王子様は瓶を持っていた
「……私じゃ、ないのに」
紗季は叩かれた頬を押さえていた。床には何百枚もの免許証のコピー。三浦は肩を震わせ、しんじは紗季をかばうように立っていた。
「ぶっ……くくくっ!」
振り向くと、黒田係長が腹を揺らして笑っていた。誰も笑っていないのに、一人だけ心底楽しそうだった。
「いやあ、三浦さん! いいねえ! ビンタする女はいい女だ! ああいうの、俺たまんねえんだよ!」
黒田は叩かれた紗季の頬を、品定めするように眺めた。
「赤くなってるじゃねえか。すごいなあ。女同士ってのは遠慮がなくていいよなあ!」
「係長、今はそういう話じゃないでしょう」しんじが言った。
「何だ、佐井賀。女同士のちょっとしたケンカだろ。お前、いちいち大げさなんだよ」
黒田は紗季の顔に身を寄せた。
「なあ、水瀬。お前も俺を叩いてみろよ。思いっきりでいいぞ。そういう気の強い女を、俺が優しくしてやるのが好きなんだ」
紗季が後ずさると、黒田はさらに笑った。
「何だよ、その顔。昨日まで冷たかった女が、最後には俺に甘えてくる。そういうのが一番かわいいんだよ」
「……気持ち悪い」
「何だと? 上司に向かってその言い方はないだろ。俺がどれだけお前を気にかけてると思ってんだ」
「何をしている」
低い声に、周囲が静まった。神宮司部長だった。四十代後半、背筋の伸びた男は、床のコピー、紗季の赤い頬、三浦の涙、黒田の笑顔を順番に見た。
「関係者は会議室へ。今すぐだ」
「財布は今朝、コンビニで使ったのが最後です。会社では出していません」
会議室で紗季は説明した。神宮司は免許証の原本を返し、コピー機の操作履歴と印刷物の回収を総務に指示した。
「三浦さん。水瀬さんを叩いたのは事実ですか」
「……はい。でも私だって、あの悪口でずっと嫌な思いを!」
「その件も調べます。ただし、暴力は別です」
神宮司は黒田へ向いた。「あなたは笑っていたそうですね」
「場を和ませようと思いまして」
「そうですか」
それ以上何も言わない神宮司に、黒田は額の汗を拭った。
「部長。もう一つあります」紗季は勇気を振り絞った。「今朝、黒田係長に体を触られました。それから、弁当の中に手紙を入れられて」
「おい、水瀬!」
「黒田係長、発言を控えてください」
紗季が差し出した、米粒の跡が残る手紙を神宮司は開いた。
「……『ちゅき』?」
黒田が咳払いをした。「いや、その、冗談でして」
「この件は別途、正式に確認します。今日はここまでにしましょう。水瀬さんは帰宅してください」
会議室を出ると、しんじが追いついた。
「送ろうか?」
「ありがとう。でも今日は一人で帰りたい」
「分かった。何かあったら電話しろよ」
家に帰りたくなかった。
社内チャットの悪口。黒田の手紙。床に散った自分の顔。三浦のビンタ。静かな部屋で一人になれば、すべてが頭の中を回り始める。
駅前の路地で、紗季は小さな看板を見つけた。
BAR LAMP。
地下へ続く階段。普段なら絶対に入らない店だった。
「……一杯くらい、いいよね」
扉を開けると、静かなジャズと琥珀色の照明が迎えた。紗季はカウンターの端に座り、メニューを開いた。知らない名前ばかりだ。
「初めて?」
隣の男が声をかけた。黒いシャツ、整った顔立ち、三十歳前後に見える。目元が柔らかい。
「分かります?」
「メニューを何回も見返してたから。甘いのが好きなら、飲みやすいのもあるよ」
男はバーテンダーに軽めのカクテルを頼んでくれた。紗季が礼を言うと、男は笑った。
「今日は嫌なことでもあった?」
「……顔に出てます?」
「無理してるように見えるだけ」
不思議と嫌な気はしなかった。男はそれ以上踏み込まず、静かにグラスを傾けた。
運ばれた桃色のカクテルを一口飲む。
「……おいしい」
「よかった」
「私、今日、最悪な一日だったんです。会社でいろいろあって……誰も信じてくれなくて」
「そうなんだ」
「何もしてないって、どうやったら証明できるんでしょうね」
男は少し考えた。
「何もしてない人が、必死に証明しなきゃいけないって、おかしな話だよね」
紗季は顔を上げた。「……ありがとうございます」
そのとき、店の扉が開いた。
「いやあ、いい店じゃねえか!」
聞き覚えのある声。紗季が振り向くと、黒田係長が入口に立っていた。
「おおっ! 水瀬じゃねえか! 何だ、俺がいないと寂しくて飲みに来たのか?」
「……違います。失礼します」
紗季が立ち上がろうとすると、黒田はわざわざ隣の椅子を引き寄せ、腕をつかんだ。
「待て待て。会社じゃつれない顔してたくせに、二人きりなら素直になれるんだろ?」
「二人きりじゃありません。離してください」
「そういう強がり、俺には通じないんだよ。女の『嫌』ってのはな、男がどこまで本気か試してんの」
黒田は自分の言葉に満足したように笑った。紗季の腕を握る指が、少し強くなる。
「今朝の弁当、ちゃんと食べたか? あの手紙、かわいかっただろ。お前のために一生懸命書いたんだぞ」
「ご飯の上に入れないでください。迷惑です」
「迷惑? 好きな男からの手紙だぞ。普通、泣いて喜ぶところだろうが」
「好きな男じゃありません」
黒田の笑顔が一瞬だけ消えた。だが、すぐに口角を持ち上げる。
「またまた。部長の前だから恥ずかしかったんだろ? 俺は分かってるよ。さきちゃんは本当は甘えん坊なんだ」
酒臭い息が近づいた。黒田は紗季の肩に腕を回す。
「なあ、さきちゃん。俺のこと、ちゅき? だいちゅきって言ってみろよ。そしたら今日のことは許してやる」
「やめてください!」
「おいおい、店で大声出すなよ。俺まで悪者に見えるだろ。お前のためを思って言ってやってるのに」
「……手を離してもらえます?」
隣の男が静かに立ち上がった。
「何だお前。こいつの男か?」
「違います。でも嫌がってるでしょう」
「関係ねえだろ。こいつは俺の部下だ。俺が何しようが――」
ゴッ。
鈍い音がした。男の頭突きを受け、黒田がよろめいた。
「な、何しやがる……!」
男は答えない。カウンターにあったワインボトルをつかんだ。
「待って……!」
紗季の声より先に、鋭い音が店内に響いた。
ガシャンッ!
黒田が床に倒れた。
「お客様! 何をしてるんですか!」バーテンダーが叫ぶ。
男はボトルをカウンターに置いた。さっきまでの優しい笑顔は消えていた。
「……大丈夫?」
紗季は答えられない。
男は何事もなかったように微笑んだ。
「もう、触られないよ」
この人は、私を助けてくれた。
……本当に?




