すきより、ちゅき♡
あれから一晩が経った。
紗季は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、昨日の社内チャットが頭に浮かぶ。
自分が送っていないメッセージ。
それを読んだ同僚たちの顔。
「本当に送っていない」と説明したときの、真帆の微妙な沈黙。
何度考えても、答えは出なかった。
会社を休もうかとも思った。
でも、休んだら何を言われるだろう。
やましいことがあるから来ない。
自分が悪いと分かっているから逃げた。
そんなふうに思われるのも嫌だった。
結局、いつもどおり家を出た。
出社しても、職場の空気は変わっていなかった。
「おはようございます」
挨拶をすると、何人かが顔を上げた。
返事はあった。
ただ、それ以上は誰も話しかけてこなかった。
午前九時半。
「水瀬。ちょっと来い」
黒田係長だった。
背は低く、小太り。ベルトの上に腹が乗り、ワイシャツの襟元には、朝から脂汗がにじんでいる。
歩いてくるだけで、フウ、フウ、と鼻息が聞こえた。
「昨日のチャットの件だ。会議室」
黒田は返事も待たずに歩き出した。
紗季は仕方なく、その後を追った。
会議室に入ると、黒田はドアを閉めた。
「座れ」
紗季が椅子に腰を下ろす。
黒田は向かいに座るなり、机を指で叩いた。
「お前、システム管理に問い合わせたんだって?」
「はい。私が送っていないメッセージなので、原因を確認してもらっています」
「だから?」
「……原因が分かれば、私が送っていないことも確認できると思います」
黒田は鼻で笑った。
「お前さあ、会社ってもんが分かってねえな。もうみんな読んでんだよ。あとから違いました、で済むと思ってんのか?」
「でも、私は本当に送っていません」
「分かった分かった。何回言わせんだよ」
黒田は面倒くさそうに手を振った。
「お前の言い分は分かったから、これ以上騒ぎを大きくすんな。こっちも忙しいんだわ」
紗季は唇をかんだ。
騒ぎを起こしたのは自分ではない。
そう言いたかった。
けれど、何を言っても話を聞く気がない相手に、これ以上説明しても意味がない。
「……失礼します」
席を立ち、ドアに向かった。
その瞬間だった。
背後から腰を引き寄せられ、尻をつかまれた。
「っ、何するんですか!」
紗季は飛び退いた。
黒田は、悪びれもしなかった。
「おいおい、そんなに騒ぐなよ」
「触りましたよね!」
「触ったけど、それが何だよ。ちょっとふざけただけだろうが」
「やめてください!」
黒田の顔から笑みが消えた。
「……うるせえ女のくせに」
低い声だった。
「昨日は人の悪口を送ったって疑われて、今日は俺を悪者にするのか? ずいぶん偉くなったな、おい」
「私は、そんなことしていません!」
「じゃあ、誰が信じるんだよ!」
机を叩く音が響いた。
「今のお前が何言ったって、また自分を守るための言い訳だと思われるだけだろうが。少しは頭使えよ」
紗季は言葉を失った。
黒田は立ち上がり、ドアを開けた。
「戻れ。仕事しろ」
それだけだった。
まるで、何も起きていないかのように。
紗季は会議室を出た。
目の奥が熱かった。
腹が立つ。気持ち悪い。今すぐ誰かに言いたい。
けれど、誰に言えばいいのだろう。
昨日から、自分は何もしていないと説明し続けている。
それなのに、誰もが自分の言葉を信じてくれるとは限らない。
もし今、係長に触られたと訴えたら。
「昨日の件で追い詰められて、今度は係長を悪者にしている」
そう思われるのではないか。
紗季は自分の席に戻り、パソコンを開いた。
画面の文字が、うまく頭に入ってこなかった。
昼休み。
紗季はバッグから弁当箱を取り出した。
朝、自分で詰めたものだ。
白いご飯に、卵焼き、冷凍しておいたおかず。
普段なら何でもない昼食なのに、今日は食べることだけでも億劫だった。
それでも、何か口に入れなければ午後がもたない。
ゴムバンドを外し、蓋を開ける。
そして、手が止まった。
白いご飯の真ん中に、紙が置かれていた。
ご飯に直接触れている。
紙の端には、米粒が二つ、くっついていた。
紗季は瞬きも忘れて、見つめた。
朝、こんなものは入れていない。
誰かが弁当箱を開けた。
わざわざ、ご飯の上に紙を置いた。
指先が冷たくなる。
周囲を見回したが、誰もこちらを見ていなかった。
紗季は紙をつまみ上げた。
折り目はぐちゃぐちゃで、ところどころに米粒が貼りついている。
紙を開いた。
ひどい字だった。
筆圧が強すぎて、文字の端が破れそうになっている。ひらがなの大きさはばらばらで、行もまっすぐに書けていない。
それなのに、書かれた言葉は、ひとつ残らず読めた。
---
**『さきちゃんへ♡♡♡』**
さきちゃん さきちゃん
きょうも ちゅき♡
すき すき すき
すきじゃ たりない
すきの うえは ちゅき
ちゅきの うえは だいちゅき
**くろだ より♡**
---
紗季の手から、紙が滑り落ちた。
米粒がひとつ、机に転がった。
「……っ」
声にならなかった。
さっきまで、どうにか仕事をしようと思っていた。
弁当を食べて、気持ちを落ち着けて、午後を乗り切ろうと思っていた。
それが、一瞬でできなくなった。
「ちゅき」
文字が頭の中で繰り返される。
紗季は口元を押さえた。
ご飯が急に気持ち悪くなった。
自分が食べるために用意したものなのに、誰かに触られたと思うだけで、もう口に入れる気になれなかった。
「水瀬さん?」
隣の席の同僚が顔を上げた。
「大丈夫? 顔、真っ青だけど」
紗季は慌てて紙を伏せた。
「……何でもないです」
「でも、手が震えてるよ」
「大丈夫ですから」
自分でも、ひどい声だと思った。
本当は助けてほしかった。
誰かに、この手紙を見てほしかった。
けれど、書かれている名前を見られたら、どうなるだろう。
係長からこんな手紙をもらった。
朝、触られた。
そう話したとき、信じてくれるだろうか。
それとも、昨日のメッセージの件と結びつけられるのだろうか。
紗季は紙を握りしめた。
そのとき、背後から声がした。
「おっ。読んだ?」
全身が固まった。
振り向くと、黒田が立っていた。
いつもの脂汗を浮かべた顔で、弁当箱を覗き込んでいる。
「……係長」
「どうだった? 俺のラブレター」
紗季は、信じられないものを見るように彼を見た。
「これ、係長が……?」
「当たり前だろ。ほかに誰がいるんだよ」
黒田は鼻を鳴らして笑った。
「字、汚かった? いやあ、気持ちが入りすぎちゃってさ」
「どうして、こんなことを……」
「好きだからに決まってんだろ」
あまりに当然のように言われた。
「やめてください。迷惑です」
黒田の笑顔が消えた。
「……は?」
「こんなこと、二度としないでください」
黒田は一歩近づいた。
「人がせっかく気持ちを伝えてんのに、迷惑だと?」
「私は嫌なんです!」
周囲の社員がこちらを見た。
黒田は一瞬だけ周囲を確認すると、急に声を張った。
「おいおい、何だよ! 俺は手紙を書いただけだろうが!」
そして、紗季にだけ聞こえる声に戻った。
「昨日から問題ばっかり起こしやがって。うるせえ女のくせに、人の好意まで踏みにじるのか?」
紗季の喉が詰まった。
黒田は、彼女が握りしめている紙を指さした。
「捨てんなよ。それ、俺の気持ちだからな」
最後に、いつもの笑顔を貼りつける。
「返事、待ってるから」
そう言って、黒田は去っていった。
紗季は、その場に立ち尽くした。
周囲の社員たちは、少し気まずそうに視線を戻していった。
誰も、何も言わなかった。
弁当箱の中では、ご飯が冷めていた。
紗季は手紙をゆっくり折りたたみ、バッグの内ポケットにしまった。
捨ててはいけない。
これは、証拠になるかもしれない。
そう思った。
けれど、手紙を持っているだけで、黒田に触られた感覚が戻ってくる。
昨日は、自分が送っていないメッセージのせいで疑われた。
今日は、本当にされたことを話しても、自分のほうが悪い人間にされるかもしれない。
誰かに相談したい。
誰かに、信じてほしい。
でも、誰に。
紗季は弁当箱の蓋を閉めた。
その日、昼食は一口も食べられなかった。




