62 約束のあとで
広間へ戻る前、ラウラは一度だけ足を止めた。
扉の向こうからは、卒業を祝う音楽と笑い声が聞こえている。
さっきまで自分もその中にいたはずなのに、今は少し違う場所から眺めているような気がした。
セドリックがこちらを見る。
ラウラの視線が、繋いだ手へ落ちた。
強く握っているわけではない。
けれど、自然に重なったままの手。
広間へ戻れば、きっと誰かが気づく。
そう思った瞬間、頬に熱が上った。
セドリックは何も言わず、ほんの少しだけ指の力をゆるめた。
離すかどうかを、ラウラに委ねるように。
その仕草だけで、胸の奥が甘く苦しくなる。
ラウラは一瞬迷ったあと、そっと指を握り返した。
「……このままで、いいです」
セドリックは短く答えた。
「わかった」
それだけだった。
けれど、その声はひどくやわらかかった。
扉が開く。
広間の光が、ふたりを包んだ。
音楽。
笑い声。
灯りに照らされた花飾り。
卒業を祝う華やかな空気の中へ戻った瞬間、何人かの視線がこちらを向いた。
それは当然だった。
ラウラは藤色のドレスに、セドリックから贈られた銀細工の髪飾りをつけている。
セドリックの衣には、ラウラのドレスと同じ淡い紫が控えめに差されている。
そして、ふたりは手を繋いでいた。
それだけで、何かを察するには十分だったのだろう。
広間の端にいた級友たちが、驚いたように目を見開き、それからすぐに顔を見合わせる。
次に浮かんだのは、からかうような笑みではなかった。
祝福するような、あたたかな微笑みだった。
ラウラの胸が、少しだけほどける。
「……気づかれていますね」
「だろうな」
「隠す気はありますか?」
セドリックは一度だけ視線を周囲へ向け、それからラウラを見る。
「今はない」
短い言葉だった。
けれど、その目があまりにまっすぐだったので、ラウラはもう何も言えなくなった。
今日のセドリックは、いつもより少し浮かれている。
けれど、騒がしいわけではない。
ただ、隠しきれていない。
ラウラを見る目も。
手を離さない指先も。
短い言葉の奥にある熱も。
その全部が、静かに伝わってくる。
ふたりが広間の端へ戻ると、級友の一人が近づいてきた。
「ラウラ様」
「はい」
「先ほどから、とてもお幸せそうですわ」
真正面から言われて、ラウラは一瞬息を止めた。
「そ、そう見えますか」
「ええ」
令嬢はやさしく微笑む。
それから、セドリックの方へ視線を向けた。
「セドリック様も」
ラウラは思わず隣を見る。
セドリックはいつものように表情を崩していない。
けれど、否定もしなかった。
その沈黙が、かえって答えのようだった。
令嬢はますます微笑みを深める。
「お似合いですわ」
その一言に、ラウラの胸がじんわり熱くなる。
以前なら、その言葉は少し苦しかった。
外から見える形だけを並べられているようで。
自分の気持ちとは別のところで、婚約者として扱われるようで。
けれど今は違う。
お似合いだと言われることが、こんなにも胸に沁みる。
隣に立つ人を、自分も選んでいるから。
「……ありがとうございます」
ラウラは静かに答えた。
級友は満足そうに一礼し、また友人たちの輪へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ラウラはそっと髪飾りに触れた。
すると、隣から低い声がする。
「今は、嬉しそうだった」
ラウラは顔を上げた。
セドリックはこちらを見ている。
その言葉だけで、彼が以前の自分の顔も覚えていたのだとわかった。
「……はい」
ラウラは小さく頷く。
「今は、嬉しかったです」
セドリックの目元が静かにやわらいだ。
「そうか」
たったそれだけ。
けれど、十分だった。
広間では、次の曲が始まろうとしている。
卒業生たちは笑いながら新しい輪を作り、別れを惜しみながらも、それぞれの未来へ向かうように華やかに装っていた。
今日で終わるものがある。
けれど、終わるばかりではない。
ラウラは今、それをはっきりと感じていた。
「ラウラ」
セドリックが静かに呼ぶ。
「はい」
「もう一曲、踊るか」
ラウラは少し驚いて顔を上げた。
「また誘ってくださるのですか」
「ああ」
「今日は積極的ですね」
「お前と踊りたい」
まっすぐな言葉だった。
飾り気はない。
けれど、それだけで十分すぎた。
ラウラは差し出された手を見つめる。
さっき廊下で取った手。
これから先を一緒に歩くための手。
そして今、またダンスへ誘う手。
「……はい」
ラウラはその手を取った。
「喜んで」
セドリックが一瞬、ほんの少しだけ目を見開く。
それから、見間違いではないほど、やわらかく笑った。
ラウラは息を止める。
「今、笑いました」
「笑ったな」
「認めるのですね」
「今日は隠せない」
そう言われて、ラウラも笑ってしまった。
二人は再び広間の中央へ進む。
音楽が始まる。
セドリックの手が、ラウラの手を取る。
もう片方の手が、そっと背中へ添えられる。
先ほど引き寄せられた時の熱を思い出して、ラウラは思わず肩をこわばらせた。
セドリックがすぐに気づく。
「近いか」
「……少しだけ」
「離れるか」
ラウラは首を横に振った。
「いいえ」
自分でそう言ってから、また胸が鳴る。
「まだ慣れません。でも……嫌ではありません」
セドリックの手に、ほんの少しだけ力がこもる。
「なら、慣れればいい」
短い言葉。
けれど、急かさない温度があった。
ラウラは小さく頷き、曲に合わせて一歩を踏み出す。
今度は足を間違えないように、セドリックの動きに意識を向けた。
彼はラウラが合わせやすいように、ほんの少し歩幅を落としている。
大きな手。
支える腕。
近い距離。
灯りの中で揺れる淡い紫。
そのすべてが、今夜の記憶として胸に刻まれていく。
「ラウラ」
「はい」
「さっきの返事」
ラウラは顔を上げる。
「結婚したいと言ってくれたことだ」
その言葉を聞いただけで、また頬が熱くなった。
「……はい」
「忘れない」
ラウラは息を止めた。
「一生だ」
短い言葉だった。
けれど、あまりにも重くて、まっすぐだった。
胸が痛いくらい鳴る。
「……セドリック様」
「何だ」
「そういうことを、踊っている時に言わないでください」
「駄目か」
「足を間違えます」
「また支える」
「そういう問題ではありません」
ラウラが困ったように言うと、セドリックはほんの少しだけ笑った。
その笑みに、また胸が跳ねる。
けれど今度は、足を止めなかった。
セドリックも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、ラウラを見ていた。
そしてラウラも、視線を逸らさなかった。
言葉は多くない。
けれど、それでよかった。
今日の二人には、言葉にならないものまで伝わっている気がした。
曲が終わる頃、広間にはあたたかな拍手が満ちた。
ラウラはゆっくりと息を吐く。
二曲踊っただけなのに、胸の奥がいっぱいだった。
セドリックは手を離す前に、静かに尋ねる。
「疲れたか」
「少しだけ」
「休むか」
「はい。でも……」
ラウラは少し迷った。
けれど、今夜は逃げないと決めた。
「もう少しだけ、一緒にいてください」
セドリックは一瞬だけ黙った。
それから、今度は迷わず答える。
「ああ」
その声が低く、やさしくて。
ラウラはまた胸が熱くなった。
けれど、その熱は、ただ恥ずかしいだけのものではなかった。
セドリックの隣に立つ。
これから先、婚約者としてではなく、いずれ妻として。
侯爵家の隣に立つ者として。
そう考えると、胸の奥に小さな緊張が生まれた。
そして、ふとセシリアの姿が思い浮かんだ。
いつも背筋を伸ばし、誰かの視線に揺らぐことなく、穏やかに微笑んでいた人。
セドリックの近くに立っていても、少しも不自然ではなかった人。
以前のラウラなら、その姿を思い出すだけで胸が沈んだ。
自分にはないものばかりを持っているように見えて。
何も知らない周囲の言葉に、勝手に傷ついて。
自分の居場所を、どこかで譲らなければならないような気がしていた。
けれど今は、少し違う。
セシリアのようになりたい、というわけではない。
誰かと同じになる必要はない。
それでも、彼女が持っていた凛とした強さを、少しだけ羨ましいと思う。
そして、自分も自分の形で、そうなりたいと思った。
セドリックの隣に立つことを、恥ずかしさだけで受け止めるのではなく。
誰かと比べて怯えるのでもなく。
自分で選んだ場所として、ちゃんと立てるように。
今日のセドリックは、とても眩しかった。
黒に近い装いに、さりげなく淡い紫を忍ばせて。
不器用ながらも、ラウラを選ぶと言ってくれて。
その隣にいる自分が、ただ頬を赤くして戸惑っているだけではいけない気がした。
もちろん、今すぐ何かが変わるわけではない。
けれど。
いつか誰かに、セドリック様の隣に立つのにふさわしくないなどと思われたくない。
そして何より、自分自身がそう思いたくない。
ラウラはそっと髪飾りに触れた。
セドリックが選んでくれた、淡い藤色の石。
その小さな輝きが、胸の奥に灯る決意のように思えた。
――この方の隣に、ちゃんと立てる私になりたい。
守られるだけではなく。
誰かの言葉に揺らぐだけでもなく。
セドリックが選んでくれた自分を、自分でも誇れるように。
ラウラは小さく息を吸った。
「セドリック様」
「何だ」
「私、もう少し頑張りたいです」
セドリックがこちらを見る。
「何をだ」
ラウラは少しだけ迷った。
けれど、今夜は逃げないと決めた。
「セドリック様の隣に立っても、誰にも釣り合わないなどと言わせないように」
言ってから、胸が少しだけ震えた。
大げさだっただろうか。
けれど、これは今、確かに芽生えた気持ちだった。
セドリックはしばらく何も言わなかった。
それから、低く、はっきりと言った。
「誰にも言わせない」
ラウラは目を見開いた。
「セドリック様」
「そんなことを言う奴がいたら、俺が黙らせる」
あまりに真顔で言うものだから、ラウラは少しだけ困ってしまう。
けれど、セドリックは続けた。
「でも、お前がそうなりたいなら、止めない」
その声は、先ほどよりずっと穏やかだった。
「ただ、今のお前が足りないとは思っていない」
ラウラの胸が、静かに震えた。
「俺は、今のお前を選んだ」
その言葉は、何よりもまっすぐだった。
ラウラは泣きそうになるのをこらえながら、小さく頷く。
「……はい」
「これからのお前も見る」
セドリックは短く言った。
「ちゃんと」
ラウラは、今度こそ自然に笑った。
恥ずかしさだけではない。
不安だけでもない。
胸の奥に、温かな力が生まれていた。
「では、見ていてくださいませ」
セドリックの目元が、ほんの少しやわらぐ。
「ああ」
短い返事。
けれど、それだけで十分だった。
広間の灯りが、ふたりの間に淡く揺れる。
卒業式の夜。
別れの夜。
けれどラウラにとっては、もうそれだけではなかった。
新しい約束を交わした夜。
自分の意思で、未来を選んだ夜。
そして、セドリックの隣に立つ自分を、これから少しずつ育てていくと決めた夜だった。
ラウラはセドリックの隣で、そっと微笑んだ。
きっとこれからも、戸惑うことはある。
恥ずかしくて逃げたくなる日もある。
けれど、そのたびに、少しずつ近づいていけばいい。
今日のように。
手を取りながら。
視線を交わしながら。
何度でも、互いを選び直しながら。
そしていつか。
誰に見られても、胸を張ってこの人の隣に立てるように。




