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私を嫌う理由を、私は知らない  作者: 花水木 鳥夢


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4/8

王子様は瓶を持っていた

「……私じゃ、ないのに」


紗季は叩かれた頬を押さえていた。床には何百枚もの免許証のコピー。三浦は肩を震わせ、しんじは紗季をかばうように立っていた。


「ぶっ……くくくっ!」


振り向くと、黒田係長が腹を揺らして笑っていた。誰も笑っていないのに、一人だけ心底楽しそうだった。


「いやあ、三浦さん! いいねえ! ビンタする女はいい女だ! ああいうの、俺たまんねえんだよ!」


黒田は叩かれた紗季の頬を、品定めするように眺めた。


「赤くなってるじゃねえか。すごいなあ。女同士ってのは遠慮がなくていいよなあ!」


「係長、今はそういう話じゃないでしょう」しんじが言った。


「何だ、佐井賀。女同士のちょっとしたケンカだろ。お前、いちいち大げさなんだよ」


黒田は紗季の顔に身を寄せた。


「なあ、水瀬。お前も俺を叩いてみろよ。思いっきりでいいぞ。そういう気の強い女を、俺が優しくしてやるのが好きなんだ」


紗季が後ずさると、黒田はさらに笑った。


「何だよ、その顔。昨日まで冷たかった女が、最後には俺に甘えてくる。そういうのが一番かわいいんだよ」


「……気持ち悪い」


「何だと? 上司に向かってその言い方はないだろ。俺がどれだけお前を気にかけてると思ってんだ」


「何をしている」


低い声に、周囲が静まった。神宮司部長だった。四十代後半、背筋の伸びた男は、床のコピー、紗季の赤い頬、三浦の涙、黒田の笑顔を順番に見た。


「関係者は会議室へ。今すぐだ」



「財布は今朝、コンビニで使ったのが最後です。会社では出していません」


会議室で紗季は説明した。神宮司は免許証の原本を返し、コピー機の操作履歴と印刷物の回収を総務に指示した。


「三浦さん。水瀬さんを叩いたのは事実ですか」


「……はい。でも私だって、あの悪口でずっと嫌な思いを!」


「その件も調べます。ただし、暴力は別です」


神宮司は黒田へ向いた。「あなたは笑っていたそうですね」


「場を和ませようと思いまして」


「そうですか」


それ以上何も言わない神宮司に、黒田は額の汗を拭った。


「部長。もう一つあります」紗季は勇気を振り絞った。「今朝、黒田係長に体を触られました。それから、弁当の中に手紙を入れられて」


「おい、水瀬!」


「黒田係長、発言を控えてください」


紗季が差し出した、米粒の跡が残る手紙を神宮司は開いた。


「……『ちゅき』?」


黒田が咳払いをした。「いや、その、冗談でして」


「この件は別途、正式に確認します。今日はここまでにしましょう。水瀬さんは帰宅してください」


会議室を出ると、しんじが追いついた。


「送ろうか?」


「ありがとう。でも今日は一人で帰りたい」


「分かった。何かあったら電話しろよ」



家に帰りたくなかった。


社内チャットの悪口。黒田の手紙。床に散った自分の顔。三浦のビンタ。静かな部屋で一人になれば、すべてが頭の中を回り始める。


駅前の路地で、紗季は小さな看板を見つけた。


BAR LAMP。


地下へ続く階段。普段なら絶対に入らない店だった。


「……一杯くらい、いいよね」


扉を開けると、静かなジャズと琥珀色の照明が迎えた。紗季はカウンターの端に座り、メニューを開いた。知らない名前ばかりだ。


「初めて?」


隣の男が声をかけた。黒いシャツ、整った顔立ち、三十歳前後に見える。目元が柔らかい。


「分かります?」


「メニューを何回も見返してたから。甘いのが好きなら、飲みやすいのもあるよ」


男はバーテンダーに軽めのカクテルを頼んでくれた。紗季が礼を言うと、男は笑った。


「今日は嫌なことでもあった?」


「……顔に出てます?」


「無理してるように見えるだけ」


不思議と嫌な気はしなかった。男はそれ以上踏み込まず、静かにグラスを傾けた。


運ばれた桃色のカクテルを一口飲む。


「……おいしい」


「よかった」


「私、今日、最悪な一日だったんです。会社でいろいろあって……誰も信じてくれなくて」


「そうなんだ」


「何もしてないって、どうやったら証明できるんでしょうね」


男は少し考えた。


「何もしてない人が、必死に証明しなきゃいけないって、おかしな話だよね」


紗季は顔を上げた。「……ありがとうございます」


そのとき、店の扉が開いた。


「いやあ、いい店じゃねえか!」


聞き覚えのある声。紗季が振り向くと、黒田係長が入口に立っていた。


「おおっ! 水瀬じゃねえか! 何だ、俺がいないと寂しくて飲みに来たのか?」


「……違います。失礼します」


紗季が立ち上がろうとすると、黒田はわざわざ隣の椅子を引き寄せ、腕をつかんだ。


「待て待て。会社じゃつれない顔してたくせに、二人きりなら素直になれるんだろ?」


「二人きりじゃありません。離してください」


「そういう強がり、俺には通じないんだよ。女の『嫌』ってのはな、男がどこまで本気か試してんの」


黒田は自分の言葉に満足したように笑った。紗季の腕を握る指が、少し強くなる。


「今朝の弁当、ちゃんと食べたか? あの手紙、かわいかっただろ。お前のために一生懸命書いたんだぞ」


「ご飯の上に入れないでください。迷惑です」


「迷惑? 好きな男からの手紙だぞ。普通、泣いて喜ぶところだろうが」


「好きな男じゃありません」


黒田の笑顔が一瞬だけ消えた。だが、すぐに口角を持ち上げる。


「またまた。部長の前だから恥ずかしかったんだろ? 俺は分かってるよ。さきちゃんは本当は甘えん坊なんだ」


酒臭い息が近づいた。黒田は紗季の肩に腕を回す。


「なあ、さきちゃん。俺のこと、ちゅき? だいちゅきって言ってみろよ。そしたら今日のことは許してやる」


「やめてください!」


「おいおい、店で大声出すなよ。俺まで悪者に見えるだろ。お前のためを思って言ってやってるのに」


「……手を離してもらえます?」


隣の男が静かに立ち上がった。


「何だお前。こいつの男か?」


「違います。でも嫌がってるでしょう」


「関係ねえだろ。こいつは俺の部下だ。俺が何しようが――」


ゴッ。


鈍い音がした。男の頭突きを受け、黒田がよろめいた。


「な、何しやがる……!」


男は答えない。カウンターにあったワインボトルをつかんだ。


「待って……!」


紗季の声より先に、鋭い音が店内に響いた。


ガシャンッ!


黒田が床に倒れた。


「お客様! 何をしてるんですか!」バーテンダーが叫ぶ。


男はボトルをカウンターに置いた。さっきまでの優しい笑顔は消えていた。


「……大丈夫?」


紗季は答えられない。


男は何事もなかったように微笑んだ。


「もう、触られないよ」


この人は、私を助けてくれた。


……本当に?

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