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第5話 ミアズマ

「おやじ?」

「クラヴァス。立て。ただし慌てるな。猪だ。俺は木になっている。もし向かってきたら少しずつ下がれ」

 俺は緊張しつつも無言でうなずいた。

 リュカオンの鼻と耳はやはり狼のそれなのか、人間とは比べ物にならない。これも子育てしながら狩人暮らしができた理由だった。

 ふと今までゼノンがいた場所を見るとそこに姿はなく、一本の樹がある……ように見えた。

 やがてがさがさと茂みから音がしてのっそりと猪が現れた。

 それは初めて見る二足歩行の生き物に対して警戒しているように見えた。おそらくキノコや鶏肉を焼いた臭いに誘われてきたのだろう。

 じりじりと音を立てず、しかし目を逸らさず後ろに下がる。これは山暮らしをするうちにわかったことだけど、獣は滅多に人間を襲わない。

 俺はともかく、おやじといればまあ襲ってこない。そもそも人間は大型の動物で狼や熊でもそうそう簡単に狩れる相手じゃないし、反撃される恐れもある。ましてや猪は雑食動物。普通なら近寄りすらしない。

 だが今回は相手が空腹だったのかもしれない。のそのそと警戒しながら近づいてくる。

 それに応じてこちらも少しずつ距離をとる。

 そんなピリピリした空気のまま、猪が焚火の近くによる。好奇心が強いのか、火を恐れる様子はない。

 その瞬間、木が動いた。少なくとも俺と猪にはそう見えた。

 ぱっと猪の額が赤く染まる。鉈でゼノンが猪の頭をかち割ったのだ。

 これがリュカオンの魔法。

 変身する魔法ではなく、相手の認識を変更する幻覚を見せる魔法のようなものらしい。

「やっ」

 快哉を叫びながら近づこうとして。

「クラヴァス! まだ離れてろ!」

 おやじから鋭い指摘が飛んでその歩みを止めた。おやじも素早く後ろに飛びのく。鉈は相手の頭に食い込んだのか、もう手放していた。

 驚くべきことに猪はまだ絶命していない。ふらふらになりながらも暴走して、横合いの樹木に頭をぶつけた。

 それから地面に横倒しになったがまだびくびくとけいれんしており、やがて動かなくなった。

 しかしそれでもまだ油断していないおやじは手近な石ころを掴み、全力で猪にぶつける。

 現代日本ならひどいだとか動物虐待だとか文句が飛んできそうだろうが、本当に野生動物の生命力は都会育ちの想像を超える。

 どこぞの犬神のように首だけになっても動くくらいの覚悟で狩猟しなければならない。

 ただし、この世界には地球でもいるような野生動物しかいない。魔物だとかモンスターだとか、そういう生き物は一部の例外を除いて存在しないらしい。

(ドラゴンとかちょっと見てみたい気もしたけどな)

 石をぶつけても動かなくなったことを確認してからそれでもおやじが慎重に近づき、解体用の短刀で喉と胸を突き刺した。

「よし。もういいぞ」

 ふう、と今まで忘れていた呼吸を再開した。

「この猪どうする?」

「ひとまず解体だな。血抜きして、軽くするぞ」

「りょーかい」

 自分の短刀を使って皮をはぎにかかる。このあたりの作業はもう手慣れたものだ。前世の自分ならさすがに抵抗があっただろう。

「そういえばわざわざ血抜きするんだな……」

「あん? だって血が入ったままじゃ重いだろ。血があったほうが美味いとは思うけどな」

「いやそうじゃなくてこの世界って肉は腐らないだろって話。別に血抜きしなくても味は落ちないってこと」

「グル? くさるってなんだ?」

 よどみなく手を動かしながら何気なくとんでもないことを聞いてくる。

「あー……死体から変な臭いがしたり肉の味が落ちたりすること」

 ゼノンは露骨に眉間に皺を寄せた。

「地球じゃそんなことが起こるのか? 変な世界だな……」

「まあそりゃ世界が違うからなあ」

 この世界では基本的にものが腐らない。

 牛乳を放置しても味が変わらないし、飲んでも腹を壊したりしない。そのせいで発酵食品なんかも存在しない、

 干物や干し肉は存在するが、それは水分を飛ばして軽くするという目的があるらしい。

 この世界は地球とも、特に古代ローマに共通点があるけれど、違う点も多い。

 例えば人間以外の知的生命体がいたり、物が腐らなかったり、魔法があったりする。

「魔法を使うのに魔力みたいなものって必要なのか?」

「グルウ? 魔力? あー……ノヴァローマの連中は氏族がミアズマで魔法を使ってると思ってるらしいな」

 ミアズマ。

 翻訳すると汚染とか汚れだろうか。

「使いてえのか。魔法」

「ま、そりゃな」

 あえて軽い口ぶりにしたけれど、実はけっこう悩んでいることだった。

 俺は魔法が使えない。今まで何をやっても使えなかった。

 この世界の魔法は大別すると二種類ある。

 十の氏族の魔法。こちらは生まれた時から使える固有能力のようなもので、一つの氏族につき一つの魔法が使えるらしい。

 もう一つがノヴァローマつまり人間の魔法。

 こちらはローマの神々の力を借りるらしい。

 ユピテル(ゼウス)なら雷。ソル(ヘリオス)なら太陽。信仰によっていろんな魔法が使えるんだとか。

 けど俺は魔法を使える兆しすらない。

 俺の名前の元になった武将、クラヴァスは俺と同じ印落ちでも、人間を裏切った立場でも魔法を使えたのに。

 気にするなという方が無理だった。

 これについておやじは何も語らない。

 せっかく拾ったのに使えないやつだ、なんて思われていたら、どうしようか。おやじがそんな人じゃないってことくらいわかってるのにそんな嫌な妄想は止められなかった。


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― 新着の感想 ―
発酵しないとなると、酒も無い? 初代?クラヴァスも印落ちなのか。 そういう前例があったのに主人公が積極的に殺されなかったのは最低限の倫理観があったのかな。
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