第32話 羅針盤
イレーネに対して少し緊張しながらも丁寧に応対する。
「まさかあなたから来ていただけるとは思いませんでした」
「何やら大事なお話だったようですので、わたくし自ら足を運びました。よろしければここで話し合いましょう?」
イレーネの狙いは見当がつく。
こちらに準備と心構えをする時間を与えず交渉の主導権を握るつもりだろう。現にシバとアザーレはすっかり呑まれて委縮してしまっている。
だが、こんなこともあろうかとユリアメモを心の中に預かっている。
「イレーネ様からのご要望とあらば。さすがはタラントの二つ星と呼ばれたお方です。判断が早い」
イレーネの額に一瞬だけ青筋が浮かび、護衛も体を固くした。
二つ星というからにはもちろんもう一人星と称えられた氏族がいる。それこそが誰あろう、若かりし頃のルクレチアである。
『おばあちゃんとイレーネさんはねー、若いころ美人で有名だったんだよ! 周りの人からすごく比べられてたみたい。おばあちゃんは気にしてなかったけど、イレーネさんは今でもおばあちゃんをライバル視してるからうまくやれば挑発できるかもしれないよ!』
とはユリアの言葉だ。
(めっっっちゃ効果あったな! ありすぎて怒らせないか不安だよ!)
心の中のドキドキを隠しつつ、相手の様子を窺う。
「懐かしい話ですね。そういえばルクレチア殿の元に身を寄せていたこともあるのでしたか」
「ええ。ルクレチアは私の乳母です」
「うば……ああ、乳を与えられたのですね。人間にはそういう役職があるのでしたね」
「ええ。ルクレチアはあなたを妹のように思っていました。ですので私はあなたに敬意を払わなければいけません」
とりあえず落としてから上げる! これでたいていの人は気分がよくなるはず!
その予想が正しかったのか、イレーネは少し機嫌がよくなったようだ。
「なるほど。ならわたくしもあなたに敬意をもって接すると致しましょう」
「感謝いたします。それで、私からの贈り物は喜んでいただけましたか?」
数か月前、この会談にこぎつける前に一つ布石を打っておいた。
海洋都市なら役にたつ三大発明の一つを。
「羅針盤ですか。漁師たちからは好評だと聞いています」
そう。
方位を示す羅針盤。頑張って伝手を頼ったりして取り寄せた磁石をどうにかこうにかしてそれっぽいものに仕立て上げたのだ。
……が。
「ですがあれは沖合に出てこそ真価を発揮するものでしょう。我々にはそれをする意味がありません」
ですよねー。
そもそも水産資源が豊富なイタリア半島でわざわざ遠洋漁業をする意味がない。羅針盤が役に立つには千年ほど早い。
そして何より、氏族はこのイタリア半島から離れられない。
「新天地を求める意思はないと?」
「……あなたも知らないはずはないでしょう。クリフォトはこの半島とシチリア島にしか存在しません。これは明白な事実です」
氏族はクリフォトから産まれる。そしてクリフォトはイタリア半島付近にしか存在しない。どうあがいても氏族は半島を離れて繫栄できない。
言い換えれば文明の一部を魔法に頼っているノヴァローマもイタリア半島から離れるのが難しい、というか現在のノヴァローマはイタリア半島を出たところをほとんど領土にしていない。
つまり地球のローマ共和国よりかなり小さいのだ。……だからこそ厄介なのだが。
まあいずれにせよここまでの会話は予想通り。




