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55 返すべき言葉

花祭りの日から、数日が過ぎた。


机の上には、白い便箋が置かれている。


ラウラはその前に座ったまま、しばらく筆を取れずにいた。


窓の外では、春の終わりの庭が静かに揺れている。

やわらかな風が木々の葉を鳴らし、花壇の花を小さく揺らしていた。


机の端には、淡い紫の小花をあしらった髪飾りが置かれている。


花祭りの日、セドリックが選んでくれたものだった。


――似合ってる。


短く、ぶっきらぼうで。

けれど、ひどく近い距離で言われた言葉。


思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。


ラウラはそっと髪飾りに指先を伸ばし、花びらの形をなぞった。


あの日から、胸の中に落ちた言葉は消えてくれない。


好き。


声にはしていない。


誰にも言っていない。


もちろん、セドリック本人にも。


けれど、もう自分には嘘をつけなかった。


セドリックのことが好きなのだと、気づいてしまった。


そう気づいたからこそ、今日、筆を取らなければならないと思った。


ラウラは視線を便箋へ戻す。


アルベルトから届いた手紙を、もう一度思い出した。


――どうか、あなたご自身のお気持ちを、あなたのためにお選びください。


あの言葉は、今でも胸に残っている。


やさしくて、誠実で。

ラウラを急かすことなく、ただ静かに道を空けてくれた言葉。


だからこそ、曖昧なままにしてはいけない。


以前は、返事をしないことが誠実なのだと思った。


アルベルトが返事を求めていなかったから。

今の自分が迷ったまま言葉を返せば、かえって失礼になる気がしたから。


けれど、今は違う。


自分の心がどこへ向かっているのか、知ってしまった。


ならば、沈黙のままにしておくことはできない。


アルベルトのやさしさに甘えたまま、答えを曖昧に残すことはできない。


「……書きましょう」


小さく呟いて、ラウラは筆を取った。


けれど、最初の一文字を書くまでに、また少し時間がかかった。


どう書けば、傷つけずに済むのだろう。


そんなことを考えて、すぐに首を横に振る。


きっと、傷つけずに済ませることなどできない。


誰かの気持ちに同じ形で応えられないということは、どれほど言葉を選んでも、やさしいだけでは終わらない。


それでも。


だからこそ、せめて誠実でありたい。


アルベルトがそうしてくれたように。


ラウラは静かに息を吸い、便箋へ筆を下ろした。



アルベルト・ローデンベルク様


先日は、あたたかなお手紙をありがとうございました。


夜会でのこと、そして以前のお手紙のことまで、私の心を気遣ってくださったこと、心より感謝しております。


あなたのお言葉は、とてもやさしく、誠実なものでした。


私の返事を急かすことなく、私自身の気持ちを大切にするようにとおっしゃってくださったことを、私は決して軽く受け取ってはおりません。


そのお言葉に甘えるようで申し訳ありませんが、私は私なりに、自分の心と向き合いました。


そして今は、曖昧なまま沈黙を続けることこそ、あなたに対して失礼になるのだと思い、この手紙を書いております。


アルベルト様のお気持ちに、私は同じ形でお応えすることができません。


このようなお返事になってしまうことを、どうかお許しください。


けれど、あなたがくださった言葉に救われたこと。

あなたの誠実さをありがたく思ったこと。

そのお気持ちを、軽んじたわけでは決してないこと。


それだけは、どうしてもお伝えしたいと思いました。


あなたは、私が迷わないようにではなく、私が私自身のために選べるようにと、言葉をくださいました。


そのやさしさに、私はきちんと向き合いたいと思いました。


だからこそ、このような形でしかお返事できないことを、深くお詫び申し上げます。


どうか、あなたのこれからの日々が穏やかなものでありますように。


ラウラ・リンドグレイ



書き終えたあと、ラウラはしばらく動けなかった。


便箋の上に並んだ文字を見つめる。


丁寧に書いたつもりだった。


けれど、それでも足りない気がした。


もっと感謝を伝えるべきだっただろうか。

もっとやわらかい言い方があっただろうか。

もっと、傷つけない言葉を選べただろうか。


そんな考えがいくつも浮かんでは消える。


けれど、どれだけ考えても、結局答えは同じだった。


これ以上、期待を残す言葉を書いてはいけない。


やさしさのふりをして曖昧にすることは、きっと本当のやさしさではない。


ラウラはそっと筆を置いた。


窓の外から、花の香りを含んだ風が入ってくる。


机の端の髪飾りが、光を受けて淡く揺れたように見えた。


ラウラはそれを見つめ、胸の奥で静かに息を吐く。


セドリックを好きになったことを、アルベルトに書く必要はない。


それは、アルベルトに背負わせるべきものではないから。


けれど、自分の心がもう曖昧ではないことだけは、きちんと伝えなければならなかった。


ラウラは便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に入れた。


封蝋を押す指先が、ほんの少し震える。


それでも、途中でやめようとは思わなかった。


「これを、ローデンベルク伯爵家へ」


侍女に手紙を渡すと、侍女は静かに頭を下げた。


「かしこまりました」


手紙が部屋を出ていく。


その背中を見送って、ラウラはゆっくりと息を吐いた。


胸が痛い。


けれど、その痛みは、後悔とは少し違っていた。


誰かの誠実さに、誠実に返した。


ただ、それだけだ。


それでも簡単ではなかった。


ラウラは椅子に座り直し、窓の外を見る。


庭の花が風に揺れている。


花祭りの日に見た白い花の小道を思い出した。

繋がれた手の温度。

髪に触れた指先。

「来年も」と言ったセドリックの声。


胸の奥が、静かに熱くなる。


好き。


まだ声には出せない。


けれど、もう否定はしない。


その気持ちを選んだからこそ、今日の手紙を書いたのだ。


ラウラは髪飾りをそっと手に取った。


淡い紫の花は、光を受けてやわらかく見えた。


「……言える時でいい、でしたね」


セドリックの声を思い出して、小さく笑う。


今はまだ、言えない。


でも、いつか。


いつか、自分の言葉で伝えられる日が来るのだろうか。


その日を想像すると、恥ずかしさで胸が苦しくなる。


けれど、逃げたいとは思わなかった。


ラウラは髪飾りを胸元にそっと抱える。


窓の外では、春の終わりの風が庭を渡っていた。


手紙はもう、戻らない。


けれどそれは、何かを失うための一歩ではなく。


自分の心に、きちんと向き合うための一歩だった。

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