58 隠しきれない空気
放課後。
授業を終えた生徒たちが校舎からあふれ、正門前にはいつものように馬車が並び始めていた。
令嬢たちの挨拶。
別れを惜しむ声。
御者が扉を開ける音。
見慣れた帰りの光景の中で、ラウラは本を抱えたまま門の方へ歩いていた。
そして、校門の少し先に立つ人影を見つけて、足をゆるめる。
セドリックだった。
もう、珍しいことではない。
婚約解消の話をしてからしばらくの間も、彼は時々こうして学校の近くに現れた。
偶然通りかかったような顔で。
ついでのような口ぶりで。
けれど、結局はラウラに会いに来ているのだとわかる距離で。
だから、今日も彼がいること自体は、驚くほどのことではない。
驚くのは――それでもやっぱり、胸が跳ねてしまう自分の方だった。
「今日もいらしてるのね」
隣を歩いていた級友が、小さく笑う。
ラウラは取り繕うように視線を逸らした。
「たまたまかもしれません」
「ラウラ様、その“たまたま”は、ずいぶん長く続いておりますわ」
「……そうかもしれません」
否定しきれずにそう返すと、級友がくすりと笑った。
「けれど今日は、少し違って見えますわね」
「え?」
「いえ。何となく、です」
その意味を聞き返す前に、セドリックがこちらを見た。
目が合う。
その瞬間、セドリックの表情がわずかにやわらぐ。
ほんの少し、目元がほどけるような変化。
前から、きっとそういう顔はしていたのだろう。
ただ、今のラウラにはそれが前よりずっとはっきりわかってしまう。
胸の奥が熱くなる。
級友がそっと一歩引いた。
「では、私はここで」
「え、あの……」
「ごきげんよう、ラウラ様」
意味ありげに微笑んで去っていく背中を、ラウラは止められなかった。
少しだけ恨めしく思いながらも、結局そのままセドリックの方へ向かう。
近づくにつれて、周囲のざわめきが少しずつ遠くなる気がした。
生徒たちがいる。
馬車も並んでいる。
誰かに見られていてもおかしくない。
それなのに、セドリックの前まで来ると、なぜかそこだけ空気が変わる。
「お疲れさまです、セドリック様」
ラウラがそう言うと、セドリックは少しだけ眉を動かした。
「……ずいぶん他人行儀だな」
「学校の前ですから」
「そうか」
短く返したあと、彼の視線がラウラの腕の中の本へ落ちる。
それから、またラウラの顔へ戻る。
「今日は、長引いたのか」
「少しだけ補講がありました」
「そうか」
それだけの会話。
けれど、言葉のあとに落ちる間が、妙にやわらかい。
ラウラはその沈黙に耐えきれず、小さく問い返した。
「……セドリック様は?」
「何だ」
「今日は本当に、たまたまこちらに?」
問いかけながら、自分で少しだけ困る。
前なら、こんなことは聞かなかった。
聞くのが怖かったからだ。
けれど今は、答えが少しだけほしい。
セドリックはラウラを見つめ、それからごく自然な顔で言った。
「半分はたまたまだ」
「半分、ですか」
「ああ」
「残り半分は?」
「会いたかった」
あまりにあっさり言われて、ラウラは言葉を失った。
視線を逸らそうとして、できなかった。
こんな人だっただろうか。
いや、違う。
こういうことを言わない人だった。
言わないまま、自分だけで抱えてしまう人だった。
それが今は、不器用なりに言葉にしてくれる。
それだけで胸がいっぱいになる。
「……そういうことを、急におっしゃらないでくださいませ」
やっとのことでそう返すと、セドリックは少しだけ首をかしげた。
「聞いたのはお前だろう」
「そうですけれど」
「だから答えた」
「真面目に答えすぎです」
セドリックはわずかに口元をゆるめた。
「加減が難しい」
その言い方が、妙に正直で。
ラウラは困ったように息をつきながら、けれど少し笑ってしまう。
するとセドリックの目が、その笑みに吸い寄せられるように細められた。
本当に、こういうところだ。
大勢の前でも、彼はたぶん自覚のないまま、ラウラだけを見てしまう。
そしてラウラも、そんな視線を向けられると、もう周囲を上手に意識できなくなる。
「……あまり、そんなふうに見ないでください」
ラウラが小さく言うと、セドリックが眉を寄せた。
「そんなふうに、とは」
「その……」
言いにくい。
けれど黙っていると、この人はきっとわからない。
「周りが見ておりますから」
セドリックは周囲を一瞥した。
近くの生徒たちは、すぐに視線を外す。
けれど、完全に見ていないわけではない。
もう彼がここにいることには慣れているはずなのに、今日は何となく空気が違うと、たぶん皆感じている。
セドリックはすぐにまたラウラを見た。
「見られて困るか」
その問いは静かだった。
責めるようではなく、確かめるような声だった。
ラウラは少し迷ってから、小さく頷いた。
「……嫌ではありません。ただ、恥ずかしいのです」
「何がだ」
「こうしてお話ししているだけで、皆さまには何か伝わってしまう気がして」
「嬉しいくせに、困ってる顔をしてる」
ラウラは息を止めた。
顔が一気に熱くなる。
「セドリック様」
「違うか」
違わなかった。
違わないことが悔しくて、でもそれ以上に恥ずかしい。
ラウラが答えられずにいると、セドリックは小さく息を吐く。
「俺も似たようなものだ」
「え?」
「前みたいにしてるつもりでも、たぶんできてない」
ラウラは思わずセドリックを見た。
彼は視線を外さないまま続ける。
「会えればそれでいいと思って来た。けど、顔を見ると……思っていたより落ち着かない」
その言葉は、低くて静かで、でも確かだった。
周囲にはまだ人がいる。
耳を澄ませば、きっと誰かの話し声も聞こえる。
それなのに、その一言だけが妙に近く響く。
ラウラは唇をきゅっと結んだ。
「……私だけではなかったのですね」
「ああ」
「少し安心しました」
「俺は少し困った」
「どうしてですか」
「安心した顔をされると、もう少し見たくなる」
ラウラはとうとう返す言葉を失った。
前よりずっと言葉がまっすぐだ。
でも、そのまっすぐさが不思議と乱暴ではなくて、ただ心臓に悪い。
「……本当に、加減を覚えてくださいませ」
「努力はする」
「今の返事、少しも信用できません」
「なぜだ」
「もう次の瞬間には忘れていそうです」
「それはない」
きっぱり言ったあと、セドリックの視線がラウラの腕の中の本へ向いた。
「持つ」
ラウラは少し瞬く。
「大丈夫です。このくらいなら」
「そうじゃない」
「え?」
「持ちたい」
その言い方があまりにも自然で、ラウラはまた言葉に詰まった。
命令のようでいて、実は押しつけがましくない。
自分の気持ちとして言っているだけなのだとわかるから、なおさら弱い。
ラウラはそっと本を差し出した。
「……では、お願いします」
セドリックは本を受け取る時、ほんの少しだけ指先を止めた。
そのわずかな間に、ラウラはまた胸が鳴る。
ただ本を渡しただけなのに。
それだけなのに、ふたりの間にだけ細い糸のようなものが通っている気がする。
周囲にいる生徒たちが、もう彼がここにいることには驚かないのに、今日は何となく目を離せない――そんな理由が、ラウラにも少しわかった気がした。
「……やはり、変です」
思わず漏らすと、セドリックが本を持ったまま首を傾けた。
「何がだ」
「いつもと同じようなことをしているはずなのに、今日は違って見える気がします」
セドリックは少しだけ黙った。
それから、短く答える。
「同じじゃないからだろう」
「……」
「もう、気持ちを隠してない」
その言葉に、ラウラはまた黙り込むしかなかった。
それが答えだった。
いる場所は同じ。
交わしている言葉も、きっと前と大きくは変わらない。
けれど、隠していたものがなくなっただけで、空気はこんなにも変わる。
視線。
間。
声の温度。
何でもない一言の意味。
その全部が、少しずつ変わってしまった。
ラウラは小さく息をつく。
「……それを、学校の前でなさらないでくださいませ」
「無理だ」
即答だった。
ラウラは思わず顔を上げる。
「少しは迷ってください」
「迷っても、たぶん同じことを言う」
「セドリック様」
困ったように名前を呼ぶと、セドリックはようやく視線を逸らした。
けれど、その口元はまだほんのわずかに緩んでいる。
いつものように不機嫌そうに見えるのに。
今日は、隠しきれていない。
ラウラはそれに気づいてしまって、また胸が甘く苦しくなった。
その時、近くを通りかかった令嬢たちが、こちらをちらりと見た。
そしてすぐに視線を逸らし、小さな声で何かを囁き合う。
内容までは聞こえない。
けれど、何を思われているのかは、なんとなくわかった。
ラウラは本を持っていない方の手で、そっと頬に触れる。
熱い。
きっと、隠せていない。
「……やはり、伝わっています」
小さく呟くと、セドリックが首を傾けた。
「何がだ」
「私たちが、昨日までとは違うことです」
そう言ってしまってから、ラウラは少しだけ後悔した。
言葉にした途端、それが急に現実味を帯びる。
昨日までとは違う。
もう、ただの婚約者ではない。
義務だけで繋がっているわけでもない。
好きだと伝え合った相手なのだ。
ラウラが俯くと、セドリックはしばらく黙っていた。
それから、本を片手に持ち直し、低く言う。
「なら、伝わっても仕方ない」
「仕方ない、で済ませるのですか」
「本当のことだろ」
ラウラは言葉に詰まった。
ずるい。
そういうふうに真っ直ぐ言われると、もう何も返せなくなる。
「……本当に、今日は浮かれていらっしゃいますね」
ぽつりとこぼすと、セドリックは一瞬黙った。
そして、気まずそうに視線を外す。
「悪いか。昨日の今日だ」
その一言に、ラウラの胸が跳ねた。
昨日の庭。
告白。
繋いだ手。
その全部を、セドリックも同じように覚えている。
同じように、今日へ持ち越している。
そうわかってしまって、ラウラは何も言えなくなった。
「悪くはありません」
「ならいい」
「よくはありません。とても困ります」
「そうか」
その声は、いつもより少しだけやわらかかった。
ラウラはそれにも気づいてしまう。
ああ、やっぱり駄目だ。
何気ない返事ひとつにも、昨日までとは違う温度がある。
セドリックが何かを隠しきれていないように、ラウラもまた、それを受け止める自分の気持ちを隠しきれていない。
「……私も、きっと同じですね」
ラウラは小さく言った。
セドリックがこちらを見る。
「何がだ」
「普通にしているつもりでも、できていないのだと思います」
「そうだな」
「すぐに肯定なさらないでくださいませ」
「事実だ」
「もう……」
呆れたように言ったつもりだった。
けれど、声は思ったよりもやわらかくなってしまった。
セドリックの目元が、また少し緩む。
それだけで、ラウラの胸はまた跳ねた。
校門前には、まだ放課後のざわめきが満ちている。
けれど、ふたりの間だけは不思議と静かだった。
特別なことをしているわけではない。
ただ向かい合って、少し言葉を交わしているだけ。
それなのに、もう前と同じには戻れないのだとわかる。
「送る」
セドリックが短く言って、馬車の方へ視線を向けた。
以前なら、ついでのように聞こえたかもしれない。
けれど今は違う。
その一言の中に、会いたかったことも、もう少し一緒にいたいことも、うまく隠せない不器用さも、全部にじんでいる気がした。
ラウラは一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「……馬車まで、お願いします」
セドリックは何も言わず、ラウラの歩幅に合わせて歩き出した。
本を持つ手はそのままで。
隣に立つ距離も、近すぎず、遠すぎず。
けれど、昨日までより確かに近い。
周囲の視線がふと集まるのを感じる。
恥ずかしい。
とても恥ずかしい。
けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。
隠しきれない空気。
それはまだ慣れなくて、落ち着かなくて、どうしようもなく胸を乱すものだったけれど。
同時に、ラウラの胸をやわらかく満たしていくものでもあった。
校門前のざわめきの中、ラウラは隣を歩くセドリックをそっと見上げる。
目が合った。
今度は、すぐには逸らさなかった。
セドリックもまた、嬉しそうに目を細める。
その表情があまりに隠せていなくて、ラウラは小さく笑ってしまった。
――きっと、少しずつでいい。
この距離に。
この空気に。
そして、隠しきれないほど誰かを想う自分に。
ラウラはまだ熱の残る頬のまま、セドリックの隣を歩き出した。




