↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私を嫌う理由を、私は知らない  作者: 花水木 鳥夢


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

すきより、ちゅき♡

あれから一晩が経った。


紗季は、ほとんど眠れなかった。


目を閉じるたび、昨日の社内チャットが頭に浮かぶ。


自分が送っていないメッセージ。

それを読んだ同僚たちの顔。

「本当に送っていない」と説明したときの、真帆の微妙な沈黙。


何度考えても、答えは出なかった。


会社を休もうかとも思った。


でも、休んだら何を言われるだろう。


やましいことがあるから来ない。

自分が悪いと分かっているから逃げた。


そんなふうに思われるのも嫌だった。


結局、いつもどおり家を出た。


出社しても、職場の空気は変わっていなかった。


「おはようございます」


挨拶をすると、何人かが顔を上げた。


返事はあった。


ただ、それ以上は誰も話しかけてこなかった。


午前九時半。


「水瀬。ちょっと来い」


黒田係長だった。


背は低く、小太り。ベルトの上に腹が乗り、ワイシャツの襟元には、朝から脂汗がにじんでいる。


歩いてくるだけで、フウ、フウ、と鼻息が聞こえた。


「昨日のチャットの件だ。会議室」


黒田は返事も待たずに歩き出した。


紗季は仕方なく、その後を追った。


会議室に入ると、黒田はドアを閉めた。


「座れ」


紗季が椅子に腰を下ろす。


黒田は向かいに座るなり、机を指で叩いた。


「お前、システム管理に問い合わせたんだって?」


「はい。私が送っていないメッセージなので、原因を確認してもらっています」


「だから?」


「……原因が分かれば、私が送っていないことも確認できると思います」


黒田は鼻で笑った。


「お前さあ、会社ってもんが分かってねえな。もうみんな読んでんだよ。あとから違いました、で済むと思ってんのか?」


「でも、私は本当に送っていません」


「分かった分かった。何回言わせんだよ」


黒田は面倒くさそうに手を振った。


「お前の言い分は分かったから、これ以上騒ぎを大きくすんな。こっちも忙しいんだわ」


紗季は唇をかんだ。


騒ぎを起こしたのは自分ではない。


そう言いたかった。


けれど、何を言っても話を聞く気がない相手に、これ以上説明しても意味がない。


「……失礼します」


席を立ち、ドアに向かった。


その瞬間だった。


背後から腰を引き寄せられ、尻をつかまれた。


「っ、何するんですか!」


紗季は飛び退いた。


黒田は、悪びれもしなかった。


「おいおい、そんなに騒ぐなよ」


「触りましたよね!」


「触ったけど、それが何だよ。ちょっとふざけただけだろうが」


「やめてください!」


黒田の顔から笑みが消えた。


「……うるせえ女のくせに」


低い声だった。


「昨日は人の悪口を送ったって疑われて、今日は俺を悪者にするのか? ずいぶん偉くなったな、おい」


「私は、そんなことしていません!」


「じゃあ、誰が信じるんだよ!」


机を叩く音が響いた。


「今のお前が何言ったって、また自分を守るための言い訳だと思われるだけだろうが。少しは頭使えよ」


紗季は言葉を失った。


黒田は立ち上がり、ドアを開けた。


「戻れ。仕事しろ」


それだけだった。


まるで、何も起きていないかのように。


紗季は会議室を出た。


目の奥が熱かった。


腹が立つ。気持ち悪い。今すぐ誰かに言いたい。


けれど、誰に言えばいいのだろう。


昨日から、自分は何もしていないと説明し続けている。


それなのに、誰もが自分の言葉を信じてくれるとは限らない。


もし今、係長に触られたと訴えたら。


「昨日の件で追い詰められて、今度は係長を悪者にしている」


そう思われるのではないか。


紗季は自分の席に戻り、パソコンを開いた。


画面の文字が、うまく頭に入ってこなかった。


昼休み。


紗季はバッグから弁当箱を取り出した。


朝、自分で詰めたものだ。


白いご飯に、卵焼き、冷凍しておいたおかず。


普段なら何でもない昼食なのに、今日は食べることだけでも億劫だった。


それでも、何か口に入れなければ午後がもたない。


ゴムバンドを外し、蓋を開ける。


そして、手が止まった。


白いご飯の真ん中に、紙が置かれていた。


ご飯に直接触れている。


紙の端には、米粒が二つ、くっついていた。


紗季は瞬きも忘れて、見つめた。


朝、こんなものは入れていない。


誰かが弁当箱を開けた。


わざわざ、ご飯の上に紙を置いた。


指先が冷たくなる。


周囲を見回したが、誰もこちらを見ていなかった。


紗季は紙をつまみ上げた。


折り目はぐちゃぐちゃで、ところどころに米粒が貼りついている。


紙を開いた。


ひどい字だった。


筆圧が強すぎて、文字の端が破れそうになっている。ひらがなの大きさはばらばらで、行もまっすぐに書けていない。


それなのに、書かれた言葉は、ひとつ残らず読めた。


---


**『さきちゃんへ♡♡♡』**


さきちゃん さきちゃん


きょうも ちゅき♡


すき すき すき

すきじゃ たりない


すきの うえは ちゅき

ちゅきの うえは だいちゅき


**くろだ より♡**


---


紗季の手から、紙が滑り落ちた。


米粒がひとつ、机に転がった。


「……っ」


声にならなかった。


さっきまで、どうにか仕事をしようと思っていた。


弁当を食べて、気持ちを落ち着けて、午後を乗り切ろうと思っていた。


それが、一瞬でできなくなった。


「ちゅき」


文字が頭の中で繰り返される。


紗季は口元を押さえた。


ご飯が急に気持ち悪くなった。


自分が食べるために用意したものなのに、誰かに触られたと思うだけで、もう口に入れる気になれなかった。


「水瀬さん?」


隣の席の同僚が顔を上げた。


「大丈夫? 顔、真っ青だけど」


紗季は慌てて紙を伏せた。


「……何でもないです」


「でも、手が震えてるよ」


「大丈夫ですから」


自分でも、ひどい声だと思った。


本当は助けてほしかった。


誰かに、この手紙を見てほしかった。


けれど、書かれている名前を見られたら、どうなるだろう。


係長からこんな手紙をもらった。


朝、触られた。


そう話したとき、信じてくれるだろうか。


それとも、昨日のメッセージの件と結びつけられるのだろうか。


紗季は紙を握りしめた。


そのとき、背後から声がした。


「おっ。読んだ?」


全身が固まった。


振り向くと、黒田が立っていた。


いつもの脂汗を浮かべた顔で、弁当箱を覗き込んでいる。


「……係長」


「どうだった? 俺のラブレター」


紗季は、信じられないものを見るように彼を見た。


「これ、係長が……?」


「当たり前だろ。ほかに誰がいるんだよ」


黒田は鼻を鳴らして笑った。


「字、汚かった? いやあ、気持ちが入りすぎちゃってさ」


「どうして、こんなことを……」


「好きだからに決まってんだろ」


あまりに当然のように言われた。


「やめてください。迷惑です」


黒田の笑顔が消えた。


「……は?」


「こんなこと、二度としないでください」


黒田は一歩近づいた。


「人がせっかく気持ちを伝えてんのに、迷惑だと?」


「私は嫌なんです!」


周囲の社員がこちらを見た。


黒田は一瞬だけ周囲を確認すると、急に声を張った。


「おいおい、何だよ! 俺は手紙を書いただけだろうが!」


そして、紗季にだけ聞こえる声に戻った。


「昨日から問題ばっかり起こしやがって。うるせえ女のくせに、人の好意まで踏みにじるのか?」


紗季の喉が詰まった。


黒田は、彼女が握りしめている紙を指さした。


「捨てんなよ。それ、俺の気持ちだからな」


最後に、いつもの笑顔を貼りつける。


「返事、待ってるから」


そう言って、黒田は去っていった。


紗季は、その場に立ち尽くした。


周囲の社員たちは、少し気まずそうに視線を戻していった。


誰も、何も言わなかった。


弁当箱の中では、ご飯が冷めていた。


紗季は手紙をゆっくり折りたたみ、バッグの内ポケットにしまった。


捨ててはいけない。


これは、証拠になるかもしれない。


そう思った。


けれど、手紙を持っているだけで、黒田に触られた感覚が戻ってくる。


昨日は、自分が送っていないメッセージのせいで疑われた。


今日は、本当にされたことを話しても、自分のほうが悪い人間にされるかもしれない。


誰かに相談したい。


誰かに、信じてほしい。


でも、誰に。


紗季は弁当箱の蓋を閉めた。


その日、昼食は一口も食べられなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。