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減給された40代社畜、深夜バイトで国家級ダンジョンの管理者になる  作者: Gaku
第1部:深夜バイト編

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22/30

第22話 早朝五時の背中 〜帰る場所は背中に宿る〜

窓の外では、夜がまだ完全には終わっていなかった。


 高層ビルの隙間に残った暗さが、街の底へゆっくり沈んでいる。東の空だけが薄くほどけ始め、雲の縁に、灰色と青を混ぜたような光が滲んでいた。


 黒瀬環は、灯りを落とした解析室に一人で座っていた。


 机の上には、紙の資料が整然と積まれている。端に揃えられた付箋。角度を揃えて置かれたペン。冷めきった紙コップのコーヒー。表面には薄い膜が張り、蛍光灯の光を鈍く返していた。


 部屋の空調は弱い。


 それでも、首筋の奥に冷えが残っている。眠気ではない。疲労でもない。胸の奥に小さな針を刺されたような緊張が、ずっと消えなかった。


 モニターには、施設周辺の映像が並んでいた。


 夜の公道。


 通用口。


 歩道。


 信号機。


 コンビニの前。


 駅へ向かう細い道。


 どれも、一見すれば何の変哲もない早朝の風景だった。画質は荒く、色は浅い。人の顔は潰れ、車のナンバーもぼやけている。街灯の光は白く滲み、画面の端では小さな虫のようなノイズがちらついていた。


 だが、黒瀬はそこから目を離さなかった。


 マウスを動かす指先は、冷えていた。


 何時間も同じ映像を見続けたせいで、右手の中指に鈍い痛みがある。肩は硬く、背中の筋肉は板のように張っている。それでも姿勢は崩さない。少しでも気を緩めれば、見落とす。


 見落とせば、誰かが先に辿り着く。


 それだけは避けなければならなかった。


「カメラ三番。午前五時台」


 黒瀬は小さく呟いた。


 声は室内に吸い込まれ、すぐ消えた。返事をする者はいない。壁際の機器が低く唸り、その音だけが床を薄く震わせていた。


 画面の中で、施設の通用口が映っている。


 夜明け前の道は濡れていた。雨が降った後なのか、歩道の端に浅い水たまりが残っている。街灯の光がそこに落ち、揺れない月のようにぼんやり光っていた。


 人通りはほとんどない。


 時折、新聞配達のバイクが通り過ぎる。ヘッドライトが画面の端を横切り、建物の壁に白い帯を作って消える。遠くの交差点では信号が規則正しく変わっているのに、渡る人間はいない。


 午前五時二十二分。


 通用口が開いた。


 黒瀬の指が止まった。


 画面の中から、一人の男が出てきた。


 顔は見えない。


 カメラの角度が悪い。逆光もある。画面の粗さも邪魔をしている。人物の輪郭は、夜明け前の空気に溶けるようにぼやけていた。


 それでも、背中は見えた。


 スーツ姿。


 肩に掛けた、くたびれた鞄。


 少し丸まった背。


 歩き出す前に、ほんの一瞬だけ立ち止まる癖。


 男は、通用口の前で空を見上げた。


 黒瀬は息を止めた。


 画面の中の男は、何かを探しているように見えた。星を見たわけではない。天気を確認しただけかもしれない。あるいは、疲れ切った体を起こすために、冷たい朝の空気を胸へ入れただけかもしれない。


 けれど、その仕草だけが妙に人間らしかった。


 任務中の者の動きではない。


 逃走者の動きでもない。


 秘密を抱えた危険人物の動きでもない。


 ただ、疲れた人間が、朝の空を見上げている。


 黒瀬は映像を巻き戻した。


 通用口が開く。


 男が出てくる。


 立ち止まる。


 空を見上げる。


 歩き出す。


 もう一度、巻き戻す。


 通用口が開く。


 男が出てくる。


 立ち止まる。


 空を見上げる。


 歩き出す。


 三度目に再生した時、黒瀬は自分の手に力が入りすぎていることに気づいた。


 爪が手のひらに食い込んでいた。


 痛みが遅れて来る。小さく息を吐くと、胸の奥が冷たく震えた。


「……あなた、帰る場所があるんですね」


 声は、思っていたよりもかすれていた。


 男は歩道を駅の方向へ進んでいく。


 足取りは重い。右足がほんの少し遅れる。肩は落ち、鞄の紐が何度もずり落ちそうになる。そのたびに男は無意識に肩を上げ、鞄を直す。


 画面越しでも分かるほど、疲れていた。


 けれど、歩く方向には迷いがない。


 帰る道を知っている人間の歩き方だった。


 黒瀬の目の奥に、別の背中が重なった。


 細い背中。


 少し猫背で、疲れているのに、家の前では必ず一度だけ姿勢を直す背中。


 子どもの頃、玄関のすりガラス越しに見たその影を、黒瀬は今でも覚えている。夜遅く、鍵の音がして、靴を脱ぐ小さな音がした。母が台所から顔を出し、兄が「ただいま」と言う。その声がいつもより低い日は、何かあったのだと幼い黒瀬にも分かった。


 でも、兄は家に入る前に、必ず息を整えていた。


 心配させないためだったのだと、後になって知った。


 画面の男も、同じように見えた。


 誰かに疲れた顔を見せないために、朝の空を見上げたのではないか。


 そんなことを考えた瞬間、黒瀬は唇を噛んだ。


 感情を入れすぎてはいけない。


 この男がS.Sである可能性は高い。だが、まだ断定できない。顔は不鮮明。名前もない。あるのは時刻と背中と、疲れた歩き方だけだ。


 それでも、胸の奥が痛んだ。


 あの通用口から出てくる者が、世界を揺るがす何かに関わっているなら。


 そして、その者に帰る場所があるなら。


 見つけることと、守ることは、同じではない。


 黒瀬は画面を停止した。


 午前五時二十二分。


 男が空を見上げた瞬間で止める。


 粗い映像の中で、男の顔は影になっていた。けれど、首の角度と肩の落ち方だけが、はっきり残っている。


 部屋の外で、誰かの足音がした。


 廊下を歩く硬い靴音。規則正しく、迷いがない。近づき、通り過ぎ、遠ざかっていく。扉の前には止まらなかった。


 黒瀬はその音が消えるまで、動かなかった。


 室内にはまた、機械の低い唸りだけが残る。


 その静けさは、重かった。


 誰もいないから静かなのではない。言ってはいけないこと、まだ確かめてはいけないこと、急ぎすぎれば壊してしまうかもしれないものが、部屋の空気を押し下げている。


 黒瀬は深く息を吸った。


 冷めたコーヒーに手を伸ばし、途中でやめる。代わりに、キーボードへ指を置いた。


「保存」


 画面に小さな入力欄が開く。


 黒瀬は迷わず打ち込んだ。


【S.S_施設退出映像_05:22】


 保存完了の表示が出る。


 それを確認してから、黒瀬は別の画面を開いた。


 改札の利用記録。


 早朝の駅周辺。


 同時刻帯に移動した人物の流れ。


 まだ名前はない。顔もない。だが、点は確実に増えている。施設の通用口から駅へ向かう背中。早朝の時刻。帰宅するような足取り。S.Sという断片。


 黒瀬は画面を見つめたまま、低く言った。


「この時刻と駅の記録を合わせます」


 誰に向けた言葉でもない。


 自分に言い聞かせるための声だった。


「先に辿り着く必要があります。あの会社よりも先に」


 口にした瞬間、空気が少し冷えた気がした。


 オービットゲート社。


 その名を思い浮かべるだけで、黒瀬の背筋に細い緊張が走る。彼らがS.Sを見つけた時、保護するとは限らない。話を聞くとも限らない。


 利用する。


 奪う。


 追い詰める。


 そんな言葉の方が、ずっと自然に浮かぶ相手だった。


 画面の男は、また歩き出している。


 黒瀬は再生を止めずに見続けた。


 男はポケットからスマホを取り出した。画面を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。誰かからの連絡かもしれない。時刻を確認しただけかもしれない。


 それでも黒瀬には、その小さな動きが妙に胸に残った。


 帰る場所がある。


 待っている誰かがいる。


 その事実だけで、人は弱くなる。


 そして、強くもなる。


 黒瀬は停止ボタンを押した。


 早朝の薄い光の中、疲れた男の背中が画面に残った。


 その背中は、まだこちらを知らない。


 黒瀬環という人間が、自分を見つけようとしていることも。


 別の誰かが、その存在を利用しようとしていることも。


 そして、自分がすでにいくつもの矢印の中心に立ち始めていることも。


 何も知らないまま、男は朝の道を歩いていた。


 黒瀬はモニターの光を浴びながら、背筋を伸ばした。


 窓の外で、夜が剥がれ落ちていく。


 ビルの谷間から差し込んだ淡い朝日が、ブラインドの隙間を抜け、机の上の資料に細い線を作った。埃がその光の中でゆっくり舞っている。まるで、見えなかったものが少しずつ形を持ち始めるようだった。


 黒瀬は保存した映像ファイルをもう一度見た。


 そして、声を落として呟いた。


「守るために、見つけます」


 画面の中の男は、何も答えない。


 ただ、肩を落としたまま、駅へ向かって歩いていた。



 その頃、別の場所でも、細い光が一本の線になろうとしていた。


 昼を少し過ぎた会議室には、人の気配がほとんどなかった。大きな窓から差し込む陽射しは強く、机の上に広げられた地図の白い部分を眩しく照らしている。ブラインドの隙間から入った光は細い縞になり、紙の上を斜めに切っていた。


 窓の外では、街路樹の葉が風に揺れている。


 まだ夏には遠い。けれど、日向の空気には少しだけ熱が混じり始めていた。葉が擦れる音が、閉じた窓越しに薄く聞こえる。遠くの道路では車の流れが途切れず、低い走行音が床の下を這うように響いていた。


 犬飼陸斗は、地図の上に身を乗り出していた。


 手元には数枚の紙がある。そこには、これまで確認された光の筋の方向が、簡単な線で記されていた。線は雑に見える。だが、何度も書き直した跡があった。消しゴムで擦られ、紙の表面が少し毛羽立っている。


「ここが一地点目で、こっちが二地点目です」


 犬飼は鉛筆の先で地図を押さえた。


 爪の横には小さな傷があり、乾いた血が黒くなっていた。本人は気づいていないのか、痛がる様子もない。


「それで、こっちが三地点目。全部、見え方は違ったんですけど……向きだけは、妙に揃ってるんです」


 神代玲奈は黙って地図を見下ろしていた。


 長い髪が肩から少し落ち、窓の光を受けて細く艶を帯びる。彼女の表情は静かだった。だが、目だけは紙の上を鋭く追っていた。


「偶然にしては、揃いすぎているわね」


「はい。最初は、自分の見間違いかと思いました。あの時、焦ってましたし、怖かったし」


 犬飼は一度、言葉を切った。


 会議室の空気が少し沈む。


 窓の外で、強い風が吹いた。街路樹の葉が一斉に裏返り、白っぽく光る。ざあっという乾いた音が、閉じた窓を越えて小さく届いた。


 犬飼の喉が動いた。


「でも、思い出すと、やっぱり同じなんです。あの光は、どこかから来てた。自分を助けるために、そこから伸びてきたみたいに」


 玲奈は何も言わなかった。


 沈黙は、否定ではなかった。犬飼の言葉を地図の上に置き、その重さを確かめているような静けさだった。


 犬飼は鉛筆で、三本の線をゆっくり延ばした。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 かすかな黒鉛の音が、紙の上を走る。しゃっ、しゃっ、と乾いた音。そのたびに、犬飼の呼吸が浅くなっていった。


 三本の線は、完全に同じ点ではなかった。


 けれど、近い。


 狭い範囲に集まっている。


 玲奈の指が、線の交わるあたりで止まった。


「ここ」


 犬飼は息を呑んだ。


 地図の上では、特別な場所には見えなかった。大きな看板があるわけでも、目立つ公共施設があるわけでもない。駅から少し離れた、古い建物が並ぶ一角。昼間なら人通りもそれなりにあるだろうが、夜になれば影に沈むような場所だった。


「管理端末の場所じゃないかしら」


 玲奈の声は低かった。


 犬飼はゆっくり顔を上げた。


「管理者さんが、そこにいるってことですか」


「いる、とは限らない。でも、関係はある」


 玲奈は地図から目を離さない。


「光が伸びた方向が、すべてここに戻るなら、そこに何かがある。管理者本人か、管理者が触れているものか、あるいは管理者につながる入口か」


 犬飼の胸が、強く鳴った。


 会いたい。


 その思いが、あまりにも真っ直ぐに込み上げてきて、自分でも戸惑った。


 命を救われた。


 無駄に死ぬなと言われた。


 誰の声だったのか、本当に声だったのかさえ分からない。けれど、あの瞬間、犬飼は確かに引き戻された。暗い穴の底に落ちかけた自分を、誰かが掴んでくれた。


 その誰かが、地図の上の一点に近づいている。


 そう思っただけで、指先が熱くなった。


「行きましょう」


 犬飼は言った。


 声が少し上擦っていた。


「今すぐ確認しましょう。もし本当にそこにいるなら、ちゃんと礼を言わないと」


 玲奈は犬飼を見た。


 その視線は厳しくはなかった。ただ、冷たい水を掌に落とすように、浮き上がった熱を静かに鎮めるものだった。


「陸斗」


「はい」


「この情報は、まだ誰にも言わないで」


 犬飼は口を開きかけ、止まった。


 玲奈の顔から、柔らかさが消えていた。


 窓の外の光が少し傾き、彼女の横顔に細い影を落としている。その影のせいで、目元の緊張がいっそう深く見えた。


「先に辿り着いた側が、管理者との関係を決めることになる」


「関係……」


「私たちは保護したい。話を聞きたい。無理に連れ出すつもりも、利用するつもりもない」


 そこで玲奈は、ほんのわずかに声を落とした。


「でも、他の誰かも同じとは限らない」


 犬飼の背中に、冷たいものが落ちた。


 会議室の空調が動き、天井から弱い風が流れてくる。机の端に置かれた紙が一枚、かすかにめくれた。その音がやけに大きく聞こえた。


「管理者さんが、危ないってことですか」


「すでに危ない場所にいる可能性が高いわ」


 玲奈は地図の一点を見つめたまま言った。


「それでも、本人が自分の危険を分かっているとは限らない」


 犬飼は何も言えなくなった。


 管理者。


 その言葉から思い浮かべていたのは、もっと遠い存在だった。強く、冷静で、何でも分かっていて、自分たちを上から見守っているような人。


 けれど、もし違ったら。


 もし、どこかの建物の中で一人、誰にも知られず、疲れ果てながら端末に向かっている人だったら。


 その想像は、犬飼の胸にうまく収まらなかった。


 玲奈は静かに地図を畳んだ。


 紙が折れる音が、乾いて響く。


「動くなら慎重に。会いたい気持ちだけで近づけば、相手を追い詰める」


「……はい」


「守るために探すの。探すために傷つけたら、意味がない」


 犬飼は唇を結んだ。


 窓の外で、また風が吹いた。葉が擦れ、光の粒が揺れる。会議室の中にいるのに、どこか遠くで草原が波打っているような音がした。


 犬飼は畳まれた地図を見つめた。


 そこにいるかもしれない人。


 まだ顔も知らない人。


 自分を救ってくれた人。


 そして、誰かに狙われるかもしれない人。


「管理者さん」


 犬飼は小さく呟いた。


「今度は、こっちが見つけます」


 その声は、窓を叩く風よりも小さかった。


 けれど玲奈は聞き逃さなかった。


「見つけるだけじゃないわ」


 玲奈は立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦り、短く硬い音を立てる。


「間に合わなければいけない」


     *


 同じ日の午後、佐藤誠司は会社の洗面所で右目を見ていた。


 鏡の中の自分は、ひどく冴えない顔をしている。


 蛍光灯の白い光が、肌のくすみを容赦なく浮かび上がらせていた。目の下には薄い影があり、頬は少しこけて見える。髭を剃ったはずなのに、顎のあたりにはもう青黒さが戻り始めていた。


 右目の端は、まだ赤かった。


 血は止まっている。痛みも強くはない。けれど、目尻の奥に、昨夜の熱が残っていた。深い場所を覗いた時の、あの焼けるような痛み。


 水道の蛇口から、水が細く落ちている。


 誰かがきちんと閉めなかったのだろう。ぽたり、ぽたり、と一定の間隔で水滴が白い陶器を叩く。その音が、妙に大きく響いた。


 誠司は蛇口を締めた。


 水音が止まる。


 途端に、洗面所は静かになった。


 廊下の向こうから、コピー機の動く音が聞こえる。誰かの笑い声。電話の呼び出し音。靴音。パソコンのキーを叩く音。全部が薄い壁越しに混ざって、昼の会社らしいざわめきになっていた。


 この場所は、何も知らない。


 昨夜、自分が何を見たのか。


 四つの影がどれほど弱く、どれほど重かったのか。


 柴田が「あの四人」と言った時の声が、どれだけ冷えていたのか。


 誰も知らない。


 それが少しだけ救いで、同じくらい苦しかった。


「佐藤さん?」


 背後から声をかけられ、誠司は肩を揺らした。


 振り返ると、後輩社員が入口に立っていた。片手に資料を持ち、心配そうにこちらを見ている。


「大丈夫ですか。目、かなり赤くないですか」


「ああ……ちょっとな。ドライアイだよ」


 言い慣れていない嘘は、喉の奥で少し引っかかった。


 後輩はまだ心配そうだったが、すぐに資料を差し出した。


「すみません。この集計、午後までに確認お願いできますか。課長が急に必要だって」


「分かった。置いといて」


「助かります」


 後輩は頭を下げ、足早に戻っていった。


 誠司は資料を受け取ったまま、しばらく動かなかった。


 紙の重さが、手に現実を戻してくる。


 数字。


 表。


 締め切り。


 上司。


 会議。


 昼休みの終わり。


 世界は、当たり前の顔をして続いている。


 誠司はもう一度だけ鏡を見た。


 そこには、管理者と呼ばれる男はいなかった。


 寝不足で、目が赤くて、安いシャツの袖口に小さな染みを作った中年の会社員がいるだけだった。


 それなのに。


 胸の奥には、まだ広大な感覚が残っていた。


 B区画の温かさ。


 C区画の眠り。


 D区画の不安。


 そして、底に沈む四つの影。


 誠司は目を閉じた。


 四つ目の影が、こちらを向いた気がする。


 帰りたい。


 声にならない思いが、まだ耳の奥ではなく、胸の内側に残っていた。


「佐藤さん、会議始まりますよ」


 遠くから別の声がした。


「ああ、今行く」


 誠司は目を開け、資料を抱え直した。


 洗面所を出ると、廊下の窓から午後の光が斜めに差し込んでいた。床に伸びた光の帯を、社員たちの靴が次々と踏んでいく。革靴の硬い音。パンプスの軽い音。台車の車輪が小さく軋む音。


 誠司も、その中を歩いた。


 いつもの会社。


 いつもの廊下。


 いつもの仕事。


 けれど、ほんの少しだけ、自分の足元が違う場所につながっているような気がした。


     *


 黒瀬は監視カメラの背中を保存した。


【S.S_施設退出映像_05:22】


 玲奈は畳んだ地図を胸元に抱え、線が集まる一点を指でなぞった。


 二つの場所で生まれた別々の矢印が、まだ名前も顔も知らない一人の男へ向かって、静かに伸び始めていた。

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