第38話 眠りの神
ぼんやりと霞がかかったような景色を眺める。
過去を夢見ているのだとユリアはすぐに気づいた。
幼いころ……そう言っても姿は今とそう変わらないが……数年前の記憶だった。
ユリアがまだルクレチアにいろいろな物事を教わっている最中だった。
『ねえ。おばあちゃんは恋愛ってしたことないの?』
ふとユリアがそう尋ねるとルクレチアはかか、と大笑した。
『なんだい? 恋でもしたくなったのかい?』
『うん。素敵じゃない? 恋愛って』
年頃の少女なら、誰しもそうあるような熱っぽい口調だった。それに対してルクレチアはどこか諦観を含んだ物言いだった。
『やめときな。ラミアは自由に恋したりできないんだよ。ああいや、自由に恋しちゃいけないんだよ』
『どういう意味?』
『あたしらの魔法は魅了。その気になれば誰でも恋人にできちまう。そんな奴らがまっとうな恋人を作れると思うかい?』
『でも、雷鳴の将軍トニートロの伴侶はラミアだったんでしょう?』
それは少し前に聞いた昔話。ノヴァローマを裏切ったトニートロは死の間際でラミアを伴侶にしたという。
『それは例外さね。人間は本来氏族を憎まずにはいられない。瀕死になったことでミアズマを感じ取れなくなったんじゃないかって言われてる。だから魔法も作用しなかったし、選択肢もなかった』
『じゃ、クラヴァスはどうなの? 印落ちなんだよね? 私たちを憎まないのよね? 魔法の影響はあるのかしら?』
『そりゃあ……どうなんだろうね?』
こればかりはルクレチアでもわからなかった。彼女は長命であったが印落ちに出会ったことは初めてだった。
『おばあちゃん! 私、恋してみたい! 愛してみたい! クラヴァスとなら、それができるかもしれない!』
『そうかい。まあ、お好きにしな』
ルクレチアはユリアを案じてはいたが、止めることはなかった。
それからユリアは何度もクラヴァスと会話した。下心がなかったわけでもないが、純粋に彼といると楽しかったのだ。自分の知らないこと、自分とは違う価値観を持つ彼といることが面白かった。
(でも……迷惑だったかな。それとも、クラヴァスも楽しかったかな。もしそうだったら嬉しいな)
過去の情景が遠ざかり、現実に意識が浮上した。
目覚めてすぐ、ユリアは頭をさすった。
「い、つつつ……頭打って気絶しちゃったんだ。運が悪い……ううん、むしろよかったのかな。見つからなかったし」
そう。
彼女は気絶して幸運だった。人間はミアズマを探知できるが、気絶している氏族からはミアズマが発生しないとされている。
故に気絶したユリアを見失ったのだ。
彼女は気絶して幸運だった。だが不運だったのは。
素早く目覚めてしまったことだ。自分が気を失ってからわずかな時間しか経過していないこと自覚する暇がなかった。
『ステルテア』
どこかから魔法の名を告げる声がする。ぐらりと視界が揺れ、地面に手を突いた。
(これ……ソムヌスの眠りの魔法!?)
ソムヌスはギリシャではヒュプノスと呼ばれ眠りを司る神である。
その魔法の効果は単純で相手を眠らせる。ただし相手を補足し、数十秒間見続けなければならない。しかし相手が目を覚ました直後だったり、著しく疲労していたりすればその時間は短くなる。
意識を取り戻したためにミアズマを感知されてしまったユリアは見つかり、すぐさま魔法をかけられた。本来なら眠りの魔法に抵抗力があるラミアだが、あまりにも状況が悪すぎた。
(最悪……ソムヌスの信徒がいるなんて……)
ソムヌスは氏族、特にラミアやハルピュイアなどの女性の氏族からは忌み嫌われている神であり、眠りを司り、ギリシャ神話のヒュプノスに相当する。
人間は氏族を攻撃せずにはいられないが、気絶していればその限りではない。ゆえに捕獲するためにはソムヌスの魔法などが必要になる。
そして捕らえられた氏族がどういう扱いを受けるのかはすでに氏族中に知れ渡っている。
霞がかかったような頭を持ち上げられた。
下卑た笑みを浮かべた男たちがユリアを取り囲んでいる。
「ルコーラ様。このラミアはどういたしますか?」
ルコーラと呼ばれた指揮官らしき男は下あごに円を描くように整えられた髭を撫でながら満足そうに笑う。
「もう少し私が深く眠らせよう。それから生贄として捧げる準備をしなければな」
「叔父上。このラミア、私にいただけませんか?」
ルコーラよりいくぶん若い男が好色そうな視線をユリアに向ける。
彼はルコーラの甥で、家の格だけならルコーラよりも上だった。それゆえにルコーラは彼の同行を許しており、多少のわがままをかなえるつもりだった。
「ふむ。ほかならぬ甥の頼みならしょうがない。みな、このラミアに何があっても驚かぬように」
不吉な予感しかない言葉を聞いた直後、ユリアの意識は途切れた。




