第33話 神の教え
新しい会話の種はある。
「ではこちらはいかがです?」
アザーレに目線を向けると慌てて荷物を取り出した。
「これは……紙? こんなに薄いものは初めて見ました……」
はっきり言って古代ローマの製紙技術はかなり低い。エジプトからパピルスが入ってきた程度でこの世界でもそれは変わらない。むしろ木簡とかの方がよくつかわれている。
なので素人の俺がちょっとアドバイスしただけでこの世界にあるものより上質な紙は簡単に作れる。
リュカオンはこの手の作業はあまり得意としないけれど、ピュグマイオイは手先も器用で我慢強い。なかなか職人向けだ。
「こちらをシチリア島などに輸出していただけませんか?」
「!」
明らかにイレーネは驚き、生唾を飲んだ。
これがどれくらいの利益をもたらすかすでにそろばんをはじいているのだろう。
「利益は……売値を折半するということでいかがです?」
タラントは大きな町であり、そこから輸出するともなればさすがに貨幣での取引になる。だからこそ商談が可能なのだ。
「それはさすがに都合がよすぎるでしょう。船舶での輸出は危険がつきものです。特に我々セイレーンは海を進む魔法を持つがゆえに責任を負担しなければなりません」
古代ローマでは海上輸送に関する法律はかなり発達しており、保険の原型のようなものも存在していた。
が、しかしこの世界、とくにタラントでは代々セイレーンが領主を務めていることもあり、海上輸送の損害の多くをセイレーンが負担することになっている。
その分関税などをとっているわけだ。だからこそ慎重に取引を進めるつもりなのだ。
目論見通りだ。
「ではこうしましょう。もしも品物の損失に明らかな過失がない場合を除き損害請求をいたしません。その代わりこちらの要求を呑んでいただきたい」
「……いいでしょう。その要求を言ってみなさい」
損害を受けたくないと言った手前、絶対に損害を受けないと保証されれば断りづらい。典型的な譲歩的交渉だ。
「まず一つ。私をクラヴァスと認め、シチリア島にわたる許可をもらいたい」
印落ちのクラヴァスと雷鳴の将軍トニートロは氏族にとって特別な名前だ。
それを認めるということは俺に多額のチップを賭けるようなものだ。イレーネの顔色は悪くない。頷いて先を促してきた。
「二つ目。布教の許可」
「布教? ノヴァローマの神について唄うのですか?」
この時代、神々の教えを広める手っ取り早い手段は詩を吟じることで、そう考えたのも無理はない。
「いいえ。私の神について語りたいのです。これを使って」
取り出したのは一冊の本。紙を作ったのはこれを完成させる目的もある。
「何です、それは?」
「聖典です。正確には聖典の翻訳ですね。ここに神の教えが書かれています。これを配布します」
ちなみに、あえて翻訳したと言ったのは後で追記、修正できるようにするためだ。
「……まあ、それくらいなら構いませんが……」
何の意味があるのか、という疑問を隠せていない顔だった。
「ではこれで最後です。私が解放したクリフォトのうち半分の所有権を私にください」
「!」
これには周囲の氏族たちもざわめいた。
俺がクリフォトを再生したのを知っている人は多い。何しろその証拠であるシバが隣にいるのだからクリフォトを解放できると言われれば信じたくもなるだろう。
「クリフォトの解放が何を意味するのか分かっているのですか?」
「ノヴァローマによって更新された神殿を元のクリフォトに戻す。それだけです」
「ええ。ですがそれは非常に困難です。というより不可能だったはずです」
「ですがテュポーンと呼ばれた先代のクラヴァスはできたとも伝えられています」
「同じ印落ちのあなたならできると?」
「はい。先代よりも多くのクリフォトを解放できるはずです」
先代クラヴァスがどんな人物だったのかはわからないけれど、おそらく転生者ではなかったはずだ。少なくとも俺より時代が後の転生者じゃない。
だからクリフォトが英語を発することを理解できず、レバガチャみたいなやり方でしかクリフォトの修理ができなかった。
だが俺は転生者でありかつ印落ち。修理できる公算は大きい。だから問題は次。
「お待ちなさい。クリフォトは我々にとって命の源です。決して個人が好きにしてよいものではありません。いえ、そもそも所有してどうするつもりなのです」
「教会として改めます」
「きょうかい……何ですかそれは?」
「私の神の教えを伝える場所と思っていただければ」
「それでは……ノヴァローマと一緒ではありませんか!」
イレーネは間違いなく今日一番の大声を出した。
ノヴァローマの神殿は単なる信仰の場じゃない。おそらく人間社会を維持するための重要な施設だ。
その役割はおそらく……いや、やめておこう。
だがそれを詳しく説明しても受け入れられるかは別だ。
氏族にとってクリフォトをないがしろにすることは最も許されないことであり、同時に人間に理解できない部分でもある。
何しろ人間は木から産まれてこない。生まれる前から刷り込まれているクリフォトへの畏敬の念は氏族特有のものなのだ。
「ええ。なのでノヴァローマと違うと示すために一つ私の方で約束をします」
「約束?」
「私の死後、教会を破壊しても構いません。もちろん破壊すればクリフォトはいずれ氏族を産めるようにしておきます」
「な……ではあなたの神の教えとやらは……」
「ええ。あなた方がそう望まれるのならばすべて破却してください」
「……理解できません。人間が説話を語り継ぐのは死後も自分の功績を語り継ぐためではないのですか?」
さあここだ。覚悟を決めろ。全員に俺の決意を示せ。たとえそれが嘘で塗り固められたとしても。
「違います。私が神の教えを説くのは氏族のためです。それはノヴァローマに対抗することに繋がります」
ざわり、と今度は違う種類のどよめきが伝わる。神の教えとやらにそんな力があるとは思えなかったのだろう。
しかし俺の仮説が確かなら、これには意味がある。
「本気……なのですか」
「はい。俺は氏族を守ります。ノヴァローマに滅ぼさせたりしません」
イレーネはやや沈黙した後、おおむね条件を呑む、翌日正式に連絡すると言い残し、去っていった。
緊張しっぱなしだったアザーレはその場でへたり込み、シバも冷汗を拭っていた。
……正直、相当な無茶を言わない限りイレーネはこちらの要望を認めるつもりだったのではないかと思う。
もっとやりやすい場を整える手段はあっただろう。なのにそれをしなかった。
何はともあれ第一関門はクリアした。
そして翌日。




