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第41話 祈り

 天幕をゆっくり開けると濃い血の臭いが立ち込めていた。それ以外の臭いもしている気がしたが、なぜか気にならなかった。

 ユリアはシバとダックスの言う通り痛々しい姿だった。

 仰向けに倒れており、顔にはなんども殴られた跡。腹には切り傷。手足にはあざ。尻尾の一部は切り取られていた。

 そしてなぜか体中を綿埃のようなものが付着していた。それがリュカオンの魔法のおかげで人間の体だったものがそう見えているだけだと気づいて、怒りで頭が沸騰しそうだった。

 一瞬だけ、深呼吸してからなるべく朗らかに声をかけた。

「よ。ユリア。久しぶり」

 上手くできていたのかはどうかはわからない。ただ、強く握りしめすぎた手から血が滴っていた。

「ああ……クラヴァス……きちゃったんだあ」

 ユリアは泣きそうな、でも嬉しそうな顔だった。

「ごめんな。会いたくなかった?」

「うん……でも、どうしてだろう……今、あえてすごく嬉しい……幸せな気がする。こんな姿、絶対に見られたくなかったのに……」

「そんなことないよ。ユリアはいつも通り美人だ」

 そう言ってから跪いて手を握る。

「本当に? 今までそんなこと言ってくれなかったのに……」

「俺も年齢的には思春期だからさ。気恥ずかしいんだよ」

「思春期……ああ、人間にはそういうのがあるんだっけ。不思議な生き物だね」

「そうだな。人間は奇妙な生き物だ」

 ラミアには蛇と違って体温がある。だが、その温かさがどんどん失われている気がする。時間は、少ない。

「ね……あれ、やって?」

「あれ? どれのこと?」

 時間が少ないのにユリアの言葉の意味をくみ取れなくて悔しくなる。

「お葬式の祈り。練習してたでしょ? あれ、今までに見たことなかったからすごく新鮮だったんだ」

 氏族には宗教がない。

 それゆえか、死後どうなるのかという疑問を抱く様子がない。人間ならあり得ないことだ。ほぼありとあらゆる宗教、神話において死後どうなるかを語られているのだ。

 ……それはつまり、ユリアは自分の死を悟っているのだろうか。もしかすると人生で初めて死を意識しているのだろうか。それは……死への恐怖を植え付けてしまったことにならないのだろうか。

(あまりにも……残酷じゃないのか?)

 だが今更時間は戻せない。やるしかない。それが彼女の望みならば。

「わかった」

 少し間をおいて、言葉を紡ぐ。

「主よ。彼女に永遠の安息を。彼女に慈悲を。その心に平安と光がありますように」

 自分で考えた……いや、捏造した言葉をできる限りの心を込めて、祈った。


(ああ。なんだろう)

 ぼんやりと祈っているクラヴァスをユリアは眺めていた。

(そっか。クラヴァスの祈りって他人のためなんだ)

 彼が何度も祈っている姿を見てきた。その祈りはいつでも自分が含まれていない。それは祈りというものがなんの意味もないことをわかっているからかもしれない。

(でもきっと違うんだ。クラヴァスは……私たちに幸せになってほしくて、祈ってるんだ。もしかしたら自分でも気づいてないのかもしれないけれど)

 祈りの言葉は短かったけれど、ユリアの心には何度も響いている気がした。

(クラヴァスのために何かしたいな。今の私でもできることってあるかな……)

 そう考えていて、はたと気が付いた。

(ああ。これが、誰かを愛するってことなんだ)

 聖典に他人のために無償の行いをすることこそ愛である。そんなことが書かれていた気がする。それはもしかしたら誰かの言葉を借りただけなのかもしれないけれど、クラヴァスの心根が現れている気がした。

 そう思って、なんとか唇と肺を動かして。

「ありがとう、クラヴァス。嬉しいよ。大好……き……そ、れか……」

 言葉が終わるよりも先に。

 ユリアは溶けるように消えていった。

 彼女が生きた痕跡はどこにもない。

 ただ、他の誰かの……クラヴァスの心の中を除けば。


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