第11話 度胸だけの馬鹿 〜無茶は強さではない〜
更衣室の蛍光灯は、朝からひどく白かった。
天井に並んだ細長い光が、金属製のロッカーの扉に反射して、薄い刃物のような線をいくつも浮かび上がらせている。古い換気扇が低く唸り、湿った服と消毒液と、床に残った砂埃の匂いが混ざっていた。
犬飼陸斗は、ロッカーの前で片膝をついたまま、しばらく動かなかった。
扉の内側に、小さな写真が一枚貼ってある。
色の少し褪せた写真だった。海でも山でもない。田舎の家の前で、まだ小学生くらいの陸斗が、母親と並んで笑っている。母親は少し疲れた顔をしていたが、陸斗の肩に置いた手だけは強かった。
写真の中に、父親はいない。
いたことがない、というほうが正しかった。
陸斗は親指で写真の端を押さえた。古いテープが剥がれかけていて、扉を開け閉めするたびに、写真がわずかに揺れる。その小さな揺れが、朝の更衣室の静けさの中で妙にはっきり見えた。
「……もう少しだからな」
誰に聞かせるでもない声だった。
隣のロッカーでは、先輩が装備のベルトを締めている。革が擦れる音、金具が鳴る音、床に置かれたブーツの底が硬く沈む音。そのひとつひとつが、陸斗の胸の奥を急かした。
十九歳。
まだ若い。経験が足りない。そう言われるたびに、陸斗は奥歯を噛みしめてきた。
経験が足りないなら、数を踏めばいい。
知識が足りないなら、先に動けばいい。
怖がって止まるくらいなら、飛び込んだほうがまだましだ。
そう思っていた。
そう思わなければ、足が止まりそうだった。
S級になれば、月収三百万も夢じゃない。母親に仕送りして、古くなった実家の屋根を直して、雨漏りする台所も、傾いた玄関も、全部直せる。冬になると隙間風が入るあの家を、母親が寒くない家にできる。
陸斗は写真から指を離した。
剥がれかけた写真が、かすかに戻る。
その音は聞こえないほど小さかったのに、なぜか胸の中では大きく響いた。
「犬飼。今日は余計なことするなよ」
背後から声が飛んだ。
陸斗は振り返り、わざと軽く笑ってみせた。
「わかってますって」
「その顔で何回やらかしたと思ってんだ」
「今日は本当に大丈夫です」
先輩は鼻で息を吐いた。
「お前の大丈夫は信用ならん」
更衣室の中に、小さな笑いが落ちた。
けれど陸斗の指先は、手袋の内側で少し汗ばんでいた。笑われることには慣れている。怒られることにも慣れている。それでも、置いていかれることだけは、どうしても我慢できなかった。
役に立たないと思われるのが嫌だった。
足手まといだと思われるのが嫌だった。
何より、自分には度胸しかないのだと、誰より自分が知っていた。
*
C-8区画は、地上の音が届かない。
足元の岩肌は黒く湿り、ヘッドライトの白い光を受けるたび、鉱物の粒が細かく瞬いた。壁面を伝う水滴が、ぽつり、ぽつりと落ちる。音はすぐに消えず、狭い通路の奥へ転がるように反響していった。
空気は冷たい。
吸い込むたびに、肺の内側が薄く冷やされる。土と金属と、何か焦げたような匂いが混ざっていた。遠くで低い振動が鳴っている。地下そのものが、眠りながら歯ぎしりしているような音だった。
「隊列を崩すな。左壁沿いに進む」
先輩の声が前方から届く。
陸斗は返事をしながら、ライトを少しだけ横へ向けた。
その時だった。
黒い岩の隙間で、赤みを帯びた小さな光が瞬いた。
レア鉱石。
報告すれば評価になる。回収できれば、さらにいい。ほんの数メートル。隊列から完全に離れるわけじゃない。すぐ戻ればいい。
そう考えた瞬間、陸斗の身体はもう動いていた。
足音を殺し、壁沿いに身を滑らせる。膝に触れた草のような細い地下植物が、乾いた音を立てて揺れた。ライトの光が横へ流れ、赤い鉱石がもう一度きらりと光る。
陸斗は手を伸ばした。
その直後、足元が抜けた。
「――っ!」
声にならなかった。
床が崩れる音は、思ったより鈍かった。岩が割れ、砂が落ち、身体が一瞬だけ宙に浮く。胃が喉元まで跳ね上がり、視界がぐるりと回った。ヘッドライトの光が壁を斜めに切り、濡れた岩肌が白く流れていく。
肩から落ちた。
肺の中の空気が全部潰された。
「がっ……!」
背中を打ち、肘を打ち、膝が岩に擦れた。硬い音が骨の内側まで響く。ライトが何度も揺れ、最後に天井の割れ目を照らした。
上は遠かった。
崩れた穴の向こうで、誰かが叫んでいる。
「犬飼!」
「犬飼、返事しろ!」
返事をしようとした。けれど喉が詰まり、息がうまく入らない。
ようやく声を出した時、それは自分でも情けないほど掠れていた。
「……います! 下です!」
通信機に手を伸ばす。指が震えて、スイッチを一度押し損ねた。
その時、地鳴りが来た。
低く、重く、腹の底を押し上げるような振動だった。天井から細かい砂が降り、首筋に冷たく落ちる。割れ目の縁で岩が欠け、ひとつ、ふたつと暗闇へ吸い込まれていった。
「まずい、二次崩落だ!」
「退避しろ! 巻き込まれる!」
「でも犬飼が!」
「戻ったら全員死ぬ!」
上の声が遠ざかる。
陸斗は立ち上がろうとして、膝から崩れた。足首に鋭い痛みが走る。手袋の中の指が冷たくなっていく。通信機からはノイズしか返ってこない。
「待って……」
言葉は、岩壁に吸われた。
誰も答えなかった。
水滴の音だけがした。
ぽつり。
ぽつり。
それは、誰かが時間を数えている音のようだった。
*
十度目の深夜勤務に入った佐藤誠司は、いつものように端末の前へ座っていた。
室内は薄暗く、空調の風が天井から静かに落ちている。机の端に置いた缶コーヒーは、もう半分ほどぬるくなっていた。窓のない部屋の中では、夜の深さがわからない。ただ、身体の奥に溜まった眠気だけが、今がまともな時間ではないことを教えていた。
誠司は目頭を押さえた。
まぶたの裏に、朝の台所が浮かんだ。
味噌汁の湯気。弁当箱の蓋を閉める音。眠そうに髪を結ぶ陽菜。青いスニーカーを大事そうに玄関へ並べる湊。美咲が包丁を置き、こちらを見ずに「無理しないでね」と言った声。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
その瞬間、端末が赤く光った。
短い警告音が、部屋の空気を裂いた。
誠司の背筋が伸びる。
【緊急】
【C-8区画 安定値:91.2%】
【区画内残存人員:1名】
【位置:第二層 空洞E-3】
【残存者救助には退避経路の新設が必要】
画面の赤い文字が、網膜に焼き付くように残った。
「人員……一名……?」
喉が乾いた。
ただの数字ではない。
ただのエラーでもない。
そこに、誰かがいる。
誠司は椅子に座り直し、両手を端末に近づけた。指先がわずかに震えている。空調の風が当たっているはずなのに、首筋に冷たい汗が浮いた。
「コトリ。状況を出してくれ」
返答はすぐだった。
【第二段階権限による階層マップ展開が可能です】
【推奨:下層経由による退避経路形成】
画面が切り替わる。
青白い線で構成された立体構造が、暗い画面の中に浮かび上がった。まるで地下そのものが透けて見えているようだった。通路、空洞、崩落箇所、閉鎖された隔壁。それらが細い線となって重なり合い、誠司の前に複雑な迷路を作っている。
赤い点がひとつ。
第二層の底で、動かずに光っていた。
誠司は息を呑んだ。
その点の周囲は、崩落で塞がれている。元の通路へ戻る道はない。けれど下層へ抜ける細い空洞がある。そこからB-9区画へ迂回できる。隔壁を二か所開け、通路を一つ安定させれば、出口まで繋がる。
【必要操作:隔壁開放 二か所】
【必要操作:通路安定化 一区画】
【推定作業時間:六分】
【残存酸素推定:二十二分】
六分。
二十二分。
数字が胸を叩く。
誠司は一度だけ目を閉じた。
真っ暗な底で、一人取り残されている誰かの姿が浮かんだ。自分の息だけが耳の奥で響き、誰も返事をしてくれない場所。助けを呼んでも、声が岩に吸われていく場所。
指先の震えが止まった。
「急ごう」
誠司は、最初の隔壁開放に手を伸ばした。
*
最初の隔壁が開くまで、誠司には数十秒が何分にも感じられた。
画面上の青い線が震え、閉じていた通路の一部が淡く点滅する。指先を滑らせるたび、端末の表面に薄い熱がこもった。空調の冷たい風が首筋を撫でているのに、背中には汗が滲んでいた。
【隔壁A-17 開放開始】
【開放率:12%】
【開放率:29%】
数字が遅い。
あまりにも遅い。
誠司は奥歯を噛んだ。画面の隅では、赤い点がまだ同じ場所にある。動かない。けれど消えてはいない。
「頼む……開いてくれ」
声は、自分でも驚くほど低かった。
【開放率:100%】
【隔壁A-17 開放完了】
次。
誠司は迷わず二つ目の隔壁へ指を伸ばした。立体の地図がわずかに回転し、下層へ抜ける細い通路が浮かび上がる。狭い。曲がりくねっている。途中に不安定な区画がある。
その先に出口がある。
そこへ繋げるしかない。
【隔壁B-04 開放開始】
端末の明滅に合わせて、室内の壁がかすかに青く照らされた。誠司の影が机の上に伸び、指の形まで黒く揺れる。
赤い点が、一度だけ小さく震えた。
「動いた?」
【残存人員に微弱な移動反応】
誠司は息を止めた。
届いている。
自分の操作が、どこかにいる誰かの目の前で、形になっている。
「そのまま……そのまま気づいてくれ」
*
空洞の底で、犬飼陸斗は壁に背を預けていた。
息を吸うたび、胸の奥が痛む。足首は熱を持っているのに、身体全体は冷えていた。手袋の中の指先は感覚が薄く、握りしめた通信機はただの冷たい塊になっていた。
上からの声はもう聞こえない。
水滴の音。
遠くの地鳴り。
自分の浅い呼吸。
それだけだった。
暗闇は、目を閉じても開けても変わらないほど濃かった。ヘッドライトの光は岩壁の一部を照らしているだけで、その外側には何もない。光の届かない場所に、何かが息を潜めているような気がした。
「……母さん」
唇が勝手に動いた。
喉の奥が熱くなった。
怒られるだろうな、と思った。
また無茶して、と言われる。怪我して帰ってきた時みたいに、最初は怒る。眉間に皺を寄せて、声を震わせながら怒る。それから、きっと黙って絆創膏を出してくる。
あの小さな台所。
少し傾いた食卓。
雨の日に天井から落ちる水滴を、洗面器で受けていた夜。
母親はいつも「大丈夫」と言った。
本当は、全然大丈夫ではなかったのに。
「ごめん……俺、また……」
言葉の途中で、壁の向こうから低い音がした。
犬飼は顔を上げた。
最初は地鳴りかと思った。けれど違う。音は一定だった。岩が割れる音ではない。何か巨大なものが、長い眠りからゆっくり起き上がるような、重く、整った音。
ヘッドライトの白い光の端で、壁が光った。
青白い筋が、岩肌の奥から滲み出るように走った。
一本。
それから、また一本。
まるで暗い水の中に細い糸を垂らしたように、光は壁面を伝い、床へ伸び、奥の通路へ続いていく。回路のようにも、血管のようにも見えた。冷たい空洞に、初めて温度のあるものが差し込んだ気がした。
「……なんだよ、これ」
壁が開いた。
信じられないほど静かに。
ついさっきまで岩しかなかった場所に、人ひとりが通れる幅の黒い口が現れた。奥へ続く通路は細く、濡れた床に青白い光の筋が流れている。
犬飼は立ち上がろうとした。
足首に痛みが走り、視界の端が白く弾ける。
「っ……!」
膝をついた。掌が濡れた岩に触れ、冷たさが骨まで染み込んだ。
それでも、もう一度立った。
行けと言われている気がした。
誰かが、こちらだと示している気がした。
犬飼は壁に手をつき、足を引きずりながら進んだ。通路の奥から風が来る。地下の重たい湿気とは違う、ほんのわずかに乾いた空気だった。そこに、遠い機械音のような響きが混じっている。
一歩。
また一歩。
靴底が濡れた石を踏むたび、ぴちゃり、と小さな音がした。光の筋は、犬飼の進む先で淡く強まり、通り過ぎた後で静かに弱くなる。まるで歩幅に合わせて息をしているみたいだった。
途中で、背後から岩の崩れる音がした。
犬飼は振り返らなかった。
振り返ったら足が止まる。
足が止まったら、もう動けない。
「……行く。行くから」
誰に答えたのか、自分でもわからなかった。
通路の先で、二つ目の壁が開いた。
その向こうに、ぼんやりと広い空間が見えた。B-9区画の表示板が、傾いたまま壁に取り付けられている。非常灯の赤い光が、暗闇の中で弱々しく瞬いていた。
犬飼はそこへ転がり込むように出た。
膝が床を打つ。
痛みより先に、空気が肺に入った。
「犬飼!」
声が聞こえた。
今度は本物だった。
複数のライトがこちらを向き、白い光が目に刺さる。誰かが走ってくる。硬い靴音が床を叩き、担架の金具が鳴った。
「生きてる! 犬飼、生きてるぞ!」
先輩が肩を掴んだ。
怒鳴るような声だった。けれど、その手は震えていた。
「お前……どうやって出てきた」
犬飼は何度か息を吸った。
喉が乾ききっていて、声がすぐには出なかった。舌に鉄の味がする。唇が切れているのかもしれない。
「壁が……開いたんです」
「壁?」
「光が、道を……教えてくれたんです。青白い筋が、ずっと……」
先輩の顔色が変わった。
周囲の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。誰もすぐには笑わなかった。誰も「幻覚だ」とは言わなかった。
非常灯の赤い明かりが、先輩の頬に影を作っている。
水滴の音が、遠くで一つ落ちた。
「それ……管理者だ」
低い声だった。
犬飼は、目を見開いた。
「管理者……」
その言葉の意味を、詳しく知っていたわけではない。
けれど胸の奥で、何かがほどけた。
暗闇の底で、自分は一人ではなかった。
誰かが見ていた。
誰かが手を伸ばしてくれた。
怒鳴るでもなく、責めるでもなく、ただ道を開いてくれた。
それだけで、目の奥が熱くなった。
「俺……死ぬかと思った」
声が震えた。
震えを止められなかった。
「でも、壁が開いた瞬間……誰かに見守られてる気がしたんです」
先輩は何も言わなかった。
ただ、犬飼の肩を強く掴んだ。
痛いくらいだった。
犬飼は顔を伏せた。ヘッドライトの光が床に落ち、滲んだ涙が岩の粉で汚れた頬を伝った。
*
【残存人員 B-9区画出口へ到達】
【救助確認】
【C-8区画 緊急対応完了】
端末にその文字が出た瞬間、誠司は椅子の背にもたれた。
全身から力が抜けた。
気づけば、手のひらが汗で湿っていた。指先にはまだ薄い熱が残っている。心臓が速い。胸の奥で、遅れて恐怖が暴れ始めた。
「……助かったのか」
【はい。残存人員の移動反応は安全圏へ到達しました】
誠司は深く息を吐いた。
その息は途中で震えた。
人を助けた。
そう言っていいのか、まだわからない。自分は画面の線を動かしただけだ。区画を選び、隔壁を開き、通路を安定させただけだ。
けれど、あの赤い点は消えなかった。
誰かが帰れた。
その事実だけが、胸の奥に重く残った。
背後で、柴田が湯気の立つ紙コップを持っていた。
「お疲れさん」
誠司は振り返った。
「柴田さん……見てたんですか」
「途中からな」
柴田は紙コップを机の端に置いた。安い自販機のコーヒーの匂いが、乾いた室内に広がった。
「今日も、一人助けたな」
誠司は目を瞬かせた。
「え?」
「いや」
柴田は肩をすくめた。
「なんでもない。飲め。冷めるぞ」
誠司は紙コップを両手で包んだ。
温かかった。
その温度で、ようやく自分の指が冷えていたことに気づいた。
勤務を終えて外へ出ると、空はまだ夜と朝の境目にあった。
駅へ向かう道の端で、街路樹の葉が微かに揺れている。風は冷たく、ビルの谷間を抜けるたび、誠司の疲れた頬を撫でた。アスファルトに落ちた靴音が、早朝の人気のない道に硬く響く。
電車に乗る頃には、東の空が薄く白み始めていた。
窓の外を流れる建物の輪郭が、朝の光に少しずつ浮かび上がっていく。車内には、眠そうな会社員が数人、同じように黙って座っていた。誰も誠司を見ない。誰も、彼が夜の底で何をしていたか知らない。
誠司は吊り革の下で立ったまま、いつの間にかうたた寝していた。
肩が揺れ、額が窓にこつんと当たる。
その小さな音で目を開ける。
窓ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れていた。目の下に影があり、髪も少し乱れている。ただ、その奥にある目だけが、昨日までと少し違って見えた。
誠司は窓の外へ視線を戻した。
朝日が線路脇の草を照らしていた。細い葉が風に揺れ、光を受けた先端だけが銀色に瞬く。
眠気の底で、あの赤い点がまだ瞼の裏に残っていた。
消えなかった光。
帰っていった誰か。
満員電車の隅で、四十二歳の男は小さく息を吐いた。
そして、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「……よかった」
電車は朝の街へ滑り込んでいく。
その頃、地下から救い出された十九歳の若者は、処置室の白い天井を見上げながら、まだ青白い光の筋を思い出していた。
あの暗闇で、自分を見捨てなかった誰かのことを。




