9999枚の私
「……お前、それ食うつもり?」
声をかけられた瞬間、紗季は弁当箱を隠した。
「え?」
「いや、別に。何か変なもんでも入ってんのかと思って」
佐井賀しんじだった。
二年前に別れた元カレ。今は別部署にいる。
しんじは、紗季の手元を見て眉を上げた。
「何だよ、その顔」
「……何でもない」
「お前の『何でもない』は、大体何かある」
「何それ」
「元カレの特権。顔見りゃ分かる」
いつもなら、うるさいと返していた。
でも今日は、声が出なかった。
しんじは笑うのをやめた。
「……紗季。ちょっと来い」
人の少ない休憩スペース。
紗季は、昨日からの出来事を話した。
自分が送っていない社内チャット。
三浦先輩に嫌われたこと。
黒田係長に尻を触られたこと。
そして、昼の弁当箱に入っていた手紙。
「……ちゅき?」
しんじが聞き返した。
「うん」
「黒田が?」
「うん」
「……あいつ、脳みそに何か湧いてんのか」
紗季は思わず笑ってしまった。
笑った途端、涙がこぼれた。
「……ごめん」
「何で謝んだよ」
しんじはティッシュを差し出した。
「手紙、捨てるなよ。あと、黒田に何されたか、時間も全部メモしとけ」
「でも、誰も信じてくれなかったら……」
「俺は信じる」
即答だった。
「お前がそんなことで嘘つく奴じゃないのは知ってる」
「……ありがとう」
「それに、黒田の『ちゅき』は、俺が聞いた中でもかなり上位の気持ち悪さだわ」
「もうやめてよ」
紗季は鼻をすすりながら笑った。
昨日から初めて、ちゃんと息ができた気がした。
しんじが立ち上がる。
「とりあえず、午後は無理すんな。何かあったらすぐ呼べ」
紗季もバッグを持った。
そのとき、内ポケットに手を入れた指が止まった。
「……あれ?」
「ん?」
「財布がない」
バッグの中を探す。
ポーチを出す。
底まで手を入れる。
ない。
「朝、コンビニで使ったよな……」
紗季は呟いた。
しんじが眉を寄せる。
「会社で出した?」
「出してない。ずっとバッグの中に……」
そこで思い出した。
今朝、黒田に呼び出されたとき。
バッグはデスクの下に置いたままだった。
「……盗まれた?」
声にした途端、背筋が冷たくなった。
しんじは落ち着いた声で言った。
「まだ分からん。まず席の周りを探そう」
二人が立ち上がった。
そのとき。
「ちょっと! 誰か来て!」
印刷室のほうから悲鳴が響いた。
ガガガガガガッ!
機械が激しく動く音。
「止まらない! 何これ!」
しんじが振り向く。
「……何だ?」
二人は印刷室へ走った。
印刷室の床が、白かった。
最初、紗季には何が起きているのか分からなかった。
大型複合機から、紙が次々と吐き出されている。
排紙トレイはいっぱいで、あふれた紙が床に落ち、何十枚も重なっていた。
「誰がこんなに印刷してんの!?」
「知らない! 止めようとしても止まらないの!」
「キャンセル押せよ!」
「押してるってば!」
怒鳴り声が飛び交う。
総務の男性が操作パネルを叩いた。
「何だよこれ……」
画面には、異様な数字が表示されていた。
**コピー部数:9999**
「九千九百九十九!?」
「最大枚数じゃん!」
「何の書類だよ!」
そのとき、紙を拾っていた女性社員が動きを止めた。
「……ちょっと待って」
彼女は一枚の紙を持ち上げた。
「これ……免許証じゃない?」
隣の社員が覗き込む。
「……は?」
さらにもう一人が見る。
「え、これ……水瀬さん?」
紗季の名前が聞こえた。
「……私?」
人垣の隙間から覗いた瞬間、息が止まった。
そこに印刷されていたのは、自分の運転免許証だった。
顔写真。
名前。
住所。
免許証番号。
すべて、そのまま。
「……何で」
紗季は足元の紙を拾った。
自分の顔が写っている。
もう一枚。
その隣にも。
さらにその向こうにも。
床に散らばった紙は、全部、紗季の免許証だった。
「これ、水瀬さんの住所じゃん」
誰かが言った。
「え、マジ? どこ住んでんの?」
「ちょっと、見ないほうがいいんじゃない?」
「いや、もう見えちゃってるし……」
紗季の心臓が跳ねた。
見られている。
自分の顔だけじゃない。
住所も。
免許証番号も。
今まで誰にも教えていなかった情報まで。
「……見ないで」
声が漏れた。
けれど、誰も聞いていなかった。
一人の男性社員が、紙をスマートフォンで撮影した。
「何してるんですか!」
紗季が叫んだ。
男性は驚いて顔を上げた。
「いや、証拠として……」
「撮らないでください!」
「そんな怒んなくても……」
その言葉に、紗季の頭が真っ白になった。
怒るな?
自分の免許証を勝手に撮られているのに?
「消してください!」
声が裏返った。
周囲の視線が、一斉に紗季へ向いた。
その間にも、コピー機は動き続けている。
ガガガガガガッ!
紙が出る。
床に落ちる。
誰かが拾う。
また、紗季の顔が見られる。
「おい、原稿外せ!」
しんじが叫んだ。
社員が複合機のカバーを開ける。
ガラスの上に、一枚の運転免許証が置かれていた。
紗季の本物だった。
「……これ、誰が置いたんだよ」
社員が免許証を取り上げる。
それでも印刷は止まらない。
「何で!?」
「もう読み込んでるからだろ! 停止押せ!」
「停止ボタンが動かない!」
しんじが操作パネルに近づいた。
ボタンの隙間に、透明な薄い樹脂片が挟まっている。
「……おい」
総務の男性が覗き込む。
「何だこれ」
「誰か、わざと挟んだんじゃないか?」
一瞬、誰も声を出さなかった。
その間にも、コピー機は動き続ける。
ガガガガガガッ!
紗季は気づいた。
これは偶然じゃない。
誰かが財布を盗んだ。
免許証を抜き取った。
コピー機に置いた。
九千九百九十九部を設定した。
停止ボタンまで細工した。
自分の顔と住所を、会社中にばらまくために。
「主電源切れ!」
しんじの声が響いた。
総務の男性が複合機の側面に回り、スイッチを切った。
ガガガガッ――。
機械音が止まった。
印刷室が静まり返る。
床には、何百枚もの免許証。
どれも紗季の顔だった。
「……気持ち悪い」
誰かが、小さく呟いた。
紗季は、その言葉が自分に向けられたように感じた。
しんじが、床の紙を拾い始めた。
「これ、全部回収しよう。誰も持ち出さないでください」
紗季もしゃがみ込んだ。
自分の顔が印刷された紙を、一枚ずつ拾う。
自分の住所を、他人の目から隠すように。
そのときだった。
「……ちょっと」
背後から、冷たい声がした。
振り向くと、三浦奈津子が立っていた。
三十代後半の女性の先輩。
以前、紗季の名前で送られた偽メッセージで、悪口を書かれた本人だった。
三浦は床を見た。
散乱した免許証。
紗季の顔。
それから、紗季本人を見た。
「……何これ」
「私も、分からなくて……」
「分からない?」
三浦の眉がつり上がった。
「この前は私の悪口を社内にばらまいて、今日はこんな騒ぎ?」
「違います。私じゃありません」
「またそれ!?」
三浦の声が裏返った。
「送ってない! 知らない! 私は悪くない! そればっかりじゃない!」
しんじが立ち上がった。
「三浦さん、今は責める場面じゃないでしょう。財布も盗まれてるんです」
「はあ? あんた誰?」
「佐井賀です。別部署の」
「だったら口出さないで!」
三浦はしんじを押しのけた。
「私、少し前からずっと嫌な思いしてんの! 仕事押しつけてるだの、後輩をいじめてるだの、みんなの前で書かれて!」
「それは私が書いたんじゃ……」
「じゃあ誰が書いたのよ!」
三浦の目が潤んでいた。
「私がどんな気持ちだったか、あんたに分かる!?」
紗季は、何も言えなかった。
三浦は一歩近づいた。
「昨日からみんな私を見る目が変わったのよ! なのに、あんたは被害者みたいな顔して!」
「私も……被害に遭ってるんです」
その一言が、三浦の怒りに火をつけた。
「……は?」
顔が真っ赤になる。
「被害者? あんたが?」
「だって、私の財布が……」
「いい加減にしてよ!」
三浦の声が、印刷室に響いた。
「何でもかんでも自分がかわいそうって顔して! 周りを巻き込んで! 私までこんな目に遭わせて!」
紗季は首を振った。
「お願いです。信じてください……」
「迷惑なのよ!」
三浦が右手を振り上げた。
**パァンッ!**
乾いた音が響いた。
紗季の顔が横を向いた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
遅れて、頬に焼けるような痛みが走った。
誰かが悲鳴を上げた。
「三浦さん!?」
しんじが紗季の前に飛び出した。
「何してるんですか!」
三浦は、叩いた手を震わせていた。
「……だって……!」
涙が頬を伝った。
「私だって、もう限界なのよ……!」
紗季は、頬を押さえたまま動けなかった。
目の前には、怒りに震える三浦。
足元には、無数の免許証。
その一枚一枚に、同じ自分の顔が印刷されていた。
昨日から、何度も言ってきた。
自分は送っていない。
自分は何もしていない。
けれど、その言葉は誰にも届かない。
紗季は、震える唇を開いた。
「……私じゃ、ないのに」
その声は、誰にも聞こえなかった。




