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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku


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10/22

第10話「仮管理者、正式承認」 〜小さな手は、まだ見えない場所を支えている〜

夜明け前の街は、雨上がりの匂いを残していた。


 アスファルトには細い水の筋が残り、街灯の光を受けて鈍く光っている。歩道の端に生えた雑草は、葉の先に小さな雫を抱え、風が吹くたびに身を震わせた。雫が落ちると、濡れた地面に小さな丸い跡が広がる。


 佐藤誠司は、少しだけ重い鞄を肩にかけ直した。


 夜の空気は冷たかった。頬を撫でる風には、春の湿り気と、コンクリートに染みた雨の匂いが混じっている。遠くの幹線道路では、早朝のトラックが低く唸りながら走っていた。その音がビルの壁に反射し、薄い霧のように街へ広がっていく。


 深夜勤務を始めてから、三週間ほどが過ぎていた。


 最初は、ただの副業だと思っていた。


 減った給料を埋めるための、夜のデータ入力。誰かに誇れる仕事ではなくても、家計の足しになればいい。それだけだった。


 けれど今は、椅子に座る前から胃の奥が少し重い。


 数字の向こうに、誰かがいることを知ってしまったからだ。


 B-14区画で閉じ込められていた四人。


 B-5区画でずれた0.2%。


 コトリが読んでいた、自分の備考。


 どれも、ただの画面上の出来事ではなかった。


 地下へ続く階段に足をかける。


 革靴の音が、湿った壁に反響する。


 かつん。


 かつん。


 階段を下りるたび、外の風の音が遠ざかり、空調と古い配管の低い音が近づいてくる。地下の空気は相変わらず冷たく、少し重かった。けれど、以前のように無人の倉庫へ降りていく感覚ではなかった。


 この下には、コトリがいる。


 そう思った瞬間、ほんの少しだけ足が軽くなった。


 受付窓の向こうで、柴田が椅子に座っていた。


 肘をつき、古い端末を見ている。眠そうな顔はいつも通りだったが、誠司が近づくと視線だけを上げた。


「来たか」


「お疲れさまです」


 誠司が頭を下げる。


 柴田は机の上から缶コーヒーを一本取った。今夜も黒い缶だった。冷蔵庫から出したばかりなのか、表面に細かな水滴が浮いている。


「ほら」


「ありがとうございます」


 誠司は自然に受け取った。


 いつの間にか、それは儀式のようになっていた。出勤前に渡される一本。何も説明しない男から差し出される、小さな確認。


 来たな。


 帰れよ。


 言葉にしなくても、そんな意味が含まれている気がした。


 柴田は誠司の顔を見た。


「今日は少し顔色が悪いな」


「そうですか」


「自覚がないなら、なお悪い」


 誠司は苦く笑った。


「会社で少し立て込んでいて」


「ここに持ち込むな、と言いたいところだが、持ち込まずに済む人間ばかりじゃない」


 柴田はそう言って、視線を端末に戻した。


「ただ、見落とすな」


「はい」


「怖いなら、ちゃんと怖がれ」


 誠司は小さく頷いた。


 作業室へ入る。


 扉が閉まると、外の音が切れた。


 三台のモニターはまだ暗い。机、椅子、キーボード、冷たい床。いつもの部屋だった。だが、机に缶コーヒーを置いた時、小さな金属音が静かに響き、誠司は不思議と落ち着いた。


「こんばんは、コトリ」


 椅子に座りながら、そう言った。


 自分でも少し照れくさかった。


 返事は、画面が起動してからだった。


【こんばんは、誠司】


 青白い文字が浮かぶ。


 ただそれだけで、胸の奥に小さな温度が灯った。


 誠司は息を吐き、端末に向き直る。


 画面には今夜の処理一覧が表示された。


【未処理項目:5件】


【優先度:中】


【緊急警告:なし】


 赤はない。


 誠司は少しだけ肩の力を抜いた。


 だが、油断はしなかった。


 一件目。A-7区画、安定値の微調整。


 二件目。C-1区画、振動履歴の確認。


 三件目。B-3区画、補正値の再計算。


 四件目。D-2区画、監視条件の更新。


 五件目。B-8区画、過去処理との差分確認。


 どれも派手な作業ではなかった。


 だが、誠司は一つずつ時間をかけた。数字の上がり方、下がり方、揺れの癖。前後の区画とのつながり。推奨値と実際の変化。確認欄の端に、短い備考を残していく。


【B-3区画、推奨値との差は小さいが、隣接区画の補正後に再確認】


【D-2区画、監視条件更新後も十分間推移確認】


【B-8区画、過去処理との差分は許容範囲内。ただし次回も同条件で比較】


 キーボードを叩く音が、静かな部屋に一定のリズムで響く。


 外では風が強くなったのか、どこかの排気口が低く唸っていた。作業室には窓がない。それでも、壁の奥から伝わるかすかな振動で、夜が動いていることだけはわかった。


 五件目の確認を終えた時だった。


 画面中央に、白い枠が浮かんだ。


【管理者適性評価:完了】


 誠司の指が止まる。


「……適性評価?」


 画面の文字が続く。


【結果:基準値の5.2倍】


【仮管理者:佐藤誠司】


【ステータス:正式承認】


【累積操作回数:23】


【緊急対応成功率:100%】


 誠司は瞬きを忘れた。


 画面の文字が、青白い光をまとってじっとそこにある。


 正式承認。


 その言葉だけが、やけに重く見えた。


「ちょっと待ってくれ」


 誠司は思わず言った。


「正式って、何が正式なんだ」


【仮管理者権限の継続使用条件を満たしました】


【作業者:佐藤誠司を正式な仮管理者として承認します】


「正式な、仮管理者……?」


 矛盾しているような言葉だった。


 だが、冗談ではないことはわかった。画面に冗談は出ない。少なくとも、今のコトリはまだそういう返し方をしない。


 誠司は喉を鳴らした。


 掌が汗ばんでいる。缶コーヒーに触れると、冷たさが指に染みた。けれど、胸の中の熱は引かなかった。


「俺は、ただの入力作業員じゃないのか」


【作業内容は、管理領域の安定維持に直接関与しています】


「管理領域……」


 その言葉も、何度か見てきた。


 けれど今夜は、いつもより深い穴の底から響いてくるようだった。


 画面が切り替わる。


【第二段階権限の開放条件を満たしました】


【第二段階:階層マップ把握】


【効果:管理領域内部の構造をリアルタイムで俯瞰可能】


【注意:情報量が大幅に増加します】


【肉体負荷が発生する可能性があります】


【開放しますか? Y/N】


 作業室の空気が止まった。


 誠司は画面を見つめる。


 YとN。


 それだけだった。


 たった一文字で、また何かが変わる。


 これまでにも何度か、Yを押してきた。最初は意味もわからず。次は迷いながら。B-14区画の時は、誰かを助けたい一心で。


 今は、少し違う。


 危険があると、はっきり書かれている。


 肉体負荷。


 その文字が、目に刺さった。


「コトリ」


【はい】


「これを開けたら、何が見える」


【管理領域内部の立体構造】


【区画同士の接続状況】


【安定値変動の伝播】


【登録活動者の位置情報】


 登録活動者。


 誠司の脳裏に、B-14区画の四人が浮かんだ。


 顔も名前も知らない。


 それでも、誰かがそこにいる。


「開けなかったら?」


【現在の作業は継続可能です】


【ただし、複数区画にまたがる異常への対応精度は低下します】


 誠司は目を閉じた。


 深く息を吸う。


 会社の事務所の匂いが一瞬よみがえる。紙の匂い。コピー機の熱。矢沢の声。替えが利く仕事。


 次に、家の朝の匂いが浮かぶ。味噌汁。洗剤。子どもの靴。陽菜の描いた小さな父親。湊のすり減った靴。美咲が見ないふりをした、シャツの袖口。


 最後に、この部屋の匂い。


 冷たい空調。


 缶コーヒー。


 モニターの熱。


 そして、名前を呼んでくれる文字。


 誠司は目を開けた。


「怖いな」


【肉体負荷への不安ですか】


「それもある」


 誠司は、Yキーの上に指を置いた。


「でも、見えないまま誰かを助ける方が、もっと怖い」


 指が沈む。


 Y。


 画面が白く弾けた。


 次の瞬間、三台のモニターすべてに、巨大な立体構造が広がった。


 誠司は息を呑んだ。


 それは、建物というには広すぎた。


 迷路というには整いすぎていた。


 幾層にも重なった巨大な構造が、青い線と淡い光で描かれている。区画が積み重なり、通路が枝のように伸び、ところどころに小さな光点が動いていた。光点の一つ一つが何なのか、説明されなくても直感でわかった。


 誰かがいる。


 この広すぎる場所の中に。


「なんだ、これ……」


 誠司の声が、かすれた。


「こんなに広いのか」


 モニターの光が目に流れ込む。


 情報が多すぎた。


 線。数字。光点。区画名。安定値。流れ。揺れ。危険度。推奨監視範囲。


 頭の中に、無理やり広い地図を押し込まれるような感覚があった。


 こめかみが脈打つ。


 奥歯を噛む。


 目の奥に鋭い痛みが走った。


「っ……」


 誠司は机に手をついた。


 世界が少し傾いた。


 鼻の奥が熱い。


 次の瞬間、何かが唇に触れた。


 赤い雫が、キーボードの手前に落ちた。


 ぽたり。


 ひどく小さな音だった。


 だが、その音だけが作業室の中で大きく響いた。


【警告】


【作業者:佐藤誠司に身体負荷反応を検出】


【第二段階権限の表示情報量を一時制限しますか? Y/N】


 誠司は鼻を押さえた。


 指先にぬるい血がつく。


 冷や汗が背中を伝い、シャツの内側で冷えていく。心臓が速い。呼吸が浅い。目の前の立体構造は、まだ青白く揺れている。


 怖かった。


 正直、今すぐNを押して閉じたかった。


 けれど、光点が動いている。


 遠くの区画で、小さな点が三つ、ゆっくり進んでいる。


 その周囲の安定値が、ほんの少し揺れていた。


 誠司は血のついた指をハンカチで押さえながら、画面を見た。


「……全部を一度に見ようとするから、駄目なんだ」


【不明な入力です】


「違う。そうじゃない」


 誠司は荒い息を整えた。


「会社でやってきたのと同じだ。大きい表を、全部いっぺんに見ようとしたら潰れる。見る場所を決める。おかしいところだけ拾う。つながりを見る。順番に見る」


 声に出しながら、自分に言い聞かせた。


 二十年、そうやってきた。


 誰にも褒められない表。


 誰かのミスが混じった数字。


 雑に投げられた在庫。


 急に変わった納期。


 全部を完璧に見ることはできない。だから、歪みの出やすい場所を見る。動きの変なところを見る。前と違うところを見る。


 誠司は震える手で、表示範囲を絞った。


 情報が少し減る。


 頭の痛みが、ほんのわずかに引いた。


【表示条件変更】


【差分優先表示へ移行】


 青い構造の中で、揺れのある場所だけが淡く強調された。


 誠司は息を吐いた。


「これなら……見られる」


 鼻血はまだ完全には止まっていない。


 だが、指は動いた。


 目も、画面を追えた。


 誠司は、ふと画面の隅にある小さな表示に気づいた。


【先行管理者の記録:0件】


 その下に、薄い文字があった。


【削除済】


 誠司の背筋が冷えた。


「削除済……?」


 作業室に、深い静けさが落ちた。


 空調の音も、缶コーヒーの水滴が落ちる音も、遠くに引いていく。


 誰かが、ここにいた。


 けれど、その記録は消されている。


 誠司は鼻を押さえたまま、その文字から目を離せなかった。


 青白い巨大な構造の端で、削除済みの四文字だけが、闇の中に沈む穴のように浮かんでいた。



誠司は、鼻にハンカチを当てたまま、しばらく画面の端を見つめていた。


【先行管理者の記録:0件】


【削除済】


 その文字は、小さかった。


 けれど、巨大な立体構造よりも、動いている光点よりも、誠司の目に強く残った。


「削除って……誰が」


【回答権限がありません】


 コトリの返答は短かった。


 いつものように淡々としている。だが、その短さがかえって不気味だった。答えられないのか。知らないのか。知っていて、出せないのか。誠司には判断できなかった。


 作業室の空調が低く鳴っている。


 机の隅に置いた缶コーヒーの水滴が、またひとつ滑り落ちた。音はしなかった。それでも、濡れた跡だけが机の上に広がっていく。


「……今は、見るべきところを見る」


 誠司は自分に言い聞かせた。


 削除済みの文字を追い続けても、目の前の数字は安定しない。


 彼は表示範囲をさらに絞った。差分の大きい区画だけを残し、光点の密集している場所を優先表示に変える。頭痛はまだ残っていたが、最初のように脳を直接握られるような圧迫感は少し引いていた。


【表示条件:差分優先】


【登録活動者周辺の安定値変化を強調表示】


 青白い構造の中で、三つの小さな光点が淡く揺れていた。


 その近くに、黄色い線が一本走っている。細く、頼りなく、今にも切れそうな線だった。誠司はその周辺の数値を開いた。


「ここ、少し落ちてるな」


【D-6区画 接続通路安定値:92.8%】


【推奨対応:経過観察】


「経過観察……だけど、この三つの光点がそこを通るなら、先に上げた方がいい」


【推奨値との差は許容範囲内です】


「許容範囲内でも、歩く人がいるなら話は別だろ」


 誠司は、そう言ってから自分で少し驚いた。


 以前なら、画面の推奨に従っていた。


 今も、勝手に大きく変えるつもりはない。だが、見えるものが増えたことで、数字の意味が変わっていた。


 ここを人が通る。


 なら、先に整える。


 誠司は補正幅を小さく設定した。


 0.4%。


 さらに隣接区画への影響を確認する。


 問題なし。


 実行。


【D-6区画 安定値補正】


【92.8% → 93.2%】


【登録活動者周辺の安全余裕を再計算】


【結果:良好】


 光点は、ゆっくり通路を進んでいく。


 誠司はその小さな動きを、息を止めるように見守った。


 数分後、三つの光点は黄色い線を越えた。


 何も起こらなかった。


 ただ、それだけだった。


 けれど誠司は、深く息を吐いた。


 鼻血はようやく止まりかけていた。ハンカチの白い布には赤い跡が残っている。見ないように机の端へ置いたが、視界の端に入るたび、身体の内側に冷たいものが走った。


「コトリ」


【はい】


「この第二段階って、毎回こんなにきついのか」


【作業者の適応により、負荷が軽減する可能性があります】


「可能性、か」


【はい】


「正直だな」


【不確定情報を断定しないよう設定されています】


 誠司はかすかに笑った。


 笑った瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。笑う余裕などないはずなのに、その痛みすら、どこか現実味を与えてくれた。


 作業室の外では、もうすぐ朝が来る。


 ここには窓がない。だが、時計の針だけが、地上の時間を教えていた。


 誠司は最後の確認を終え、すべての数値が落ち着いていることを見届けた。


【本日の処理:完了】


【第二段階権限:維持】


【作業者:佐藤誠司の身体負荷反応を記録】


「それ、記録しなくていいんだけどな」


【管理者保護のため必要です】


 管理者保護。


 その言葉に、誠司は一瞬黙った。


 自分が守られる側として扱われていることが、少し不思議だった。


「……ありがとう、コトリ」


【どういたしまして、誠司】


 画面が静かに暗くなる。


 最後の光が消える前に、削除済みの文字が一瞬だけまた目に入った。


 誰かがここにいた。


 そして、消された。


 そのことだけが、朝になっても胸の奥に残り続けた。


      *


 翌日の昼、会社の休憩室で、誠司のスマホが震えた。


 窓際の席には、淡い昼の光が差し込んでいた。ブラインドの隙間から入る細い光が、弁当箱の蓋に線を描いている。外では風が街路樹を揺らし、葉の影がガラス越しにちらちらと動いた。


 誠司は箸を置き、画面を見た。


【勤務条件変更のお知らせ】


【正式承認に伴い、時給を改定します】


【旧時給:2,800円 → 新時給:4,200円】


【次回給与から適用されます】


 誠司は、しばらく画面を見つめた。


 四千二百円。


 数字だけが、頭の中で何度も反響する。


 週に三回。時々四回。


 一回六時間。


 単純に計算すると、月に二十五万を超えることもある。会社の手取りと合わせれば、家計はかなり楽になる。


 湊の靴。


 陽菜の書道。


 美咲が夜に開いていた家計簿。


 冷蔵庫に貼られた、小さなパパの絵。


 胸の奥が熱くなった。


 だが、次の瞬間、誠司はその熱を自分で抑えた。


 まだ入っていない。


 初めての振込は来月末だ。


 今、財布の中身が増えたわけではない。


 それでも。


 それでも、来月には入る。


 その事実だけで、昨日まで真っ暗だった先に、小さな明かりが見えた気がした。


「佐藤くん、何ニヤついてるの」


 向かいの席から同僚が言った。


 誠司は慌ててスマホを伏せた。


「いや、何でもないです」


 声が少し上ずった。


 休憩室の隅で、矢沢が紙コップのコーヒーを飲んでいる。こちらには気づいていない。テレビでは、どこかの事故と政治家の会見が音を絞って流れていた。


 誠司はもう一度、伏せたスマホに目を落とした。


 画面は見えない。


 けれど、そこにある数字だけは、まぶたの裏にはっきり残っていた。


      *


 その夜、誠司は美咲に言った。


「少しだけ、時給が上がった」


 夕飯のあとだった。


 テーブルには湊がこぼした麦茶の跡があり、美咲が布巾でそれを拭いていた。陽菜は宿題を広げ、湊は床に座って車のおもちゃを走らせている。窓の外では夜風が吹き、ベランダの洗濯ばさみがかすかに鳴っていた。


 美咲の手が止まった。


「本当?」


「うん。正式に任される作業が増えるみたいで」


「大丈夫なの? 身体」


「大丈夫。危ない仕事じゃないから」


 誠司はそう言った。


 鼻血のことは言わなかった。


 言えば、美咲は止める。


 止められたら、誠司はたぶん迷う。


 そして迷った自分を、また嫌になる。


 だから、言えなかった。


 美咲は誠司の顔を見た。


 少し長く見た。


 その視線に、誠司は耐えきれず、湊の方へ目を向けた。


「湊、靴、今度見に行こうか」


 湊の顔がぱっと上がった。


「ほんと?」


「うん。サイズも合ってないだろ」


「青いやつがいい!」


「まだ見てないのに決めるの早いな」


「青が速そうだから!」


 湊は両手で車のおもちゃを持ち上げた。


 美咲はその様子を見て、少しだけ笑った。


 けれど、その笑顔の奥に、心配は残っていた。


 誠司にも、それはわかった。


 わかったうえで、何も言えなかった。


      *


 週末、靴屋の店内には、明るい光が満ちていた。


 天井の照明が白い床に反射し、棚に並んだ色とりどりの靴を鮮やかに浮かび上がらせている。入口近くの自動ドアが開くたび、外の風が入り、店内の新しいゴムと布の匂いを揺らした。


 湊は真っ先に子ども靴の棚へ走った。


「走らない」


 美咲が言う。


「靴屋だから!」


「靴屋でも走らない」


 湊は少しだけ速度を落とした。本人としては歩いているつもりなのだろうが、足音は十分に弾んでいた。


 誠司は棚の前で立ち止まった。


 青いスニーカーがあった。


 白いラインが入っていて、靴底はしっかり厚い。湊の目が吸い寄せられるのがわかった。


「これ!」


 値札を見る。


 五千九百円。


 誠司は、一瞬だけ息を止めた。


 以前なら、迷った金額だ。


 今も、正直、迷う。


 バイト代はまだ入っていない。来月末までは、今ある貯金を崩すしかない。家計簿の数字が頭に浮かぶ。美咲が夜に電卓を叩いていた音が耳の奥で鳴った。


 かち。


 かち。


 足りない、と示した数字。


 けれど、湊の今の靴は限界だった。


 底の溝はほとんど消えている。昨日も少し滑ったと言っていた。待てば安いものが見つかるかもしれない。だが、その間に転んだら意味がない。


 誠司はしゃがみ、湊の足元を見た。


 今履いている靴は、かかとが斜めに削れていた。


 この子は、毎日この靴で走っている。


 校庭を、廊下を、家までの道を。


 誠司は値札をもう一度見た。


 そして、手に取った。


「いいよ。それにしよう」


 湊の目が丸くなった。


「ほんとに?」


「うん。履いてみよう」


 湊は嬉しそうに椅子へ座った。


 店員がサイズを測り、箱から新しい靴を出す。青いスニーカーは、店の光を受けてぴかぴかと輝いていた。湊が足を入れると、少し照れたように笑った。


「パパ! 見て! ぴかぴか!」


 湊はその場で足踏みした。


 新しい靴底が床を叩く。


 きゅっ、きゅっ、と明るい音がした。


 その音を聞いた瞬間、誠司の胸の奥に何かがこみ上げた。


 五千九百円。


 まだ手元にない未来のお金を信じて、今、この子の足に履かせた靴。


 報われたわけではない。


 まだ何も振り込まれていない。


 それでも、少しだけ前へ進んだ気がした。


 美咲はレジへ向かう誠司の少し後ろを歩いていた。


 湊は新しい靴のまま、何度も足元を見ている。


 店の外に出ると、午後の風が吹いていた。歩道脇の植え込みが揺れ、葉の間から細い光がこぼれている。遠くで車が通り過ぎ、アスファルトを低く鳴らした。


 湊が新しい靴で一歩踏み出す。


 軽い足音がした。


 美咲が、その後ろ姿を見ながら小さく言った。


「パパのおかげで買えたんだよ、湊」


 湊は振り返らなかった。


 新しい靴に夢中だった。


 けれど、誠司には聞こえていた。


 聞こえてしまった。


 誠司は何も言わず、少しだけ空を見上げた。


 雲の隙間から差した光が、目にまぶしかった。


      *


 その日の夜、別の場所で、玲奈は報告書を読み返していた。


 部屋には低い照明だけがついていた。机の上にはB-14区画の記録、安定値の推移、退避経路の形成ログが並んでいる。紙の端が空調の風でかすかに揺れた。


 榊原は窓際に立っていた。


 外は暗い。ガラスには室内の灯りだけが映っている。


「どう見る」


 榊原が言った。


 玲奈はしばらく答えなかった。


 記録の線を指でなぞる。


 安定値は急激には上げられていない。崩落圧力は段階的に逃がされ、退避経路は最短ではなく、崩落再発の低い迂回路が選ばれている。


「この人は、怖がりながら操作しています」


 玲奈は静かに言った。


「怖がりながら?」


「はい。迷って、考えて、それでも人を見捨てない方を選んでいる」


 紙の上の数字には、表情などない。


 だが、玲奈には見えた。


 急ぎたいはずなのに、急ぎすぎない手。


 最短を選びたいはずなのに、安全な遠回りを選ぶ目。


 押し切るのではなく、壊れないように触れる指。


「天才ではありません」


 玲奈は続けた。


「でも――こういう人に、管理者になってほしかった」


 声が少しだけ低くなる。


 三年前の夜が、言葉の奥で静かに揺れた。


「ずっと」


 榊原は振り返らなかった。


 しばらく、沈黙があった。


 重い沈黙だった。


 誰もいない廊下の奥で、空調の音だけが続いている。窓の外では風が建物の角を撫で、かすかな唸りを残して消えた。


 やがて榊原が言った。


「守るぞ」


 玲奈は顔を上げる。


 榊原の背中は、窓に映る自分の影と重なっていた。


「この管理者は」


 その声には、迷いがなかった。


 玲奈は静かに頷いた。


 机の上の記録には、まだ名前はなかった。


 ただ、記号だけが残っている。


 S.S。


 その向こうで、佐藤誠司は何も知らず、息子の新しい靴音に耳を澄ませている。


 夜の道を、湊が少し先で跳ねるように歩いていた。


 青いスニーカーが、街灯の下で一瞬だけ光る。


 誠司は、その足音を聞きながら、家族の後ろを歩いた。


 まだバイト代は一円も届いていない。


 届いたのは、息子の新しい靴がアスファルトを叩く、軽い音だけだった。

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