第37話 斥候
その日はなんてことのない日だった。
ユリアはここ数日と同じように最近産まれた少女たちにいろいろと教えて昼食を食べ終わると、血相を変えたピュグマイオイが駆け込んできた。
曰く、人間の一団がこちらに向かっている。
この村は大した規模ではないが、ピュグマイオイとラミアを産む二つのクリフォトがある。だがバーリにやや近く、目立たないように暮らしていた。
家屋も半ば森に溶け込むように建てられており、可能な限り火を使わずに暮らしていた。
だが運が悪かったのか、それとも何か痕跡を残してしまっていたのかまっすぐにこちらに向かっているらしかった。
選択肢は二つだ。
逃げるか、殺すか。
幸いこちらは約四十人。向こうは十人もいない。半数以上がピュグマイオイとはいえ不意を打てば十分勝てるはずだった。
そうして作戦は実行された。一部が後方に回り込み、挟み撃ちにする。
土地勘があったことも手伝い、その作戦は完全な成功を収めた。
だが問題なのは翌日だった。偵察が戻ってこないことを不審に思ったのか今度は百人ほどの部隊がこちらに向かっていた。
どうやら近隣の村の中にはすでに襲われている場所もあるようだった。相手はほぼ完全武装の兵士や傭兵。こちらはほぼ全員素人。勝てる可能性はなかった。
「タラントまで逃げよう」
ユリアは誰もが言わなければならないことを自分から言いだした。
氏族にとってクリフォトは命の源であり、絶対不可侵の聖域だ。かつて氏族同士の戦争が頻繁に起こっていた時代でもクリフォトを害することは絶対になかった。
それだけにクリフォトを我が物に更新するノヴァローマの蛮行は許しがたい。
だがもしもここをしのぎ、タラントの防衛に成功すればクリフォトが更新される前にこの村を取り返せる目はある。こうして彼ら、彼女らの逃避行が始まった。
可能な限りの水と食料を持ち、逃げ出す。
タラントまではおよそ六十キロ。急いで二日だが、敵の目的が偵察であるのならそれほど深追いはしてこない。
だがその予想はあまりにも楽観的過ぎた。
百人ほどの部隊は獲物を奪われたヒグマのような執念でユリアたちを追ってきた。
逃走劇の開始から半日ほどでユリアは決断した。
「私が囮になるわ」
こっそりと親密だったラミアに打ち明け、緩やかな抱擁を交わし、あるものを手渡すと止める間もなくユリアはノヴァローマの兵士たちに向かっていった。
遠目に百人くらいの兵士が見える位置で立ち止まると、兵士たちが慌て始めた。
ミアズマを探知したのだろう。
氏族側がノヴァローマの兵士と戦うとき、敵のこの能力はなかなか厄介だ。不意打ちが難しくなり、闘争心も旺盛になるため容易には撤退しない。
そして、ラミアの魔法も効果が適切に発揮しない。
「うん。見えてる。だから、引き寄せられる」
ユリアの目が怪しく光る。
数人の兵士がもがき始めた。
ラミアの魔法は魅了。対象の異性を昂らせ、自分しか見えないようにする。だがミアズマによって刺激されている人間には効果が異なる。
魔法を使ったラミアに敵対心をむき出しにするのだ。だが、この効果が今はとても役に立つ。敵を引き寄せるのにこれほど役に立つ魔法もない。
こちらに向かってくる兵士を確認すると踵……いや、尻尾を返して逃げ始めた。
木々の間を縫って走る。なるべく草や落ち葉が多そうな場所を見極める。ラミアは下半身が蛇であり、移動もしっぽをくねらせて行う。地面の状態によっては足跡(その言い方でいいかどうかはともかく)が残りづらい。
敵に優秀な狩人がいないことを祈るしかなかった。
後ろからは怒号が聞こえる。獣の唸り声のようで意味があるのかどうかさえわからない。
あんな相手に捕まってしまえばどうなるのか。
(怖い。怖いよ。おばあちゃん。クラヴァス)
涙を堪え、震えそうになる心と体を抑えてひた走る。
もう半日は追いかけっこしているような気がしたが、実際にはその百分の一の時間も経過していない。
このような事態に備えて逃げ道はある程度把握している。とはいえ体力は有限であり、重圧による失敗もある。
あ、と気づいたときには遅かった。尻尾を滑らせ、斜面を転がる。その勢いのまま彼女は樹木に激突し、後頭部を殴打した。
そして彼女は、幸運にも気絶した。




