57 逃げられない距離
アルベルトへの返書を出してから、数日が過ぎた。
胸の奥にあった小さな痛みは、まだ完全に消えたわけではない。
けれど、それは後悔ではなかった。
きちんと向き合った痛みだ。
そう思えるようになった頃、ラウラは伯爵家の庭にいた。
春の終わりの風はやわらかく、庭の花々は初夏へ向かう支度を始めている。
花祭りでつけてもらった淡い紫の髪飾りは、今日は机の上に置いてきた。
けれど、髪に触れたセドリックの指先の感覚だけは、まだどこかに残っている気がする。
――似合ってる。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
ラウラは花壇の前で小さく息を吐いた。
「……もう、駄目ですね」
自分でも呆れるほど、すぐに思い出してしまう。
セドリックの声。
セドリックの手。
セドリックが「来年も」と言った時の、ほんの少しだけやわらかくなった表情。
好き。
その気持ちは、もう胸の中で静かに根を張ってしまった。
まだ言葉にはしていない。
けれど、否定する気もなかった。
その時だった。
「何が駄目なんだ」
背後から低い声がして、ラウラは肩を跳ねさせた。
振り返ると、庭の小道にセドリックが立っていた。
いつものように、少し不機嫌そうにも見える顔。
けれど、ラウラにはもうわかってしまう。
本当に不機嫌なわけではないことを。
「セ、セドリック様」
「驚きすぎだろ」
「急にいらっしゃるからです」
「普通に来た」
「普通に来られても、驚く時は驚きます」
「そうか」
短く返したセドリックは、ラウラの顔を見て、少しだけ眉を動かした。
「顔が赤い」
「気のせいです」
「またか」
「またです」
ラウラが少しだけむきになって答えると、セドリックは何か言いかけて、やめた。
その代わりに、庭の花壇へ視線を向ける。
「花を見てたのか」
「はい」
「そうか」
それだけの会話なのに、以前よりずっと落ち着かない。
ラウラは視線を花壇へ戻そうとした。
その瞬間。
ふわりと風が吹いた。
髪が頬をかすめる。
それと同時に、耳の少し上あたりに、何か小さな感触がした。
「……?」
ラウラは何気なく手を上げかけた。
けれど、指先が髪に触れる前に、何かがかさりと動いた。
「……っ」
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
ラウラはゆっくりと手を下ろし、ぎこちなくセドリックを見る。
「セドリック様」
「何だ」
「私の髪に、何かついていますか」
セドリックはラウラの髪へ視線を向けた。
そして、一瞬だけ動きを止めた。
その反応だけで、ラウラの背筋がぞわりとした。
「……いますか」
「動くな」
「いますね?」
「動くなと言っている」
「何がいますか」
「小さい虫だ」
「む、虫」
ラウラの声が裏返った。
思わずその場から一歩逃げようとして、セドリックに低く止められる。
「動くな」
「無理です」
「無理でも動くな」
「髪にいるのですよね?」
「ああ」
「取ってください!」
ほとんど反射だった。
ラウラは自分でも驚くほど必死な声を出していた。
セドリックも少しだけ目を見開く。
「……俺が?」
「他に誰がいるのですか」
言ってから、ラウラははっとした。
どこかで聞いたようなやり取りだった。
花祭りに誘われた時のことを思い出して、こんな時なのに頬が熱くなる。
けれど今はそれどころではない。
「お願いします、早く……!」
セドリックは一瞬だけ口元を押さえるようにした。
「笑いましたか?」
「笑ってない」
「今、笑いそうでした」
「笑ってない。動くな」
そう言って、セドリックが一歩近づく。
距離が、近くなる。
ラウラは別の意味で息を止めた。
セドリックの手が伸びてくる。
けれど、途中で止まった。
「触れていいか」
低い声。
その一言に、ラウラの胸がどきりと跳ねた。
虫がいる。
髪に虫がいる。
だから今はそれどころではないはずなのに。
それでも、その確認が胸に触れてしまう。
以前なら、きっと聞かなかった。
今のセドリックは、聞いてくれる。
ラウラは小さく頷いた。
「……はい」
セドリックの指先が、ラウラの髪に触れようとした。
その時だった。
茂みの奥から、銀色の影がぬっと現れた。
「……シーフ?」
ラウラが目を瞬く。
銀狼は音もなく小道へ出てくると、ラウラとセドリックの間に割り込むように立った。
ふさふさの尾が、ゆっくりと揺れている。
その金色の瞳は、まっすぐセドリックを見ていた。
まるで、ラウラに何をしている、とでも言いたげに。
セドリックの眉がわずかに動く。
「……お前も来たのか」
シーフは返事をする代わりに、低く鼻を鳴らした。
ラウラは髪を押さえたい衝動と、動いてはいけない恐怖の間で固まっている。
「シーフ、今は少し待ってくださいませ……!」
言っている間にも、髪の中で何かがかさりと動いた気がした。
ラウラは小さく悲鳴をこぼす。
「セドリック様、やっぱり早く……!」
「だから動くな」
「シーフが見ています」
「それは俺もわかってる」
「では早く」
「お前が動くからだ」
「動いていません!」
「声が動いてる」
「声は関係ないでしょう!」
セドリックがわずかに息を吐いた。
その横で、シーフがラウラの髪へ鼻先を近づけようとする。
ラウラは慌てて首をすくめた。
「シーフまで近づかないでください!」
銀狼はぴたりと止まる。
そして、少しだけ不満そうに耳を伏せた。
セドリックが低く言う。
「余計に動くな」
「だって、シーフが」
「心配してるだけだろ」
「それはわかりますけれど……!」
ラウラの声は半分泣きそうになっていた。
虫が怖い。
シーフに鼻先を寄せられるのもくすぐったい。
そして何より、セドリックが近い。
近すぎる。
ラウラはもう、何に慌てているのかわからなくなっていた。
セドリックはシーフをちらりと見下ろした。
「少しどけ」
シーフは動かない。
「ラウラの髪から虫を取るだけだ」
シーフはじっとセドリックを見る。
「……本当だ」
そのやり取りに、ラウラは思わず目を瞬いた。
まるで本当に会話をしているようだった。
しばらく見つめ合ったあと、シーフはようやく半歩だけ横へ退いた。
けれど、完全には離れない。
セドリックを見張るように、ラウラの足元に座った。
セドリックは小さく息を吐く。
「許可は出たらしい」
「許可制だったのですか……?」
「知らない」
そう言いながら、セドリックはもう一度ラウラへ向き直った。
「じっとしてろ」
「しています」
「目、閉じてろ」
「なぜですか」
「怖いなら見ない方がいい」
その言い方が、ぶっきらぼうなのにやさしくて。
ラウラは素直に目を閉じた。
すぐ近くに、セドリックの気配がある。
足元にはシーフの気配もある。
守られているような、見張られているような、不思議な距離だった。
髪に触れる指先。
花祭りの時よりも、ずっと慎重な手つきだった。
「……まだ、いますか」
「いる」
「早く取ってください」
「髪に絡んでる。動くな」
「絡んで……っ」
ラウラは思わず肩をすくめた。
その瞬間、シーフが心配そうに鼻を鳴らす。
セドリックの声が低く落ちる。
「大丈夫だ」
短い声だった。
「すぐ取る」
たったそれだけなのに、ラウラの胸が落ち着く。
変だ。
虫はまだ髪にいるのに。
シーフも足元でじっとこちらを見ているのに。
セドリックの声を聞くだけで、少し怖さが薄れる。
ラウラはぎゅっと目を閉じたまま、小さく息を吸った。
「……お願いします」
「ああ」
髪をすくう指先が、耳元をかすめる。
近い。
近すぎる。
セドリックの息遣いがわかるほど近い。
ラウラは、虫が怖いのか、セドリックが近いのか、もう自分でもわからなくなっていた。
やがて。
「取れた」
その声に、ラウラは目を開けた。
セドリックの指先には、小さな緑色の虫が乗っていた。
「見せないでください!」
ラウラが慌てて顔を背けると、セドリックは本当に少しだけ笑った。
「小さいぞ」
「大きさの問題ではありません」
「花壇にいただけだろ」
「髪にいるのは違います」
「そうか」
セドリックは近くの葉の上に虫を逃がした。
シーフがその虫をじっと見下ろす。
そして、虫が葉の裏へ逃げていくのを確認すると、ふん、と鼻を鳴らした。
まるで、自分も見届けたと言っているようだった。
ラウラはまだ落ち着かず、両手で髪を押さえる。
「もういませんか」
「ああ」
「本当に?」
「本当だ」
「見落としていませんか」
「見落としてない」
「絶対ですか」
「絶対だ」
そう言いながら、セドリックはラウラの髪を見ていた。
足元のシーフも、同じようにラウラを見上げている。
ふたり分の視線に気づいて、ラウラは急に恥ずかしくなった。
「……そんなに見ないでください」
「虫がいないか確認してる」
「もう取れたのでしょう」
「念のためだ」
「本当に念のためですか」
セドリックは答えなかった。
その沈黙に、ラウラの心臓がまた跳ねる。
風が吹いて、乱れた髪が頬にかかった。
セドリックの手が、ほんの少し動く。
けれど、また途中で止まった。
「髪が乱れてる」
「え?」
「直していいか」
ラウラは息を止めた。
さっき虫を取ってもらったばかりなのに。
その時とは違う。
もう理由は、虫ではない。
ただ、髪が乱れているから。
それだけ。
ラウラは逃げてもよかった。
自分で直します、と言ってもよかった。
けれど、言葉は違う形で出てきた。
「……お願いします」
セドリックの目が、ほんの少し揺れた。
それから、彼は静かに手を伸ばす。
指先が、ラウラの髪に触れる。
耳元にかかった髪を、そっと整える。
その手つきは相変わらず不器用だった。
でも、ひどく丁寧だった。
ラウラは俯いたまま、じっとしていた。
胸が苦しい。
けれど、嫌ではない。
困る。
けれど、離れたくない。
そう思った瞬間、花祭りの日に胸に落ちた言葉が、また静かに浮かび上がった。
好き。
やっぱり、好き。
もう何度思っても、変わらない。
セドリックの手が髪から離れる。
けれど、距離はまだ近かった。
シーフが足元で、ふいにラウラの手へ鼻先を押しつけた。
「シーフ?」
ラウラが見下ろすと、銀狼は金の瞳でラウラを見上げている。
そして今度は、そっとラウラの背中側へ回り、鼻先で軽く押した。
ほんの少し。
けれど確かに、セドリックの方へ。
「シ、シーフ……?」
ラウラは思わず踏みとどまる。
セドリックもそれに気づいたらしい。
銀狼を見てから、ラウラを見る。
「逃げるなと言われてるんじゃないか」
ラウラの頬が熱くなる。
「シーフは、そういう意味で押したわけでは……」
言いかけたところで、シーフがもう一度鼻を鳴らした。
まるで否定しないかのように。
ラウラは言葉を失った。
セドリックは少しだけ視線を伏せる。
「……俺も」
低い声だった。
ラウラは顔を上げる。
「え?」
「俺も、もう逃げるつもりはない」
その言葉に、胸が震えた。
庭の風が、ふたりの間を通り抜ける。
シーフはラウラの隣に静かに座り、じっと二人を見守っていた。
「ラウラ」
名前を呼ばれた瞬間、胸がまた跳ねる。
「はい」
セドリックは、まっすぐラウラを見ていた。
いつものように、言葉を探している顔だった。
でも今日は、逃げなかった。
「この間、花祭りで」
「はい」
「お前が言いかけたことがあっただろ」
ラウラの指先が動く。
――とても、好きです。
――花祭りが、です。
思い出しただけで頬が熱くなる。
「……忘れてください」
「無理だ」
即答だった。
ラウラは目を見開く。
セドリックは、視線を逸らさなかった。
「忘れられるわけがない」
その声は低かった。
けれど、ひどく真剣だった。
「お前が何を言おうとしたのか、勝手に決めつけるつもりはない」
「……」
「でも、俺は」
そこで一度、彼は言葉を切った。
ラウラの胸が、痛いくらい鳴る。
シーフが静かに尾を揺らした。
まるで、続きを待っているように。
セドリックは、覚悟を決めるように息を吐いた。
「俺は、お前が好きだ」
風が止まったような気がした。
庭の音が遠くなる。
ラウラは何も言えなかった。
ただ、セドリックを見つめる。
セドリックは続けた。
「昔から、うまく言えなかった。間違えたことも多かった」
「……」
「お前を傷つけたこともある」
その声は、苦しそうだった。
でも、逃げていなかった。
「だから、今さらこんなことを言える立場じゃないのかもしれない」
ラウラの胸が締めつけられる。
「でも、言わずにいるのも違うと思った」
セドリックは、まっすぐラウラを見る。
「好きだ」
二度目の言葉。
今度は、逃げ場がなかった。
ラウラの胸に、まっすぐ届いた。
「お前が、好きだ」
ラウラは唇を震わせた。
言わなければ。
今、ちゃんと。
ずっと胸の中にあった言葉を。
花祭りの日に気づいてから、ずっと抱えていた言葉を。
ラウラは両手を胸の前で握りしめる。
「……私も」
声が震えた。
けれど、セドリックは動かなかった。
ただ、待ってくれている。
言える時でいい。
そう言ってくれた人が、今も待ってくれている。
ラウラは小さく息を吸った。
「私も、セドリック様が好きです」
言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
怖かった。
恥ずかしかった。
でも、言えた。
セドリックは一瞬、信じられないものを見るような顔をした。
それから、息を止めるように黙る。
「……本当にか」
「こんなことで嘘はつきません」
「そうか」
「はい」
「……そうか」
同じ言葉を繰り返すセドリックに、ラウラは思わず少しだけ笑ってしまった。
「セドリック様」
「何だ」
「嬉しいのですか」
セドリックは眉を寄せた。
「悪いか」
「悪くありません」
「なら聞くな」
「聞きたくなったのです」
ラウラがそう言うと、セドリックは視線を逸らした。
耳が赤い。
それを見て、ラウラの胸がまた甘く痛む。
さっきまで虫であんなに慌てていたのに。
今は、そんなことが遠い昔のようだった。
足元で、シーフが満足そうに尾を揺らした。
そして、ラウラの膝のあたりにそっと鼻先を寄せる。
ラウラは小さく笑い、シーフの頭を撫でた。
「……シーフにも、心配をかけてしまいましたね」
シーフは目を細めた。
セドリックは、満足そうに尾を揺らすシーフを見て、わずかに目を細める。
「……偉そうだな」
「シーフが、ですか?」
「主家の神獣のくせに、俺まで見張っている顔をしてる」
ラウラは思わず瞬きをした。
「見張っている……?」
「お前に何かしないか、見てたんだろ」
シーフは否定しなかった。
むしろ、当然だと言いたげに尾を揺らしている。
セドリックは少しだけ気まずそうに口を開いた。
「……まあ、今さら確認するまでもないだろうけどな」
「何がですか?」
「そいつは、だいぶ前からお前を認めてるだろ」
ラウラは目を瞬いた。
「シーフが、私をですか?」
「ああ。でなきゃ、俺とお前の婚約話なんて出ていない」
その言葉に、ラウラの胸が静かに跳ねた。
シーフがラウラに懐いたこと。
それがきっかけで、セドリックとの婚約が決まったこと。
昔は、ただ困惑するばかりだったその出来事が、今になって少し違う意味を持って胸に落ちてくる。
ラウラはシーフを見る。
銀狼は、当然だと言いたげに尾を揺らしていた。
「……そうでしたね」
小さく呟くと、セドリックが横目でラウラを見る。
「忘れてたのか」
「忘れていたわけではありません。ただ……」
「ただ?」
ラウラは少しだけ頬を染めた。
「今、思い出すと、不思議な気持ちになります」
「何がだ」
「あの時、シーフはもう、私をセドリック様の隣に立つ相手として見てくれていたのかもしれないと思うと」
シーフはふん、と鼻を鳴らした。
まるで、当然だと言っているようだった。
セドリックは少しだけ黙ったあと、低く言う。
「……そいつなら、そういうこともあるかもな」
「セドリック様も、そう思いますか?」
「神獣だろ」
「はい」
「なら、俺たちより見る目はある」
その言い方が妙に真面目で、ラウラは思わず笑ってしまった。
セドリックが少し不満そうに眉を寄せる。
「何だ」
「いえ。セドリック様が、シーフをそんなふうに褒めるなんて」
「褒めてない」
「褒めていました」
「事実を言っただけだ」
そう言いながら、セドリックは足元のシーフへ視線を落とした。
シーフはゆったりと尾を揺らしている。
その姿は、どこか得意げだった。
ラウラは胸の奥が甘くなるのを感じた。
昔は、シーフがきっかけで結ばれた婚約を、少しだけ重く感じていた。
自分の意思とは別のところで決まってしまったもののように思っていた。
けれど今は違う。
あの日、シーフが自分に懐いたこと。
セドリックの家の神獣であるシーフが、ラウラを認めてくれたこと。
そして、それが二人の縁を結ぶきっかけになったこと。
その全部が、今は少しだけ愛おしい。
ラウラはシーフの頭をもう一度撫でた。
「……ありがとう、シーフ」
銀狼は目を細め、満足そうにラウラの手へ頬を寄せた。
セドリックはそれを見て、少しだけ小さく息を吐く。
「礼を言う相手が違うんじゃないか」
ラウラは顔を上げた。
「え?」
「俺にも、少しくらい言え」
その拗ねたような言い方に、ラウラはきょとんとしたあと、思わず笑ってしまった。
「セドリック様にも、ありがとうございます」
「ついでみたいに言うな」
「ついでではありません」
「本当か」
「本当です」
ふたりの間に、やわらかな沈黙が落ちた。
シーフが足元で尾を揺らす。
その姿は、やはりどこか満足そうだった。
けれど、繋がってしまった気持ちは、もう戻らない。
セドリックが小さく息を吐く。
「……触れていいか」
ラウラは顔を上げた。
今度は、髪を直すためではない。
虫を取るためでもない。
そのことがわかって、頬が熱くなる。
けれどラウラは逃げなかった。
小さく頷く。
「はい」
セドリックの手が、ゆっくり伸びる。
指先が、ラウラの髪に触れた。
さっき整えたばかりの髪を、もう一度そっとなぞる。
それから、彼はラウラの手を取った。
強くはない。
けれど、確かに離さない握り方だった。
「……もう、嫌かどうかは聞かないんですね」
ラウラが小さく言うと、セドリックは少しだけ目を細めた。
「聞いた方がいいか」
「いいえ」
ラウラは首を横に振る。
そして、自分から少しだけ指を握り返した。
「嫌ではありません」
その言葉に、セドリックの手がほんの少し強くなる。
ラウラは笑った。
「困っては、いますけれど」
「またか」
「はい。またです」
「……そうか」
今度の「そうか」は、呆れたようでいて、どこか嬉しそうだった。
庭に、春の終わりの風が吹く。
花壇の白い花が、小さく揺れた。
シーフはふたりの足元に腰を下ろし、満足げに尾を揺らしている。
まるで、これでよし、と言っているようだった。
ラウラは繋いだ手を見下ろし、それからセドリックを見上げる。
好き。
今度は、胸の中だけではない。
ちゃんと、言葉にできた。
セドリックも同じ気持ちでいてくれた。
その事実が、まだ夢のようで。
でも、繋いだ手の温度だけは、確かだった。
「セドリック様」
「何だ」
「虫は……もう、本当にいませんよね」
セドリックは一瞬黙った。
それから、少しだけ笑った。
「いない」
「本当に?」
「ああ」
「シーフも、確認してくれましたよね?」
ラウラが足元を見ると、シーフは当然だと言いたげに鼻を鳴らした。
セドリックが低く言う。
「そいつが確認したなら、いないだろ」
「そうですね」
ラウラはほっと息を吐いた。
それから、少しだけ勇気を出して、繋いだ手に視線を落とす。
「では、もう少しだけ、このままでいてもいいですか」
セドリックはラウラの手を握ったまま、視線を逸らした。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうな返事。
けれど、その声はひどくやさしかった。
ラウラは小さく笑う。
「はい」
ふたりは庭の小道に並んで立っていた。
近すぎるくらいの距離で。
足元には、銀狼のシーフがいる。
セドリックの家の神獣であり、二人の始まりを知る存在。
そして、きっと今も、二人が逃げないように見守っている。
けれど、もう遠ざかろうとは思わなかった。




