送っていない言葉
「水瀬さんって、あんなこと言う人だったんだね」
月曜日の朝、出社して間もなく、三浦にそう言われた。
紗季はバッグを置く手を止めた。
「……何の話?」
「いや。もういいよ」
三浦はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
何か気に障ることをしただろうか。
紗季は週末の出来事を思い返した。土曜日は家で映画を見て、日曜日は買い物に出かけた。誰かと会って揉めたわけでもない。三浦と個人的な連絡を取った覚えもなかった。
そもそも、仕事以外で話すような相手でもない。
それなのに、どうしてあんな言い方をされたのだろう。
午前九時半。
紗季は仕事用のパソコンを開き、社内チャットの「Knot」を起動した。
Knotは、紗季の勤めるアオバ企画が社員向けに導入している連絡ツールだ。会社のアカウントでログインし、部署や案件ごとのグループでやり取りする。社内の連絡は、ほとんどこれで済ませていた。
未読通知は三件。
そのうち一件は、企画チームのグループだった。
開いた瞬間、紗季は眉をひそめた。
土曜日の夜に、何かあったらしい。
会話の途中に、灰色の文字が表示されていた。
『水瀬紗季がメッセージを取り消しました』
時刻は、土曜日の午後十一時四十九分。
その直前には、三浦からの返信があった。
『本人もこのグループにいるんだけど』
さらにその下には、別の同僚からの短いメッセージ。
『そういうこと書くのはどうかと思う』
紗季は画面を見つめた。
取り消されたメッセージの内容は、もう表示されていない。
何かを送信したあと、削除したのだろう。
ただし、Knotではメッセージを取り消しても、その場所には取り消しの記録が残る。誰が、いつ取り消したのかも表示される仕組みだった。
表示されている名前は、間違いなく自分のものだった。
「……何これ」
思わず声が漏れた。
土曜日の午後十一時四十九分。
その時間、紗季は家にいた。会社のパソコンは持ち帰っていない。少なくとも、会社で使うチャットを開いた覚えはなかった。
けれど、会社のアカウントから何かが送信された記録が残っている。
紗季は自分の送信履歴を確認した。
残っているのは、取り消しの記録だけ。
内容を確かめようにも、そこから元の文章を復元することはできなかった。
そのとき、背後から声をかけられた。
「紗季、ちょっといい?」
同期の真帆だった。
紗季が振り返ると、真帆は自分のスマートフォンを持って、周囲を気にするように目を動かした。
「これ、見てほしいんだけど」
真帆が差し出した画面には、Knotの企画チームの会話が表示されていた。
取り消される前に保存したスクリーンショットらしい。
そこには、紗季の名前と、見慣れたプロフィール画像があった。
送信時刻は、土曜日の午後十一時四十七分。
**水瀬紗季**
『三浦さんって、上司の前では仕事できる人みたいな顔してるけど、面倒な仕事はこっちに回してくるよね。正直、一緒に仕事したくない。』
紗季は息を止めた。
「……何、これ」
「私も、何があったのか分からない」
真帆の声は慎重だった。
「土曜日の夜、たまたまKnotを開いてたんだよ。通知が来たから確認したら、これが送られてて。びっくりして、消される前にスクリーンショットを撮ったの」
「私、送ってない」
すぐに言葉が出た。
「こんなの送ってないよ。三浦さんのこと、こんなふうに書いた覚えない」
「うん……」
「本当だよ。そもそも、土曜日は会社の人と連絡も取ってない」
真帆は画面を伏せた。
紗季は、自分の声が周囲に聞こえていないか気になった。
まるで、何かを隠している人間のように必死になっている。
「ねえ、真帆は私が送ったと思ってる?」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
真帆はすぐには答えなかった。
やがて、小さく息を吐いた。
「もう、みんな読んじゃってるんだよ」
その言葉が、紗季の胸に重く落ちた。
三浦は読んだ。
企画チームのメンバーも読んだ。
そして、誰かがその内容を信じた。
送った覚えがないと説明したところで、画面に残っていた言葉は消えない。
紗季はもう一度、スクリーンショットに目を落とした。
書かれている文章に、見覚えはなかった。
ただ、使われている言葉が、妙に気になった。
「面倒な仕事はこっちに回してくる」
そんなふうに三浦を表現した記憶はない。
三浦に不満がまったくなかったわけではないが、わざわざ誰かに悪口を送るほどのことではなかった。
「これ、送信した端末とか分からないの?」
「私には分からないよ。画面に表示されてたのは、紗季の名前と時刻だけだから」
そう言って、真帆はスクリーンショットを自分のスマートフォンに戻した。
「三浦さん、結構怒ってた。そりゃ、本人がいるグループに書かれたらね」
「だから、私じゃないって……」
口にした途端、紗季は言葉を止めた。
真帆は疑っているのだろうか。
いや、疑っていないとしても、何ができるのだろう。
証拠として見せられたものには、自分の名前があり、自分のプロフィール画像がある。
それ以上に、何を説明すればいいのか分からなかった。
「……分かった。ありがとう」
真帆は何か言いかけて、やめた。
結局、それ以上は何も話さず、自分の席へ戻っていった。
紗季はしばらくパソコンの画面を見つめていた。
Knotの右上に、自分のプロフィール画像がある。
クリックすると、アカウント情報が表示された。
名前も部署も、登録されているメールアドレスも、いつも使っている自分のものだった。
画面のどこにも、異常を知らせる表示はない。
もちろん、それだけで何も起きていないとは言い切れない。
ただ、今の紗季には、何が起きたのかを判断する材料がなかった。
昼休みが終わるころには、三浦だけでなく、ほかの同僚の態度も気になり始めていた。
廊下ですれ違った人が、目を逸らした気がする。
給湯室では、紗季が入った途端に会話が途切れた。
いつもなら昼食に誘ってくれる人からも、何も言われなかった。
どれも、気のせいだと片づけることはできた。
けれど、ひとつのことが頭から離れなかった。
自分の名前で、自分の知らない言葉が送られていた。
もし、あの一件だけなら。
何かの間違いだと説明できたかもしれない。
午後三時過ぎ。
紗季は仕事の確認をするため、Knotの別のグループを開いた。
制作進行のグループ。
そこにも、灰色の記録が残っていた。
『水瀬紗季がメッセージを取り消しました』
時刻は、日曜日の午後八時十二分。
紗季は画面に顔を近づけた。
昨日の夜。
買い物から帰って、食事をしていたころだ。
その時間に、会社のチャットを開いた覚えはない。
さらに別のグループも確認した。
そこにも、同じ記録があった。
土曜日の午後十一時五十二分。
今度は、総務と企画部の合同グループだった。
紗季は、ゆっくり椅子の背もたれに寄りかかった。
一件ではなかった。
自分の名前で送られたメッセージが、複数のグループに存在していた。
そして、どれも取り消されている。
誰かが自分のアカウントを使ったのだろうか。
それなら、なぜ。
三浦への悪口を送るだけなら、わざわざ別のグループにまで何かを書く必要はない。
それとも、誰かが自分のアカウントを使って、ほかの人間についても何かを書いたのだろうか。
紗季は真帆にメッセージを送ろうとした。
その前に、スマートフォンが震えた。
真帆からだった。
『紗季、もう一つだけ言っておくね』
数秒後、続けて届く。
『あのメッセージ、三浦さんのことだけじゃなかったみたい』
紗季は返信欄に指を置いた。
『どういうこと?』
送信する。
すぐには返事が来なかった。
一分ほど経って、ようやく通知が届いた。
『ほかの人の名前も出てたって』
『私が見たのは三浦さんのところだけだったから、全部は分からないけど』
紗季は画面を見つめた。
ほかの人の名前。
誰のことだろう。
自分の記憶にない言葉が、自分の名前で送られている。
その内容を見た人たちは、きっと紗季が書いたと思っている。
それが一人ではないとしたら。
紗季は、もう一度パソコンの画面を見た。
取り消されたメッセージの記録が、グループごとに並んでいる。
誰が送ったのか。
誰が取り消したのか。
画面には、どちらも自分の名前が表示されていた。
けれど、紗季には何一つ覚えがない。
そのとき、ふと思った。
もし、自分の名前で送られた言葉を信じた人たちが、今もその内容を覚えているとしたら。
その人たちにとって、自分はもう、以前と同じ人間ではないのかもしれない。
自分が何をしたかも分からないまま。
自分が何を言ったことになっているかも分からないまま。
紗季は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……私、何をしたの?」
画面には、取り消しの記録だけが残っていた。




