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私を嫌う理由を、私は知らない  作者: 花水木 鳥夢


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6/8

デンジャラス幕の内 ザ・ペンデュラム

バーの事件の翌日。


非現実的な昨夜の出来事を頭の片隅に置き、紗季は不安な気持ちで出社した。


午前九時十二分。


スマートフォンが震えた。


知らない番号だった。


「はい、水瀬です」


『水瀬紗季さんのお電話でよろしいでしょうか。私、東署刑事課の森田と申します』


心臓が跳ねた。


『昨夜、バーで起きた傷害事件について、お話を伺いたいのですが』


来た。


やっぱり、来た。


「……はい」


『黒田さんから事情を聞いております。水瀬さんも現場にいらっしゃいましたよね』


「はい」


『お電話番号は黒田さんから伺いました。できれば今日、警察署へお越しいただけませんか。事件の状況を確認したいんです』


紗季は周囲を見回した。


オフィスには、いつもの朝が流れている。


キーボードを叩く音。


電話の呼び出し音。


コピー機の作動音。


そのどれもが、今の紗季には恐ろしかった。


「……私、逮捕されるんですか?」


電話の向こうで、森田が少し驚いたように答えた。


『いえ、現時点では参考人としてお話を伺うものです。黒田さんにけがをさせた人物について、確認したいことがありまして』


紗季は唇をかんだ。


レン。


あの綺麗な顔が浮かんだ。


『午後二時はいかがでしょう』


「……分かりました」


電話を切った。


画面には、昨夜のレンとのやり取りが残っている。


『今度は普通に(笑)』


『瓶は禁止で』


思わず笑ってしまった、あの言葉。


今は笑えなかった。




午後二時。


紗季は警察署の受付で名前を告げた。


案内されたのは、小さな机と椅子のある部屋だった。


灰色の机。


壁の時計。


蛍光灯の白い光。


映画で見るような、薄暗い取調室ではない。


だが、落ち着かなかった。


「水瀬さんですね。刑事課の森田です」


四十代くらいの男性が名刺を差し出した。


隣には若い女性警察官が座っている。


「今日はお時間をいただいて、ありがとうございます」


森田はノートを開いた。


「まず、昨夜のことを最初から教えてください」


紗季は話した。


仕事帰りに、初めてバーへ入ったこと。


そこで、たまたま隣にいた男性と話したこと。


黒田が現れ、腕をつかまれたこと。


やめてほしいと伝えても、離してもらえなかったこと。


そして。


「その男性が、黒田係長を止めようとして……」


紗季は言葉に詰まった。


「頭突きをして、そのあと、瓶で……」


森田が頷いた。


「黒田さんは頭部などにけがをされています。診断書も確認しています」


「……そうですか」


「あなたも腕をつかまれたんですね」


「はい」


「その男性が暴力を振るう前に、黒田さんから殴られたりはしましたか」


「いいえ」


「男性の方が、黒田さんに手を離すよう言ったんですね」


「……はい」


森田は丁寧に順番を確認していった。


言い直した部分も、もう一度聞かれた。


「では、その男性について伺います」


紗季の背筋が伸びた。


「年齢は?」


「……二十代後半から三十歳くらいだと思います」


「身長は?」


「百七十……五センチくらいでしょうか」


「服装は?」


「黒いシャツでした」


「お知り合いですか?」


「……いいえ」


「初めて会った?」


「はい」


森田がペンを止めた。


「お名前は分かりますか?」


紗季は膝の上で拳を握った。


蓮。


名前は知っている。


連絡先も持っている。


昨夜、メッセージまで交わした。


「……分かりません」


嘘だった。


森田は何も言わず、次の質問をした。


「店を出たあと、その男性と一緒にいましたか?」


紗季は顔を上げた。


「……どうしてですか?」


「店の方から、お二人が一緒に出ていったと伺っています」


胸が締めつけられた。


「少しだけ……一緒に歩きました」


「どちらへ?」


「……近くの公園です」


「そこで何を?」


「少し話して……そのあと別れました」


「連絡先は交換しましたか?」


紗季は俯いた。


答えれば、レンに警察の捜査が及ぶ。


あの男は人を傷つけた。


それは事実だ。


でも。


あのとき、誰も助けてくれなかった。


会社でも。


バーでも。


黒田が自分をつかんだとき、動いてくれたのはレンだけだった。


「……交換していません」


森田が静かに頷いた。


「分かりました」


紗季は目を伏せた。


守ってもらった。


だから、今度は私が守る。


そう考えようとした。


けれど、頭の片隅で別の声がした。


本当に、それでいいの?


「もう一点あります」


森田がページをめくった。


「黒田さんは昨夜、入院先で脅迫の電話を受けたと話しています」


「……脅迫?」


「水瀬さんに近づくな、という内容だったそうです」


紗季は顔を上げた。


「えっ……」


「発信者の表示は公衆電話だったとのことです。何か心当たりはありますか?」


「ありません」


これは本当だった。


レンだろうか。


でもレンは黒田の番号を知るはずがない。


それとも、別の誰か?


「黒田さんは、昨日の男性か、あなたの関係者ではないかと考えているようです」


「……私は何も知りません」


「分かりました。今の段階で決めつけているわけではありません」


森田はそう言った。


その後、話した内容を確認しながら、供述調書が作られた。


紗季は、記載された文章を読んだ。


黒田に腕をつかまれたこと。


男性が止めに入ったこと。


頭突きと瓶による一撃。


そして。


**『男性の氏名及び連絡先は知らない』**


そこだけ、長く目が止まった。


「内容に違いはありませんか」


森田が聞いた。


紗季はしばらく黙っていた。


「……ありません」


求められた署名をした。


警察署を出たのは、午後四時を過ぎていた。


外の空気を吸う。


息が苦しかった。




その夜。


森田は捜査資料を整理していた。


バーの従業員からは、すでに事情を聞いている。


男は常連客ではなかった。


店に予約情報はない。


支払いからも、現金を慌てて投げるように置いたくらいで今のところ確かな氏名にはつながっていない。


周辺の防犯カメラについても確認を進めていたが、映像に姿が残っていたとしても、それだけですぐ身元が判明するわけではない。


目撃者が語った特徴は、二十代から三十代、黒い服、整った顔立ち。


それだけでは候補を絞りきれない。


「……被害者も、あんまり詳しく知らないようだな」


隣の警察官が言った。


森田は首を傾げた。


「どうかな」


「何か気になります?」


「店を出たあと、一緒に公園まで行ってるんだよな」


森田は紗季の調書を見た。


「初対面の男と、あんな事件の直後に」


「怖くて断れなかったのかもしれませんね」


「その可能性もある」


森田はペンを置いた。


「もう少し確認しよう」


捜査は、まだ始まったばかりだった。




そして翌日。


黒田が出勤してきた。


頭には包帯。


鼻には保護用のテープ。


いつもの脂ぎった顔に、不機嫌そうな皺が刻まれている。


「おはようございまーす!」


必要以上に大きな声だった。


誰も返事をしない。


黒田は紗季を見つけると、にやりと笑った。


「おお、水瀬ちゃん!」


紗季は体を固くした。


「……おはようございます」


「いやあ、俺もすっかり有名人だよ。まさか部下の女の子に、こんな目に遭わされるとはねえ」


黒田は包帯を指で叩いた。


「……私は何もしていません」


「おっと! 出ました! 水瀬さんお得意の『私は何もしてません』!」


わざと両手を広げた。


「いやあ、便利な日本語だよねえ。何があってもそれ言っときゃいいんだから」


「……」


「俺だって言いたいよ。『何もしてないのに頭割られました』ってな!」


黒田は周囲を見回した。


「なあ、みんな。これって労災になるのかな? 部下の女の子に嫌われすぎて殴られるっていう新しい労災!」


誰も笑わなかった。


黒田の口元が引きつった。


「……何だよ。冗談も通じねえのか」


そして紗季へ顔を近づけた。


「ま、いいや。お前のことは許してあげる」


「……」


「感謝しろよ? 普通ならお前、もう会社いられないからな」


黒田は満足そうに笑った。


「俺って優しい上司だろ?」


紗季は答えなかった。


「おい。人が話してんだよ」


「……はい」


「はい、じゃなくて?」


紗季は唇をかんだ。


「……ありがとうございます」


「よし!」


黒田は嬉しそうに頷いた。


「素直な女の子は可愛いねえ!」




最初は、書類だった。


「水瀬ちゃーん! お仕事ですよー!」


黒田が両手いっぱいのファイルを抱えてきた。


ドサッ!


机の上に積み上げる。


伝票の照合。


過去三年分の契約書整理。


古い取引先の住所録修正。


通常業務に加えて、次から次へと渡される。


「係長……これ、全部ですか?」


「うん。全部」


「今日中に?」


「そうだよ」


「でも、通常業務もあるので……」


黒田は目を丸くした。


「えっ?」


「……」


「えっ、何? 俺に甘えてんの?」


「違います」


「構ってほしいの? お父さんに甘えるみたいに?」


黒田は自分の胸を叩いた。


「残念でした! 俺はお前のお父ちゃんじゃありませーん!」


紗季は黙った。


黒田は急に真顔になった。


「で?」


「……はい?」


「仕事が多いと、何か問題があるの?」


「時間的に難しいと思います」


「はあ……」


黒田は深いため息をついた。


「水瀬よお。お前には、お父ちゃんとお母ちゃんからもらった立派なおつむがあるじゃないか」


自分のこめかみを指で叩く。


「使おうよ、ここ。飾りじゃないんだからさあ」


「……」


「それとも何? 顔の下に首がついて、その上に頭が乗ってるだけ?」


黒田は突然、自分で笑い始めた。


「ぶははっ! 俺、今ちょっといいこと言ったな!」


紗季は何も言い返せなかった。


「で、終わるの? 終わらないの?」


「……できる限りやります」


黒田の表情が険しくなった。


「できる限り?」


「……」


「お前さあ、できる限りって何? それ、できなかったときの保険かけてんの?」


「そういう意味では……」


「逃げ道作んなよ!」


黒田が机を叩いた。


周囲の社員が顔を上げる。


黒田はすぐに笑顔へ戻った。


「おっとっと。いけない、いけない。俺まで悪者にされちゃう」


そして、小声で言った。


「お前、すぐ人に言いつけるからな」


紗季は背筋を硬くした。


神宮司部長には、ハラスメントを報告してある。


事実確認も進めると言われた。


だが、黒田の業務指示は止まっていない。


紗季は書類を片づけた。


昼休みを削った。


残業もした。


それでも黒田は不満そうだった。


「いやあ、遅いなあ。カタツムリにパソコン覚えさせた方が早いんじゃない?」


翌日。


「おい、水瀬。これ間違ってんぞ。……あー、いいよいいよ。お前に期待した俺が悪かった」


さらに翌日。


「お前ってさあ、周りに嫌われてる理由、分かってんの?」


紗季は顔を上げた。


「……何ですか」


黒田は嬉しそうに笑った。


「そういうとこだよ!」


「……」


「自分に問題があるかもって、考えないだろ?」


「……」


「自分は悪くない。周りが悪い。上司が悪い。社会が悪い!」


黒田は指を一本ずつ折った。


「そりゃ人も離れるわなあ!」


紗季は唇をかんだ。


怒れば、また何をされるか分からない。


耐えれば、いつか終わるかもしれない。


そう思っていた。


だが。


水曜日、午前十時。


黒田が一枚の企画書を持って現れた。


「水瀬ちゃーん。今日はスペシャルなお仕事を持ってきましたよー!」


嫌な予感がした。


「……何でしょうか」


「営業」


「……営業?」


「そう。飛び込み!」


黒田は両手を広げた。


「おめでとうございます! 水瀬さん、本日より営業デビューでーす!」


紗季は企画書を受け取った。


「私、営業担当ではありませんが……」


「はい、出た!」


黒田が手を叩いた。


「『私の仕事じゃありません』 いやあ、さすが水瀬さん! 守備範囲が狭いねえ!」


「そういう意味ではなく、部署の管轄外なので……」


「管轄? 管轄って何?」


黒田はわざと首を傾げた。


「お前、警察官にでもなったの?」


「……」


「仕事に線引いて、自分の縄張り守ってんの? 猫ちゃんかな?」


黒田は両手を丸めた。


「ニャー!」


周囲が静まり返った。


黒田は咳払いした。


「……ほんっと、冗談通じねえ職場だな」


そして、紗季へ向き直った。


「お前さあ。会社員って何だと思ってんの?」


「……」


「給料もらってんだろ?」


「はい」


「じゃあ仕事しろよ! 会社はお前の託児所じゃねえんだぞ!」


紗季は企画書に目を落とした。


そこには、見慣れない会社名があった。


**株式会社デンジャラス弁当配達社**


「……デンジャラス?」


「おっ! やっと興味持ったか!」


黒田は得意げに言った。


「うちのグループ会社の子会社だよ。グループ本体の社長の息子さんが経営してんの!」


紗季は聞いたことがあった。


社長の息子が立ち上げた弁当配達事業。


開業以来、毎年赤字。


配送コストの増大。


大量の売れ残り。


商品開発費ばかりが膨らみ、社内でも問題視されている事業だった。


「今回、すごい新商品が出たんだよ」


黒田は企画書の表紙を叩いた。


「これが売れれば、一発逆転だ!」


紗季はページをめくった。


そして、目を疑った。


**デンジャラス幕の内 ザ・ペンデュラム**


希望小売価格。


**二、三〇〇円(税込)**


「……え?」


「何?」


「これ、幕の内弁当ですよね?」


「そうだよ」


「二千三百円?」


黒田の顔が歪んだ。


「高いって言いたいの?」


「いえ、そういうわけでは……」


「お前、貧乏くさいなあ!」


黒田はため息をついた。


「高級路線だよ、高級路線! お前みたいに値札だけ見て判断する女には分かんないかもしんないけど!」


紗季は商品写真を見た。


白米。


唐揚げ。


焼き魚。


卵焼き。


煮物。


漬物。


ごく普通の幕の内弁当だった。


「……何がデンジャラスなんでしょうか」


黒田の眉が跳ね上がった。


「はあ!?」


「いえ、商品の特徴を確認したくて……」


「お前、社長の息子さんが三か月かけて考えた商品名にケチつけんの!?」


紗季は黙った。


三か月。


この名前に。


「ペンデュラムってのは振り子って意味なの!」


黒田は腕を振った。


「人生は振り子のように揺れる! だが、最後には幸福へ戻ってくる!」


「……はい」


「素晴らしいだろ!」


紗季は弁当の写真を見つめた。


振り子と唐揚げの関係が分からない。


「で、お前の仕事は卸先の新規開拓」


「……新規開拓?」


「ホテルでも、会社の売店でも、飲食店でもいい。取り扱ってくれるところを探してこい!」


「営業資料や取引条件は……」


「はいはい、質問ばっかり!」


黒田は手を振った。


「お前さあ。質問っていうのは、ある程度仕事できる人間がするもんなんだよ」


「……」


「仕事できないやつが質問ばっかりすると、それはもう質問じゃなくて、言い訳なの!」


紗季は企画書を握りしめた。


「……目標は何社ですか?」


黒田は五本の指を立てた。


「五社!」


「五社?」


「そう。五社と契約!」


「いつまでですか?」


「今週中」


今日は水曜日。


残り三営業日。


「……無理です」


紗季は初めて、はっきり言った。


黒田の顔から笑みが消えた。


「……今、何て言った?」


「営業経験がありませんし、卸価格や配送条件も分からない状態で、三日で五社は……」


「無理?」


「……はい」


黒田は腕を組んだ。


そして、わざと大きく頷いた。


「なるほどねえ」


「……」


「お前、自分の限界を勝手に決めちゃうタイプなんだ?」


紗季は黙った。


「俺はな、お前の可能性を信じて仕事を与えてるんだよ」


黒田は自分の胸を叩いた。


「なのに、お前は俺を信じない!」


「……」


「これ、どっちが悪いの? ねえ、どっち?」


「そういう話では……」


「いや、そういう話だろ!」


黒田が机を叩いた。


「お前、人の善意を踏みにじる天才だな!」


周囲の社員が振り向いた。


黒田は声を落とした。


「……俺さあ、頭にこんな包帯巻いてまで会社来てんだぞ?」


「……」


「被害者の俺が、お前に仕事を与えてあげてんの」


黒田はゆっくりと言った。


「普通なら感謝する場面だよねえ?」


紗季は拳を握った。


「……この仕事は神宮司部長も了承されているんでしょうか」


黒田の笑顔が止まった。


「……は?」


「部長に確認したいんですが」


黒田は紗季を睨んだ。


数秒後、突然笑った。


「ぶっ……ははは!」


「……?」


「すごいね、お前!」


黒田は腹を抱えた。


「小学生かよ! 先生に言いつけるのかよ!」


紗季は黙った。


黒田は顔を近づけた。


「お前なあ。何かあるたびに上に言いつけて、自分だけ助かろうとするだろ?」


「私は確認したいだけです」


「そういうのを告げ口って言うんだよ!」


「……」


「だから友達できないんじゃない?」


紗季の胸が痛んだ。


黒田はそれを見て、満足そうに笑った。


「まあ、いいや。確認したけりゃすれば?」


「……はい」


「ただし!」


黒田は指を突きつけた。


「今回の仕事、五社取れなかったら人事評価に書いとくから」


「……え?」


「『自主性なし』『協調性なし』『指示理解力なし』」


黒田は指を折って数えた。


「あと何だ? 『上司への反抗的態度』も入れとくか!」


「それは……」


「何? 事実じゃないの?」


紗季は何も言えなかった。


黒田は笑った。


「よかったなあ、水瀬。評価項目がいっぱいあって!」


そう言って、紙袋を机に置いた。


中には試食用の弁当が五個。


すべてに大きな文字が印刷されていた。


**DANGEROUS MAKUNOUCHI**


**THE PENDULUM**


紗季は紙袋を持ち上げた。


ずしりと重い。


「……これ、五個とも持っていくんですか?」


「当たり前だろ! 試食してもらわなきゃ売れないじゃん!」


「保存方法や消費期限は……」


「おいおいおい!」


黒田は両手を上げた。


「出た出た! 水瀬さんの質問コーナー!」


周囲に向かって声を張り上げる。


「みなさーん! 水瀬さんがまた質問してまーす!」


誰も反応しない。


黒田は鼻を鳴らした。


「裏に書いてあるだろ。字、読める?」


紗季は弁当の裏面を確認した。


消費期限。


今日の午後二時。


コンビニなどの弁当は時間刻みで消費期限が設けられているのだ。


残り四時間。


「……係長、これ二時までです」


「だから?」


「今日中に五社回って試食してもらうのは……」


「だから急げって言ってんだろうが!」


黒田は机を叩いた。


そしてすぐに、にやりと笑った。


「なあ、水瀬」


「……はい」


「お前、昔話のウサギとカメって知ってる?」


「……はい」


「お前はカメだよ。動きが遅いから」


黒田は腹を揺らした。


「でもな、あの話じゃ最後にカメが勝つんだよ。だから頑張れ!」


紗季は黙った。


黒田は得意げに続けた。


「ただし、お前の場合はウサギもカメも両方負けそうだけどな!」


一人で大笑いした。


「ぶはははっ!」


笑い終えると、急に声を低くした。


「……何ぼさっとしてんだよ。早く行け」




午前十一時二十分。


紗季は駅前を歩いていた。


両手には、五個の弁当。


肩には営業資料の入ったバッグ。


初めての飛び込み営業。


しかも商品は、二千三百円の幕の内弁当。


契約ノルマは五社。


「……どうしろっていうのよ」


紗季は思わず呟いた。


神宮司部長に確認しようと、社用スマートフォンで内線に連絡した。


だが、部長は終日外出中だった。


メールも送った。


まだ返事はない。


黒田の指示が本当に承認されているのかも分からなかった。


一社目。


駅前の小さなオフィス。


紗季は受付で頭を下げた。


「あの、突然申し訳ありません。アオバ企画の水瀬と申します。お弁当の新商品について、ご案内を……」


「お弁当?」


受付の女性が眉をひそめた。


「はい。グループ会社が新しく開発した商品でして……」


「うち、弁当は頼んでませんけど」


「新規のお取引先を探しておりまして……」


「すみません。そういうの、結構です」


それで終わった。


二社目。


「二千三百円? 誰が買うの、そんな弁当」


三社目。


「デンジャラス? 食品会社の名前ですか、それ」


四社目。


「営業許可とか、配送体制とか、資料あります?」


紗季は答えられなかった。


渡されていたのは、商品写真と社長の息子が書いたらしいコンセプト文だけだった。


五社目へ向かう途中。


紗季は公園のベンチに座った。


腕時計を見る。


午後一時四十三分。


弁当の消費期限まで、あと十七分。


契約はゼロ。


それどころか、試食用の弁当も一つも受け取ってもらえていない。


スマートフォンが震えた。


黒田からだった。


『どうだ? 何社決まった?』


紗季は返信した。


『現在、営業中です。まだ契約には至っていません』


すぐに返ってきた。


『は?』


続けて。


『お前、今まで何してたの?』


『五社回ってきましたが、条件が合わず……』


『条件? お前が条件選べる立場なの?』


さらに一通。


『五社取れなかったら、お前の責任だからな』


そして。


『まあ期待してなかったけど(笑)』


紗季は目を閉じた。


もう、限界だった。


そのとき。


別の通知が届いた。


**蓮**


『仕事中?』


紗季は驚いた。


こんな時間に。


『はい。外回り中です』


『へえ、営業もするんだ』


『今日から急に(笑)』


『大変そうだね』


紗季は少し迷ってから、紙袋の写真を撮った。


『こんなの売ってます』


数秒後。


『なにこれ笑』


紗季は思わず吹き出した。


『2300円です』


『高っ!』


『ですよね(笑)』


続けて、蓮からメッセージが届いた。


『でも名前は好きだわ』


『本当ですか?』


『デンジャラス幕の内って、食べたら爆発しそう』


紗季は声を出して笑ってしまった。


通りかかった人に見られ、慌てて口を押さえる。


久しぶりだった。


こんなふうに笑ったのは。


蓮から、もう一通。


『無理すんなよ。帰ったらゆっくり休みな』


紗季は画面を見つめた。


たったそれだけの言葉なのに。


どうして、こんなに嬉しいんだろう。


『ありがとうございます』


送信した。


そして、時計を見る。


午後一時四十九分。


「……行かなきゃ」


紗季は立ち上がった。


最後の一社だけでも、話を聞いてもらおう。


そう思って、紙袋を持ち直した。




五社目。


駅から少し離れた雑居ビル。


一階には、小さな企業の受付があった。


紗季は深呼吸をした。


そして、扉を開けた。


「失礼します。アオバ企画の水瀬と申します。突然のご訪問、申し訳ありません」


受付の女性が顔を上げた。


「……水瀬さん?」


「はい」


女性は少し不思議そうな顔をした。


「あの、もしかして……水瀬紗季さんですか?」


紗季は固まった。


「……え?」


なぜ、フルネームを知っているのだろう。


女性はデスクの上のメモを確認した。


「やっぱり。今朝、お電話いただいてますよね?」


「……電話?」


「はい。水瀬紗季さんという方から」


紗季の背筋が冷たくなった。


今日は朝から、ずっと会社にいた。


この会社へ電話なんてしていない。


「……何の、お電話ですか?」


受付の女性は困ったように笑った。


「それが、ちょっと変わったお話で……」


「……何ですか」


「今日、そちらから営業の女性が来るけれど、絶対に契約しないでほしいって」


紗季は息をのんだ。


女性はメモを読み上げた。


「それから……」


少し言いにくそうに続けた。


**『その女は、自分の名前を使って会社に迷惑をかけている偽物だから、信用しないでください』って。**


紗季は紙袋を取り落とした。


床に転がる、五個の弁当。


デンジャラス幕の内。


ザ・ペンデュラム。


午後一時五十二分。


消費期限まで、あと八分。


けれど紗季の頭からは、弁当のことなど完全に消えていた。


まただ。


また、私の名前で。


私の知らないところで。


誰かが、私を嫌わせようとしている。


**そして今度は、私がここに来ることまで知っていた。**


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