋭さがあった。


 陸斗は反射的に背筋を正した。


 足首に痛みが走ったが、顔には出さなかった。


「犬飼陸斗」


 名前を呼ばれた。


 短い声だった。


 責めているわけではない。怒鳴っているわけでもない。それなのに、胸の奥を指で押さえられたような重さがあった。


「はい」


「怪我は」


「大丈夫です」


 女性は、陸斗の足首を一度見た。


「大丈夫に見せようとしているだけね」


 陸斗は返事に詰まった。


 廊下の空調が低く唸っている。遠くの部屋から、誰かがキーボードを叩く乾いた音が薄く聞こえた。窓の外で風が強くなり、街路樹の葉が一斉に裏返る。


 女性は名札を指で軽く押さえた。


「神代玲奈。あなたが昨日見たものについて、聞きたい」


「昨日、見たもの……」


「青白い光の筋」


 その言葉を聞いた瞬間、陸斗の指先が冷えた。


 始末書の紙が小さく鳴る。


 玲奈の目は、陸斗から逸れなかった。


「報告書には、壁が開いた、とある。光が進路を示した、とも。詳しく話して」


「……信じるんですか」


 思わず、そう聞いていた。


 昨日から何度も思った。自分だけが見たものかもしれない。酸素が薄くなって、頭がおかしくなっていたのかもしれない。死にかけて、都合のいい幻でも見たのかもしれない。


 けれど、あの光の冷たさと、壁が動いた時の低い音だけは、手のひらにまだ残っている。


 玲奈は少しだけ目を細めた。


「信じるかどうかを決めるために聞いているわけじゃない」


「じゃあ、何のために」


「同じものを、私も見たことがあるから」


 廊下の空気が変わった。


 陸斗は息を止めた。


 ただの調査ではない。


 ただの確認でもない。


 目の前の人は、あの暗闇を知っている。


 そう感じた。


   *


 カフェテリアは、昼前の静けさに包まれていた。


 大きな窓から淡い光が入り、テーブルの上に四角い影を落としている。磨かれた床には窓枠の線が映り、誰かが歩くたびに、その影が靴音と一緒にわずかに揺れた。


 食事の時間にはまだ早い。


 厨房の奥から、食器を重ねる音が聞こえる。湯気を含んだ匂いが少しだけ漂っていて、空腹を思い出させるはずなのに、陸斗の胃は固く縮んだままだった。


 玲奈は窓際の席を選んだ。


 向かいに座ると、陸斗の足首が椅子の脚に当たり、鈍い痛みが走った。膝の上で拳を握る。汗が滲んだ手袋を外していたせいで、自分の爪の汚れがよく見えた。


「順番に話して」


 玲奈は紙のメモ帳を開いた。


 端末ではなく、紙だった。


 そのことが妙に印象に残った。


「どこからですか」


「壁が開く前から」


 陸斗は唇を湿らせた。


 カップの水に手を伸ばす。透明な水面がわずかに震えていた。それが自分の手の震えなのだと気づき、陸斗は少しだけ顔を伏せた。


「最初は……真っ暗でした。ライトは点いてたんですけど、照らせる範囲が狭くて。上から声は聞こえてたけど、地鳴りが来て、それから……だんだん聞こえなくなって」


 声に出すと、またあの暗さが近づいてきた。


 空洞の底。


 湿った岩。


 通信機のノイズ。


 ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる音。


 誰も返事をしなくなった瞬間の、喉の奥を塞ぐような恐怖。


 陸斗は息を吸った。


「壁の向こうから、低い音がしました。崩れる音じゃなくて……何かが動く音です。重い扉が、ゆっくり開くみたいな音でした」


 玲奈のペン先が動いた。


「その前に光った?」


「はい。先に光りました」


「どこが」


「壁です。岩の中から滲むみたいに、青白い筋が出てきて……一本じゃなくて、何本も。壁を伝って、床まで伸びて、それが奥の通路へ続いてました」


 陸斗はそこで一度、言葉を切った。


 窓の外で、風に押された草が波のように倒れていく。太陽の光がその上を滑り、細い葉の先だけがきらきらと瞬いた。


 地下の光とは違う。


 外の光は暖かい。


 けれど、あの青白い光も、冷たいだけではなかった。


 暗闇の中で、確かに自分を呼んでいた。


「進む方向に沿って、伸びてたんです。俺が迷わないように。次の壁が開く前も、先に光ってから壁が動きました」


「壁が開く時、揺れは?」


「ほとんどなかったです。崩落とは違いました。最初からそこに扉があったみたいに……静かに」


 玲奈のペンが止まった。


 その一瞬だけ、カフェテリアの音が遠くなった。


 厨房の水音。


 空調。


 窓の外を走る風。


 それら全部が、薄い膜の向こうへ退いたようだった。


「神代さん?」


 玲奈は答えなかった。


 視線はメモ帳に落ちている。けれど、見ているのは紙ではないように見えた。


 陸斗は、その沈黙の重さに耐えきれず、ゆっくりと言った。


「神代さんも……助けられたんですか」


 玲奈の指が、ペンを握り直した。


 白い指先に、わずかに力が入る。


「助けられた、というより」


 声は静かだった。


 静かすぎて、かえって痛かった。


「助からなかった人たちの中で、私だけが外へ出された」


 陸斗は何も言えなかった。


 玲奈は窓の外を見た。


 芝生の向こうに、低い建物の影が伸びている。太陽は高くなり始めていたが、その影だけはまだ冷たく、地面に貼りついたままだった。


「三年前、D-4区画で大きな崩れが起きた」


 玲奈の声は、かすかに掠れていた。


「チームは五人だった。戻ってきたのは、三人」


 陸斗の喉が鳴った。


 玲奈は続けた。


「私は、その三人の中にいた」


 その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。


 誰かが遠くで皿を置く音がした。


 乾いた陶器の音が、やけにはっきり響いた。


 陸斗は、膝の上の拳を握ったまま動けなかった。



 *


「助からなかった人たち、って……」


 陸斗の声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。


 玲奈はしばらく答えなかった。


 窓の外では、風が芝生の上を低く走っていた。柔らかそうに見える草の一本一本が、光を受けながら同じ向きに倒れ、また戻る。その動きは穏やかなのに、陸斗には地下で崩れ落ちた砂の流れに見えてしまった。


 玲奈はカップに触れた。


 中のコーヒーはもう冷めているのか、湯気は立っていなかった。


「D-4区画は、当時まだ不安定な場所だった。調査は慎重に進めるべきだった。でも、私たちは奥へ行った。誰も大きな声では言わなかったけれど、成果が欲しかった」


 その言葉に、陸斗は息を詰めた。


 自分と同じだ、と思った。


 玲奈は陸斗を責めなかった。


 それが、かえって苦しかった。


「小さな振動があった。今思えば、戻るべきだった。でも、その時の私は判断を遅らせた。あと少し、もう少しだけ確認してから、と」


 玲奈の視線は窓の向こうへ向いたままだった。


 窓ガラスに映った横顔は、静かだった。静かすぎて、傷が深いことがわかる。怒りや悲しみが表に出ていないのではない。長い時間をかけて、表に出ない場所まで沈んでしまったような静けさだった。


「次の瞬間、天井が落ちた」


 陸斗は拳を握り直した。


 爪が掌に食い込む。


「音は覚えている。岩が割れる音。金属が曲がる音。誰かが私の名前を呼ぶ声。水が一気に流れ込んでくる音。ライトが消えて、暗くなった」


 カフェテリアの空気が、少しずつ冷えていくようだった。


 陸斗の背中に、薄い汗が滲んだ。ここは明るい。窓もある。人の気配もある。それなのに、玲奈の声を聞いていると、地下の暗さが足元から這い上がってくる。


「その時、通路の一部が開いた」


 玲奈の指が、カップの縁をなぞった。


「音は小さかった。あの崩れの中で、普通なら気づかないくらい。でも、私は見た。青白い光が壁に走って、奥に逃げ道ができた。私はそこを通って外へ出た」


「じゃあ、他の二人も……」


 言いかけて、陸斗は口を閉じた。


 玲奈の表情は変わらなかった。


 変わらなかったからこそ、その先を聞くことができなかった。


「間に合わなかった」


 玲奈は言った。


 淡々としていた。


 その淡々とした声が、胸に痛かった。


「私は出口に押し出されるようにして外へ出た。振り返った時には、もう道は閉じていた。叫んだ。でも届かなかった。名前を呼んだ。何度も。でも、岩の向こうから返事はなかった」


 陸斗は唇を噛んだ。


 水滴の音が聞こえる気がした。


 ぽつり。


 ぽつり。


 昨日、自分を追い詰めたあの音。


 玲奈は、三年前からずっとその音を聞いているのかもしれない。


「だから、あなたの話を聞きたかった」


 玲奈はようやく陸斗を見た。


「青白い光。壁が先に光ってから開くこと。安全な通路を選んでいるように見えること。その特徴が同じなら、あの時も、昨日も、誰かがこちらを見ていた可能性がある」


「誰か……」


「私たちは、その存在を管理者と呼んでいる」


 陸斗は椅子の背にもたれた。


 胸の奥で、昨日の光がもう一度伸びる。


 暗い空洞。


 閉じた世界。


 自分の声だけが戻ってくる場所。


 そこへ、誰かが道を開いた。


 陸斗は急に息が苦しくなった。喉の奥が熱い。目の奥がじんとする。ここで泣くな、と自分に言い聞かせた。十九歳にもなって、しかも始末書を出しに来た身で、こんな場所で泣くな。


 でも、涙は勝手に滲んだ。


「俺……」


 声が震えた。


「管理者を探したいです」


 玲奈は黙っていた。


 陸斗は俯いたまま続けた。


「昨日、あの人がいなかったら、俺、今ここにいません。隊の人たちにも迷惑かけた。神代さんみたいに……誰かを置いてきた人の気持ちなんて、俺にはまだわからないです。でも」


 膝の上の拳に、ぽたりと一滴落ちた。


「ありがとうって、直接言いたいんです」


 声が潰れた。


 情けないと思った。


 でも止められなかった。


「届かないってわかってても、言いたいんです。俺を見捨てないでくれて、ありがとうって。俺みたいな馬鹿のために、道を開いてくれてありがとうって」


 カフェテリアの中に、重い沈黙が落ちた。


 今度の沈黙は、さっきのものとは違っていた。


 責める沈黙ではない。


 言葉が出るまで、こぼれたものをそのまま置いておいてくれる沈黙だった。


 窓の外で、細い枝が風に揺れた。葉が光を返し、白く瞬く。


 玲奈はゆっくりと息を吐いた。


「犬飼」


「はい」


「今度の調査に、補助要員として参加しなさい」


 陸斗は顔を上げた。


「え……」


「ただし、独断行動は一切禁止。私の指示なしに前へ出ることも、隊列を離れることも許さない。勝手な判断で動いたら、その場で外す」


「はい」


「返事だけはいい、では困る」


「はい。今度は、本当に守ります」


 玲奈は陸斗を見つめた。


 その目はまだ厳しかった。けれど、陸斗にはわかった。彼女は自分を突き放しているのではない。無事に戻るための線を、目の前に引いているのだ。


 陸斗は背筋を伸ばした。


 足首は痛い。


 始末書はまだ重い。


 でも、胸の奥に別の重さが生まれていた。


 昨日までの、ただ上に行きたいだけの焦りとは違う。


 助けられた意味を、無駄にしたくないという重さだった。


   *


 カフェテリアを出る頃には、昼の光が廊下に深く入り込んでいた。


 窓際の床に、街路樹の影が揺れている。葉の形をした影が、風に合わせて細かく震え、廊下の白い床を静かに撫でていた。


 陸斗は玲奈の少し後ろを歩いた。


 足首をかばうせいで、靴音が不揃いになる。


 こつ。


 こつ、こつ。


 その歪な音を聞きながら、陸斗はふと口を開いた。


「神代さん」


「何」


「管理者って、どんな人だと思いますか」


 玲奈の足が止まった。


 廊下の先で、自動扉が開閉する音がした。遠くから人の話し声が聞こえ、すぐにまた薄れていく。


 玲奈は振り返らずに答えた。


「怖がりながら、それでも見捨てない人」


 陸斗は息を止めた。


「強い人じゃないんですか」


「強いかどうかは知らない」


 玲奈は窓の外へ視線を向けた。


 光がその横顔に触れ、まつ毛の影を頬に落とす。


「ただ、合理的な最短の道だけを選ぶ人ではないと思う。昨日のあなたの経路もそう。危険な近道ではなく、時間がかかっても安全な道を開いていた。きっと、優しすぎるくらい優しい人」


 陸斗は胸を押さえたくなった。


 暗闇の底で、誰かが自分のために安全な道を選んでくれた。


 自分の命を、数字や結果ではなく、帰すべきものとして見てくれた。


 その事実が、胸の内側を静かに叩いた。


「俺」


 陸斗は小さく言った。


「そういう大人に会いたかったんです。ずっと」


 玲奈は振り返った。


 陸斗は目を逸らさなかった。


 父親の顔を知らないことを、人に話したことはほとんどない。困った時に大きな手で肩を掴んでくれる人も、怒鳴りながらも最後には帰る場所を用意してくれる人も、自分にはいなかった。


 母親はいた。


 十分すぎるほど、自分を支えてくれた。


 けれど陸斗はずっと、どこかで探していたのだと思う。


 馬鹿をした時に叱ってくれるだけではなく、暗闇で道を開いてくれる誰かを。


 玲奈は何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。


「なら、生きて会いに行きなさい」


 その一言は、廊下の冷えた空気の中で、長く残った。


   *


 その日の夕方。


 犬飼陸斗の始末書は、薄い封筒に入れられ、玲奈の手元に残された写しとともに別の部署へ回された。


 紙の上には、何度も書き直した跡があった。


 青白い光。


 壁が先に光り、その後で開いた。


 通路はB-9区画出口へ続いていた。


 犬飼本人は「管理者が道を教えてくれた」と証言。


 それらの文字は、ただの若者の反省文には見えなかった。


 夜。


 内閣府の分析棟では、窓のない部屋に淡い照明だけが点いていた。机の上には冷めたコーヒーと、何枚もの報告書が置かれている。空調の音が低く続き、壁際の機器が小さく瞬いていた。


 一人の分析官が、犬飼の記述に赤い線を引いた。


 ペン先が紙を擦る音だけが、静かな部屋に響く。


「光の筋……壁の開放より先に発生」


 分析官は椅子にもたれず、画面へ向き直った。


 過去の報告。


 D-4区画。


 C-8区画。


 救出経路。


 青白い光。


 ばらばらだった記録が、細い糸で結ばれていく。


 分析官は新しいメモ欄を開き、短く入力した。


【物理空間に、操作の痕跡が残る】


【対象は、通常権限を超えた制御に到達している可能性あり】


 入力音が止まった。


 部屋の静けさが、さらに深くなる。


 分析官は画面に映る二つの区画図を見比べた。


 誰かがいる。


 現場の奥で、誰にも姿を見せず、人を助けている誰かが。


 その誰かは、まだ自分たちの視線に気づいていない。


 赤い線を引かれた紙の上で、青白い光という言葉だけが、夜の底で静かに浮かんでいた。

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