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私を嫌う理由を、私は知らない  作者: 花水木 鳥夢


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悪い男

「もう、触られないよ」


男はそう言って、微笑んだ。


紗季は返事ができなかった。


床には黒田が倒れている。


「救急車! 誰か救急車を!」


バーテンダーが電話を取り出した。


「行こう」


男が紗季の手をつかんだ。


「えっ、でも……」


「店の人が救急車を呼んでる。ここにいたら警察にいろいろ聞かれるよ」


「でも、黒田係長が……」


「あの人なら、もう意識ないからいいじゃん」


男は紗季の手を引いた。


バーテンダーが何か叫んでいた。


紗季は一度だけ振り返った。


黒田はまだ床に倒れたままだ。


それでも男の手を振りほどけなかった。


地下の階段を駆け上がる。


冷たい夜風が頬を打った。


「こっち」


男は笑っていた。


まるで、映画館を抜け出してきたみたいに。




十分ほど歩いたところに、小さな公園があった。


男はようやく紗季の手を離した。


「はあ、腹減った」


「……え?」


「なんか食べればよかったな。あの店」


男は近くの自動販売機へ向かった。


紗季はその背中を呆然と見つめた。


数分前、人を瓶で殴った男が、今は飲み物を選んでいる。


ガコン。


男は缶チューハイを取り出した。


「紗季ちゃんは?」


「……お茶」


「了解」


自販機からペットボトルが落ちる。


男は戻ってくると、紗季にお茶を渡した。


「はい。奢り」


「……ありがとうございます」


男は缶を開けた。


プシュッ。


「くーっ! うまっ!」


紗季は思わず聞いた。


「あの……さっきのこと、何とも思わないんですか?」


「さっき?」


「黒田係長のことです」


「ああ」


男は缶を傾けた。


「生きてるでしょ」


「そういう問題じゃ……」


「じゃあ、何が問題?」


紗季は言葉に詰まった。


男は少し笑った。


「冗談。さすがにやりすぎたとは思ってるよ」


「……本当に?」


「うん。次からは瓶はやめとく」


紗季は笑えなかった。


男はベンチに腰を下ろした。


「まあ、座りなよ」


紗季は少し距離を空けて座った。


「怖い?」


「……少し」


「だよね」


男はあっさり認めた。


「俺も、紗季ちゃんの立場ならそう思う」


「だったら、どうして……」


「嫌だったんだよ」


男は缶を足元に置いた。


「ああいう男」


それまでの軽い声が、少しだけ低くなった。


「相手が嫌がってるの、分かってて楽しんでるだろ。ああいうの」


紗季は黙った。


「紗季ちゃんが何回やめてって言っても、聞かなかったし」


男は横目で紗季を見た。


「俺が間違ってたのは、殴り方。止めたこと自体は間違ってないと思ってる」


紗季は返事をしなかった。


納得できるわけではない。


でも、黒田に腕をつかまれたとき、誰かに助けてほしいと思ったのも事実だった。


「……そういえば」


男が笑った。


「名前、まだだったね」


「そうですね」


「俺、レン。蓮の花のレン」


「私は水瀬紗季です」


「紗季ちゃんね。よろしく」


レンは手を差し出した。


紗季は少し迷ってから握った。


「……よろしくお願いします」


レンの手は大きかった。


指先に、小さな傷がいくつもあった。




レンはポケットから煙草を取り出した。


一本くわえ、火をつける。


「ふーっ……」


白い煙が街灯の下を漂った。


「紗季ちゃん、吸う?」


「いえ。吸ったことないです」


「マジで?」


「はい」


「人生損してるねえ」


レンは笑いながら、もう一本取り出した。


「ほら」


「いや、私、吸わないので……」


「いいから、一回」


「えっ、ちょっと……」


レンは煙草を紗季の唇に軽く押し当てた。


「ほら、くわえて」


紗季は思わず口を閉じた。


「……無理ですって」


「大丈夫、大丈夫。俺が教えるから」


レンは笑ったまま、煙草をもう一度差し出した。


断っているのに、引っ込めてくれない。


紗季は困り果てて、とうとう煙草をくわえた。


「そうそう」


レンがライターを近づける。


小さな炎が揺れた。


紗季は恐る恐る煙を吸った。


次の瞬間。


「げほっ! げほっ!」


激しくむせた。


涙が浮かぶ。


「ははははっ!」


レンが腹を抱えて笑った。


「ほら、やっぱり!」


「もう! 絶対むせるって言ったじゃないですか!」


「いやあ、そんなにむせるとは!」


「笑いすぎです!」


紗季は涙目で睨んだ。


レンは笑いながら、ポケットからハンカチを出した。


「ごめん、ごめん。はい」


紗季は受け取った。


柔らかな布から、ほのかに香水の匂いがした。


「……ありがとうございます」


「怒った?」


「怒りました」


「そっか。ごめん」


レンは笑った。


「でも、さっきより元気になったね」


紗季は口を開きかけて、閉じた。


確かに。


さっきまで頭から離れなかった会社のことを、ほんの一瞬、忘れていた。


レンは紗季から煙草を受け取り、地面に落とした。


靴の裏で踏み消す。


そのまま、吸い殻を放置した。


紗季は思わず言った。


「あの、ポイ捨て……」


「ん?」


「駄目ですよ」


レンは地面を見た。


「あー、はいはい」


面倒くさそうに吸い殻を拾った。


「紗季ちゃん、先生みたい」


「普通のことです」


「はい、先生」


レンは笑って、吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。


その仕草が妙に子供っぽくて、紗季は少し笑ってしまった。




そのとき、レンのスマートフォンが鳴った。


画面を見た瞬間、レンの表情が変わった。


「……ちっ」


舌打ち。


「ちょっとごめん」


電話に出る。


「もしもし」


最初は普通の声だった。


だが、相手が何か言った途端。


「はあ!?」


紗季の肩が跳ねた。


「だから、何回言わせんだよ!金持ってこいつってんだろ」


レンは立ち上がった。


「知らねえって言ってんだろ!証拠残すなよコラ」


さっきまでの穏やかな声は消えていた。


「お前が勝手にやったことだろうが! こっちに振ってくんな!」


レンはベンチを何回も蹴った。


ガンッ!バキッ!


古い木のベンチが大きくきしむ音が響く


紗季は思わず身を縮めた。


「ふざけんなよ! 次同じこと言ってきたら、マジで詰めるからな」


電話を切る。


しばらく、レンはスマートフォンを睨んでいた。


やがて、深く息を吐いた。


「……ごめんね」


紗季を振り向く。


「びっくりした?」


「……はい」


「だよね」


レンは苦笑した。


「仕事の電話。面倒なやつがいてさ」


「お仕事、何されてるんですか?」


「いろいろ」


「いろいろ?」


「うん。説明すると長いから、また今度」


レンは笑った。


紗季はそれ以上聞かなかった。


ただ、さっきの電話が頭から離れない。


相手に向かって怒鳴る声。


ベンチを蹴った足。


その同じ男が、今は穏やかに笑っている。


「……紗季ちゃん」


「はい?」


「怖いなら、もう帰っていいよ」


レンは立ち上がった。


「無理して付き合わなくていいから」


その言葉に、紗季は少し驚いた。


引き止められると思っていた。


「……別に、無理してるわけじゃ」


「そっか」


レンは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、もうちょっとだけ話そうか」




気づけば、三十分以上話していた。


好きな映画。


苦手な食べ物。


学生時代の失敗談。


レンは話がうまかった。


くだらない話で笑わせたかと思えば、紗季の話を真剣に聞いた。


ただし、自分のことになると、するりと話題を変える。


「レンさんって、何歳なんですか?」


「何歳に見える?」


「二十九歳くらい?」


「惜しい」


「じゃあ、三十?」


「正解は、また今度」


「ずるい!」


レンは声を上げて笑った。


紗季も笑った。


こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。


「そうだ。連絡先交換しない?」


レンがスマートフォンを取り出した。


「また話したいし」


紗季は少し迷った。


今日会ったばかり。


名字も年齢も仕事も知らない。


しかも、かなり気性が荒い。


それなのに。


「……いいですよ」


紗季はスマートフォンを取り出した。


画面に表示された名前は、ただ一文字。


**蓮**


「名字は?」


「内緒」


「またそれですか」


「次会ったら教える」


「本当ですか?」


「たぶん」


「もう!」


レンは笑った。


紗季も笑ってしまった。




「そろそろ帰ろっか」


レンが立ち上がった。


「送ってくよ」


「大丈夫です。近いので」


「そっか。じゃあ、気をつけて」


レンはあっさり引き下がった。


「……レンさんも」


紗季は言いかけて、少し笑った。


「もう、あんまり無茶しないでくださいね」


「努力します」


レンはふざけて敬礼した。


紗季は思わず吹き出した。


「それじゃ、また」


「うん。またね、紗季ちゃん」


レンは手を振った。


紗季も小さく振り返した。


歩き出してから、紗季は一度だけ振り向いた。


レンはまだ公園にいた。


街灯の下で、缶チューハイを片手にスマートフォンを見ている。


その横顔は、驚くほど綺麗だった。


危ない人だと思う。


常識がないとも思う。


それなのに。


また会いたいと思ってしまった。




その頃。


病院のベッドで、黒田は目を覚ました。


「……いってえ……」


頭には包帯。


鼻の奥がずきずきと痛む。


「気がつきましたか」


看護師が声をかけた。


「……ここ、どこだ?」


「病院です。救急搬送されました」


黒田はしばらく天井を見つめた。


そして突然、叫んだ。


「そうだ! あの野郎!」


体を起こそうとして、顔をしかめる。


「俺を殴りやがった! あの男!」


「安静にしてください」


「水瀬だ! 水瀬紗季! あいつと一緒にいた男だ!」


看護師は困った顔をした。


「警察の方が、後ほどお話を聞きたいそうです」


「警察? 当たり前だろ!」


黒田は拳を握った。


「絶対に許さねえ……!」




それからしばらくして。


黒田のスマートフォンが鳴った。


画面に表示された番号を見て、眉をひそめた。


**公衆電話**


「……何だ?」


黒田は通話ボタンを押した。


「もしもし?」


返事がない。


「おい。誰だよ」


数秒の沈黙。


そして。


『……黒田さん』


低い声が聞こえた。


男とも女とも分からない。


「誰だ、お前」


『水瀬紗季には、もう近づかない方がいいですよ』


黒田の背筋が凍った。


「……は?」


『次は、助けてくれる人がいるとは限りませんから』


「おい! 誰だって聞いてんだろ!」


通話が切れた。


ツー、ツー、ツー。


黒田はスマートフォンを握りしめた。


公衆電話。


誰が、どこからかけてきたのか分からない。


黒田は唾を飲み込んだ。


「……ふざけやがって水瀬のやろう」


そう呟いた声は、少し震えていた。




午後十一時四十七分。


紗季はベッドに横になっていた。


シャワーを浴びても、疲れが取れない。


目を閉じると、何度も同じ光景が浮かんだ。


黒田の顔。


レンの頭突き。


振り下ろされた瓶。


そして、公園で笑っていたレンの顔。


「……何だったんだろう、今日」


スマートフォンが震えた。


画面を見る。


**佐井賀しんじ**


元彼からだった。


『ちゃんと帰れた?』


紗季は少し笑った。


『うん。ありがとう』


すぐに既読がついた。


『よかった。今日のこと、まだ気になってる』


『私も』


『明日、会社来られそう?』


紗季は指を止めた。


行きたくない。


誰にも会いたくない。


でも、休んだら負けたような気がする。


『行くつもり』


しんじから返信が来た。


『無理すんなよ。あと、何かあったら絶対言って』


『ありがとう。おやすみ』


『おやすみ』


画面が静かになった。


紗季はスマートフォンを胸元に置いた。


しんじは、昔から優しい。


付き合っていた頃も、別れてからも。


困ったときに頼れる人がいる。


それだけで、少し救われる。


そのとき。


**ピコン。**


新しい通知。


送り主は――


**蓮**


紗季の心臓が小さく跳ねた。


『今日はありがと。楽しかった』


紗季は画面を見つめた。


少し迷ってから、返信する。


『こちらこそ。ありがとうございました』


すぐに既読がついた。


『また飲みに行こうよ。今度は普通に(笑)』


紗季は思わず笑った。


『普通にお願いします(笑)』


『了解。瓶は禁止で』


「もう……」


紗季は声を出して笑ってしまった。


『じゃあ、おやすみ。明日仕事頑張ってね』


『おやすみなさい』


画面が静かになった。


紗季はスマートフォンを伏せた。


今日会ったばかりの男。


名前は蓮。


名字も、仕事も、年齢も知らない。


煙草を無理やり吸わせてきた。


ポイ捨てもする。


電話では怒鳴り散らす。


そして、人を殴った。


普通なら、もう会わない方がいい。


そう思う。


なのに。


**次は、いつ会えるんだろう。**


そんなことを考えている自分がいた。


紗季は小さく笑った。


明日こそ、普通の一日になりますように。


そう願いながら、目を閉じた。


その夜、黒田のもとに公衆電話から脅迫があったことを、紗季はまだ知らない。


そして――


**公衆電話の向こうにいた人物が、誰なのかも。**


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