63 この人の隣に
数年後。
リンドグレイ伯爵家の一室には、朝の光が静かに差し込んでいた。
鏡の前に座るラウラの髪を、侍女が丁寧に整えている。
白いヴェール。
淡く光る耳飾り。
胸元に重なる繊細な刺繍。
花嫁衣装に袖を通したラウラは、鏡の中の自分をじっと見つめていた。
不思議だった。
緊張している。
胸は確かに高鳴っている。
けれど、逃げ出したいとは思わなかった。
あの日。
卒業式の夜。
セドリックの隣で思ったことを、今でも覚えている。
――誰に見られても、胸を張ってこの人の隣に立てるように。
その願いは、すぐに叶ったわけではない。
何度も戸惑った。
失敗もした。
侯爵家に連なる人々の前で、言葉を選び損ねたこともある。
自分より堂々とした令嬢たちを見て、胸が小さく揺れた日もあった。
それでも、もう昔のように逃げようとは思わなかった。
セシリアのようになりたいわけではない。
誰かと同じ姿を目指したいわけでもない。
けれど、あの人が持っていた凛とした強さを、ラウラはずっと忘れなかった。
自分の形で、ちゃんと立てるようになりたい。
セドリックの隣に。
自分で選んだ場所に。
「お嬢様」
侍女の声に、ラウラは顔を上げる。
「とても、お綺麗です」
その言葉に、ラウラは少しだけ微笑んだ。
昔の自分なら、きっと戸惑って俯いていた。
けれど今は、静かに頷くことができた。
「ありがとうございます」
そう答えた時、扉の向こうで小さな気配がした。
侍女が振り返るより早く、銀色の影がするりと部屋へ入ってくる。
「シーフ」
ラウラは思わず笑った。
銀狼は当然のようにラウラの前まで歩いてくると、金色の瞳でじっと彼女を見上げた。
まるで、ようやくこの日が来た、とでも言うように。
ラウラはそっと手を伸ばし、シーフの頭を撫でる。
「あなたが、最初に選んでくれたのですよね」
シーフは目を細めた。
昔は、そのことが少しだけ重かった。
自分の知らないところで決まってしまった婚約。
自分の気持ちより先に結ばれた縁。
けれど今は違う。
あの始まりがあったから、今ここにいる。
そして今日、ラウラは誰かに選ばれたからではなく、自分の意思でこの場所に立つ。
「でも、今日は」
ラウラはシーフに微笑む。
「私も、ちゃんと選んでいます」
シーフは満足そうに尾を揺らした。
その様子があまりにも誇らしげで、ラウラは小さく笑ってしまう。
「相変わらず、得意そうなお顔ですね」
銀狼は否定するようすもなく、ただ静かにラウラの足元に座った。
まるで、花嫁の支度を見届けるつもりでいるように。
窓の外では、式の支度が進んでいる。
花嫁を呼ぶ声。
馬車の音。
遠くで鳴る鐘。
そのすべてが、今日という日を少しずつ現実にしていく。
ラウラは鏡の中の自分をもう一度見た。
胸の奥に、静かな熱が灯っている。
もうすぐ、セドリックに会う。
あの人の隣に立つ。
かつて家同士に結ばれた婚約は、卒業の夜に二人自身の約束になった。
そして今日。
その約束は、未来になる。
同じ頃。
侯爵家側の控え室では、セドリックが鏡の前に立っていた。
黒を基調とした礼装。
銀糸で縁取られた上着。
胸元には、ほんのわずかに淡い紫の飾り布が差されている。
卒業式の夜、ラウラの藤色のドレスに合わせた色。
それから何度か、特別な日にだけ身につけてきた色だった。
今日も、当然のようにそこにある。
セドリックは袖口を整え、襟元に触れた。
それから、また同じ場所を直す。
一度。
二度。
三度。
「そこ、もう十分整ってると思うけど」
背後から聞こえた声に、セドリックはゆっくり振り返った。
エリオットが、扉にもたれて笑っていた。
「……いつからいた」
「君が同じ袖口を三回直したあたりから」
「見ていたなら声をかけろ」
「面白かったから」
セドリックの眉間にしわが寄る。
エリオットは楽しそうに肩をすくめた。
「いやあ、まさか君が結婚式当日にここまで落ち着かない顔をするとはね」
「落ち着いている」
「そうかな。鏡を睨んでも、ラウラ様は映らないよ」
「睨んでない」
「睨んでた」
「見ていただけだ」
「鏡を?」
「……うるさい」
エリオットは声を立てずに笑った。
それから、セドリックの胸元へ視線を向ける。
「今日もその色なんだ」
セドリックは一瞬だけ動きを止める。
「悪いか」
「悪くないよ。むしろ、とても君らしい」
「どういう意味だ」
「一見何も言っていないようで、ものすごく言っているところ」
セドリックは黙った。
エリオットは近づき、胸元の淡い紫を軽く指で示す。
「ラウラが見たら、きっと気づくよ」
「……気づくだろうな」
「嬉しそうにすると思う」
セドリックはわずかに視線を逸らした。
「ならいい」
短い言葉。
けれど、その声は低く、どこか落ち着かない。
エリオットはそれを見て、さらに笑みを深めた。
「今の顔、式の場でしないようにね」
「何の顔だ」
「ラウラを見た瞬間に、全部顔に出る時の顔」
「出てない」
「出てる」
「出てない」
「昔から君は、わかりにくいようで肝心なところはとてもわかりやすい」
セドリックは何か言い返そうとして、やめた。
その代わりに、窓の外へ目を向ける。
庭には白い花が飾られていた。
招待客の馬車が、ゆっくりと敷地へ入ってくるのが見える。
今日、この場所にラウラが来る。
花嫁として。
自分の隣に立つために。
「……エリオット」
「何?」
「変じゃないか」
エリオットは一瞬、目を丸くした。
「君がそんなことを聞く日が来るとは」
「答えろ」
「変じゃないよ」
エリオットは笑みを引っ込め、まっすぐに答えた。
「ちゃんと花婿に見える」
セドリックは黙る。
エリオットは少しだけ声をやわらげた。
「ラウラの隣に立つのに、十分すぎるくらいだ」
「……そうか」
「まあ、ラウラを前にした瞬間、固まらなければね」
「固まらない」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
エリオットが笑う。
セドリックは不満そうに眉を寄せたが、否定はしなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
それから、エリオットがふと真面目な声で言った。
「よかったね、セドリック」
セドリックは振り返らない。
けれど、その肩がわずかに動いた。
「……ああ」
それだけだった。
けれど、エリオットはそれ以上からかわなかった。
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
セドリックは最後にもう一度、胸元の淡い紫へ触れた。
それから、扉の方へ歩き出す。
その背中は、昔と同じようにまっすぐだった。
けれど、どこか違う。
迷いがない。
焦りもない。
ただ、これから自分の隣に立つ人を迎えに行く男の背中だった。
式場は、白い花で飾られていた。
高い窓から差し込む光が、床にやわらかな模様を落としている。
招かれた人々は静かに席につき、厳かな空気の中にも、どこか温かな期待が満ちていた。
セドリックは祭壇の前に立っていた。
隣にはエリオットがいる。
「まだ落ち着いてる?」
小声で囁かれ、セドリックは視線だけを向けた。
「黙ってろ」
「はいはい」
エリオットは肩を揺らして笑う。
けれど次の瞬間、扉の方へ視線を向けて、表情を改めた。
式場の扉が開く。
光が差し込む。
その中に、ラウラが立っていた。
白い花嫁衣装。
薄くかかるヴェール。
静かに揺れる裾。
髪には、銀細工の髪飾りがあった。
淡い藤色の石が、朝の光を受けてかすかにきらめいている。
卒業の前に、セドリックが贈ったもの。
あの日から、大切な場面で何度も彼女の髪を飾ってきたもの。
セドリックは、息を止めた。
エリオットが隣で小さく笑う。
「ほら、固まった」
「……黙れ」
声は低かった。
けれど、セドリックの目はラウラから離れなかった。
ラウラもまた、祭壇の前に立つセドリックを見つけた。
黒を基調とした礼装。
銀糸。
そして胸元の淡い紫。
それに気づいた瞬間、ラウラの胸が静かに鳴った。
卒業式の夜と同じ色。
けれど今日は、あの夜よりもずっと自然に、彼の衣に馴染んでいる。
まるで、二人の間に続いてきた時間そのもののようだった。
ラウラは一歩を踏み出す。
たくさんの視線を感じる。
昔の自分なら、その重さに足がすくんでいたかもしれない。
けれど今は違う。
シーフが選んだ縁。
家同士が結んだ婚約。
そこから何度もすれ違い、向き合い、言葉を重ね、自分たちで選び直してきた時間。
そのすべてが、ラウラの背中をそっと支えていた。
足元の花びらが、歩くたびにかすかに揺れる。
セドリックが待っている。
その事実だけで、ラウラはまっすぐ前を向けた。
ふと、参列者の中にセシリアの姿が見えた。
穏やかな微笑み。
揺らがない背筋。
あの日、少し羨ましいと思った強さを、彼女は今日も自然にまとっている。
ラウラはほんの少しだけ、彼女へ目礼した。
セシリアも静かに微笑み返す。
その瞬間、ラウラの胸にあった小さな緊張がほどけた。
セシリアのようになる必要はない。
自分は、自分のままでいい。
けれど、胸を張って立つ強さを、少しずつ自分の中に育ててきた。
今日、その答えを持って、セドリックの隣へ向かっている。
祭壇の前にたどり着く。
セドリックが手を差し出した。
大きくて、少し硬い手。
何度もラウラを支えてくれた手。
ラウラは迷わず、その手を取った。
セドリックの指が、ほんの少しだけ強くなる。
「……似合ってる」
低い声が、ヴェール越しに届いた。
ラウラは小さく笑う。
「本当ですか?」
セドリックは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「綺麗だ」
胸が、あの卒業式の夜と同じように鳴った。
「ありがとうございます」
「本当に綺麗だ」
ラウラはもう、何も言えなくなった。
ただ、微笑んで彼を見る。
セドリックも、ラウラを見ていた。
たくさんの人がいる。
式が進んでいく。
誓いの言葉が告げられる。
けれど、ラウラには不思議と怖さがなかった。
この人の隣に立つ。
そう決めた日のことを思い出す。
恥ずかしくて逃げたくなる日もあった。
誰かの言葉に揺らいだ日もあった。
けれど、そのたびに少しずつ近づいてきた。
手を取りながら。
視線を交わしながら。
何度でも、互いを選び直しながら。
神官の声が静かに響く。
「汝、セドリックは、ラウラを妻とし――」
セドリックの手が、ラウラの手を確かに包む。
「誓う」
短い言葉。
けれど、その一言には迷いがなかった。
ラウラの胸が熱くなる。
続いて、自分の名が呼ばれた。
「汝、ラウラは、セドリックを夫とし――」
ラウラは、セドリックを見る。
彼はまっすぐ見返していた。
昔のように、目を逸らさない。
ラウラもまた、逸らさなかった。
「誓います」
言えた。
静かに。
けれど、はっきりと。
それは家同士に用意された答えではなかった。
誰かに決められた未来を受け入れるだけの言葉でもなかった。
自分で選んだ人の隣に立つための、ラウラ自身の誓いだった。
指輪が交わされる。
白い花が揺れる。
参列者たちの間に、あたたかな拍手が広がっていく。
その中で、セドリックがラウラへ少しだけ顔を寄せた。
「緊張してたか」
「少しだけ」
「そうは見えなかった」
「頑張りましたから」
そう答えると、セドリックの目元がやわらいだ。
「見てた」
「え?」
「ちゃんと」
卒業式の夜の言葉を、ラウラは思い出した。
――これからのお前も見る。ちゃんと。
胸の奥が、静かに熱くなる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「言いたくなったのです」
セドリックは少しだけ口元を緩めた。
その表情を、近くにいたエリオットが見逃すはずもなかった。
式が終わり、祝福の声に包まれる中、エリオットが近づいてくる。
「セドリック」
「何だ」
「ずいぶん幸せそうな顔をしてるね」
セドリックの眉がわずかに動いた。
「してない」
「してるよ」
「してない」
エリオットは楽しそうに笑う。
それから、ラウラへ視線を向けた。
「ラウラ、見た?」
ラウラは少しだけ困ったように、けれど楽しそうに微笑んだ。
「少しだけ」
「ほら」
セドリックはラウラを見る。
「お前まで」
「だって、本当に少しだけ」
「少しならいいのか」
「今日は、いいのではありませんか?」
ラウラがそう言うと、セドリックは黙った。
けれど、否定はしなかった。
その様子を見て、エリオットはふっと目を細める。
「……本当に、変わったね」
セドリックは視線だけを向けた。
「何がだ」
「君が」
エリオットは、少しだけ懐かしむように笑った。
「昔の君を知っている身としては、なかなか感慨深いよ」
「何の話だ」
「ラウラを困らせてばかりいた、あの意地っ張りが」
「エリオット」
「今では、ちゃんと手を取って、ちゃんと言葉にして、隣に立っている」
エリオットの声はからかうようでいて、どこかやさしかった。
「あの頃の君は、いじめっ子みたいな婚約者だったのにね」
ラウラは思わず目を瞬いた。
セドリックの眉間にしわが寄る。
「お前」
「怒らないでよ。褒めてるんだから」
「どこがだ」
「ここまで素直になったところ」
エリオットは肩をすくめる。
「ずいぶん時間はかかったけどね」
セドリックは黙った。
言い返すかと思った。
けれど、彼は少しだけ視線を落とし、それからラウラを見た。
「……遅かった自覚はある」
ラウラは息を止めた。
エリオットも、ほんの一瞬だけ目を丸くする。
セドリックはラウラから目を逸らさないまま、低く続けた。
「その分、これから間違えないようにする」
短い言葉だった。
けれど、それは何よりもセドリックらしい誓いだった。
ラウラの胸が、静かに熱くなる。
昔、彼の言葉に傷ついたことがある。
距離の取り方がわからなくて、何度も胸を痛めた。
それでも今、目の前にいるセドリックは、もうあの頃のままではない。
不器用なところは変わらない。
ぶっきらぼうなところも、きっとこれからも残る。
けれど、彼はちゃんと変わろうとしてくれた。
ラウラを困らせてばかりいた少年は、今、ラウラの隣で、彼女の手を離さずに立っている。
そのことが、たまらなく愛おしかった。
「……はい」
ラウラがそう答えると、セドリックの目元がほんの少しだけやわらいだ。
エリオットは二人を見て、満足そうに息を吐く。
「うん。これはもう、僕がからかう余地も少ないかな」
「最初からない」
「あるよ。今も十分ある」
「黙れ」
「はいはい」
そう言いながらも、エリオットの声はあたたかかった。
「本当に、よかったね。セドリック」
セドリックは少しだけ黙った。
それから、短く答える。
「……ああ」
その一言には、今までよりずっと素直な響きがあった。
ラウラは隣で、それを静かに聞いていた。
ふと、足元に銀色の影が寄ってくる。
「シーフ」
ラウラが呼ぶと、銀狼は当然のように二人の前へ立った。
金色の瞳でセドリックを見上げ、それからラウラを見る。
まるで、ようやく並んだな、と言っているようだった。
セドリックが低く言う。
「偉そうだな」
シーフはふん、と鼻を鳴らした。
ラウラは思わず笑ってしまう。
「最初に認めてくださったのは、シーフですもの」
「そうだったな」
「今日も、見届けに来てくださったのでしょうか」
シーフは尾をゆっくり揺らした。
その姿は、どこか満足そうだった。
昔は、シーフがきっかけで結ばれた婚約を、重く感じたこともあった。
けれど今は、その始まりさえ愛おしい。
ラウラはそっとシーフの頭を撫でた。
「ありがとう」
シーフは目を細める。
セドリックが隣で小さく息を吐いた。
「礼を言う相手が多いな」
ラウラは顔を上げる。
「では、セドリック様にも」
「ついでみたいに言うな」
「ついでではありません」
「本当か」
「本当です」
数年前にも似たようなやり取りをした気がして、ラウラは小さく笑った。
セドリックも、それに気づいたのか、ほんのわずかに口元を緩める。
白い花の香り。
祝福の声。
隣にいる人の温度。
すべてが、今日という日に重なっていく。
ラウラは、セドリックの手をそっと握り直した。
彼は何も言わず、握り返す。
もう、誰かに見られても怖くなかった。
恥ずかしさが消えたわけではない。
これから先も、戸惑うことはきっとある。
けれど、胸を張って立てる。
この人の隣に。
自分で選んだ場所に。
セドリックが低く呼ぶ。
「ラウラ」
「はい」
「行くぞ」
「はい」
ラウラは頷き、セドリックの隣に並んだ。
たくさんの祝福の中を、二人で歩き出す。
かつて家同士に結ばれた婚約は、卒業の夜に二人自身の約束になった。
そして今日、その約束は未来になった。
ラウラはもう迷わない。
誰に見られても、胸を張って。
この人の隣に立つ。
こちらのお話で完結となります。
読んでいただきありがとうございました。




