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54 花祭りの日

雨の回廊で言葉を交わしてから、数日が過ぎた。


あの日の雨は夜半にはやみ、翌朝の庭には、洗われたような光が残っていた。


けれどラウラの胸の中には、まだあの雨音が残っている。


肩にかけられた上着の重み。

隣に立つセドリックの気配。

ぶっきらぼうな声。


――困るのと、嫌なのは、違います。


自分で言った言葉を思い出すたび、ラウラはどうしていいかわからなくなる。


嫌ではない。

困っている。

けれど、離れたいわけではない。


むしろ。


あの雨がもう少し続けばいいと、どこかで思っていた。


そこまで思い出して、ラウラは慌てて胸元に手を当てた。


「……本当に、困ります」


その日の午後、ラウラは伯爵家の庭園にいた。


温室へ続く小道のそば。

春の終わりの花が、やわらかな風に揺れている。


屋敷の中では、朝から父の来客があり、いつもより少しだけ慌ただしかった。

けれど庭まで出てしまえば、その気配も遠い。


ラウラは花壇の前にしゃがみ、小さな白い花を眺めていた。


花を見ていると、少し落ち着く。


けれど最近は、その落ち着きの中にまで、セドリックが入り込んでくる。


庭の花を見ると、思い出す。


――似合ってる。


たったそれだけの言葉。


でもあの時の声は、今でも妙にはっきり残っていた。


「……困る」


また小さく呟いた時だった。


「また困ってるのか」


背後から低い声がした。


ラウラは肩を揺らして振り返る。


小道の先に、セドリックが立っていた。


今日は騎士学校の制服ではなく、外出用の上着を羽織っている。

いつもより少し整った格好をしているように見えた。


ラウラは慌てて立ち上がる。


「セドリック様」


「驚きすぎだろ」


「急にお声をかけられたので」


「普通に話しかけた」


「普通に、ですか」


「普通にだ」


そう言いながら、セドリックは少しだけ視線を逸らした。


その様子が、全然普通ではなくて。


ラウラは思わず、ほんの少しだけ笑いそうになる。


「……何だ」


「いえ」


「笑うな」


「まだ笑っていません」


「笑いそうだった」


「よくおわかりですね」


「わかる」


短く返されて、ラウラは言葉を失った。


何でもないような一言なのに、胸の奥に小さく残る。


そんなふうに言われるほど、自分はこの人の前で顔に出ているのだろうか。


そう思うと、少しだけ落ち着かなくなった。


ラウラは視線を落とす。


「今日は、父にご用だったのですか?」


「ああ。もう済んだ」


「では、お帰りの途中ですか」


「……そうだ」


そう言いながら、セドリックは帰ろうとしない。


ラウラは小さく首をかしげた。


「ほかにも、何かご用が?」


セドリックの眉がわずかに動いた。


「……ある」


「あるのですか」


「お前に」


ラウラの胸が、ひとつ跳ねた。


「私に、ですか」


「ああ」


セドリックは少しだけ言いにくそうに、視線を庭の方へ逃がした。


「今度の休日、花祭りがある」


「花祭り……」


王都の外れにある大きな公園で、毎年この時期に開かれる祭りだった。


春の終わりから初夏にかけて咲く花を集め、市民も貴族も訪れる小さな催し。


花の市が並び、菓子や紅茶の屋台が出て、広場では楽師たちが演奏する。


ラウラも名前は知っていた。


けれど、ここ数年は行っていない。


「それが、どうかなさいましたか」


「……行くか」


あまりにも短い誘いだった。


ラウラは一瞬、意味がわからなかった。


「え?」


「だから」


セドリックは気まずそうに眉を寄せる。


「花祭りに、行くかと聞いている」


ラウラは目を瞬いた。


セドリックが。


花祭りに。


自分を誘っている。


その事実が胸の中でゆっくり広がって、ラウラはすぐには返事ができなかった。


「……私と、ですか」


「他に誰がいる」


「いえ、その……そうですよね」


ラウラは慌てて視線を落とした。


頬が熱い。


花祭り。


人も多いだろう。

完全に二人きりというわけではない。


けれど、セドリックと一緒に花を見て歩く。


その光景を想像しただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。


「嫌ならいい」


セドリックが低く言った。


その声に、ラウラははっと顔を上げる。


「嫌ではありません」


返事は、思ったより早く出た。


セドリックも少し目を見開く。


ラウラは自分の声に驚いて、すぐに言葉を足した。


「ただ、突然だったので」


「そうか」


「……はい」


「では、行くのか」


ラウラは少しだけ迷った。


でも、その迷いは、行きたくないからではなかった。


行きたいと思ってしまっている自分が、恥ずかしかっただけだ。


ラウラは小さく頷いた。


「はい。行きたいです」


言った瞬間、セドリックの表情がほんの少し緩んだ気がした。


ほんの一瞬だった。


けれどラウラには、それが見えてしまった。


胸が、きゅっと甘く痛む。


「では、父に確認しておきます」


「伯爵には、俺からも話しておく」


「そこまでしてくださるのですか」


「誘ったのは俺だ」


当たり前のように言われて、ラウラはまた胸が落ち着かなくなった。


セドリックは、少しだけ目を逸らす。


「……前に、言ってただろ」


「え?」


「花祭りの時期は、雨上がりの花が綺麗だと」


ラウラは息を止めた。


言った。


確かに、言ったことがある。


それも、ずいぶん前に。


何気ない会話の中で、ラウラがぽつりとこぼした言葉だった。


自分でも忘れかけていた。


そんなことを、セドリックは覚えていた。


「……そんなことまで、覚えていらしたんですか」


思わずそう尋ねると、セドリックは気まずそうに視線を逸らした。


「たまたまだ」


「たまたま、ですか」


「たまたま覚えてただけだ」


「そうですか」


ラウラは小さく微笑んだ。


たまたまではない。


きっと、たまたまではない。


それがわかってしまうから、余計に困る。


「ありがとうございます」


「別に」


「楽しみにしています」


セドリックは少しだけ黙った。


それから低く答える。


「……俺も」


その声があまりに小さくて、ラウラは聞き間違いかと思った。


けれど、聞き返すことはできなかった。


聞き返したら、セドリックはきっと否定する。


それがわかっていたから。


ラウラはただ、胸の奥にその小さな言葉をしまった。



休日の朝。


花祭りの日は、薄く雲のかかった穏やかな空だった。


伯爵家の馬車が王都外れの公園へ着くと、すでに入口の広場には多くの人が集まっていた。


花の香り。

焼き菓子の甘い匂い。

楽師たちの弦の音。

行き交う人々の笑い声。


先に到着していたセドリックが、門のそばでラウラを待っていた。


いつも通り、どこか無愛想な顔をしている。

けれどラウラを見つけた瞬間、その表情がほんの少しだけ動いた気がした。


「来たか」


「お待たせいたしました」


「別に待ってない」


そう言いながらも、セドリックはすぐにラウラの歩幅に合わせて歩き出した。


侍女は少し離れてついてきている。

完全な二人きりではない。


けれど、人の流れに紛れて歩くと、不思議なくらい世界が狭くなる。


色とりどりの花で飾られた門をくぐった瞬間、ラウラは思わず足を止めた。


「……綺麗」


小さくこぼれた声に、隣のセドリックがこちらを見る。


「好きそうだな」


「はい」


ラウラは頷いた。


花と音楽とざわめきの中で、隣にいるセドリックの気配だけが、妙にはっきり感じられた。


「どこから見る」


セドリックが尋ねる。


「え?」


「花、見たいんだろ」


「……はい」


ラウラは少しだけ迷ってから、広場の奥を指した。


「あちらに、白い花の小道があるようです」


「じゃあ、そっちだな」


あまりに自然にそう言って歩き出すので、ラウラは少し慌てて後を追った。


花祭りの会場は、思っていたより人が多かった。


親子連れ。

若い貴族の令嬢たち。

商人や職人。

花を抱えた人々。


歩くたび、人の流れがゆるやかにぶつかってくる。


ラウラは一度、横を通った子どもに押されて、わずかによろめいた。


その瞬間。


セドリックの手が、ラウラの手首をそっと掴んだ。


「危ない」


低い声。


ラウラは息を止めた。


強く引かれたわけではない。


けれど、確かに支えられていた。


セドリックはすぐに手を離そうとして、少しだけ止まる。


「……嫌か」


ラウラの胸が、また跳ねた。


雨の回廊で聞かれた言葉を思い出す。


嫌なら言え。

近いとか、困るとか。


ラウラは、自分の手首に触れているセドリックの指を見た。


温かい。


少し固くて、大きな手。


その手に触れられていることが、困る。


けれど。


「嫌では、ありません」


声は小さかった。


セドリックの目が、ほんの少しだけ揺れる。


ラウラは慌てて続けた。


「人が多いですし……はぐれてしまうと困りますから」


「……そうだな」


セドリックは短く答えた。


そして、手首からそっと手を滑らせるようにして、ラウラの手を取った。


今度は、手首ではなく。


手のひらだった。


ラウラは固まった。


「……セドリック様」


「はぐれると困るんだろ」


真面目な顔で言われて、何も返せなくなる。


確かに、自分で言った。


人が多い。

はぐれると困る。


でも。


これは。


ラウラは手を引かれるまま歩き出した。


セドリックの手は、強く握りすぎることもなく、かといってすぐ離れてしまいそうなほど弱くもなかった。


ちゃんと、そこにいるとわかる握り方だった。


胸がうるさい。


花の香りも、音楽も、人の声も、すべて遠くなる。


今はただ、繋いだ手の温度だけが近かった。


白い花の小道は、祭りの奥にあった。


背の低い白い花が両側に植えられ、風が吹くたび、波のように揺れる。


ラウラは思わず足を止めた。


「本当に、綺麗……」


声に、自然と笑みが混じった。


セドリックは隣で何も言わなかった。


ラウラは花に見入っていて、しばらくそれに気づかなかった。


けれど、ふと横を見ると。


セドリックは、花ではなくラウラを見ていた。


「……何ですか」


ラウラは頬が熱くなる。


セドリックは、ほんの少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「いや」


「花を見に来たのではないのですか」


「見てる」


「私を見ていました」


「……見えてただけだ」


「それは、見ているのと同じではありませんか」


セドリックは返事に詰まった。


ラウラは思わず笑ってしまう。


それを見たセドリックが、また黙る。


「……今度は何ですか」


「笑ってるから」


「私だって笑います」


「知ってる」


「では、なぜそんなに見ているのですか」


セドリックは少しだけ間を置いた。


そして、低く言う。


「花を見てる時のお前は、楽しそうだから」


ラウラの胸が、きゅっと締めつけられた。


からかっているわけではない。


甘い言葉を言おうとしているわけでも、たぶんない。


ただ、本当にそう思ったから言った。


そんな声だった。


だから、余計に胸に触れる。


「……そういうことを、急におっしゃるから困るのです」


ラウラが小さく言うと、セドリックは少しだけ眉を寄せた。


「そうか……」


短い返事。


けれど、その声は優しかった。


それが、どうしようもなく嬉しかった。


ふたりは白い花の小道を歩いた。


繋いだ手は、まだ離れない。


途中で小さな花飾りを売る屋台があった。


色とりどりのリボンと花で作られた髪飾りが並んでいる。


ラウラが足を止めたのに気づいて、セドリックも立ち止まった。


「見るか」


「少しだけ」


ラウラは屋台に並ぶ飾りを眺めた。


白い小花のもの。

淡い青のリボンがついたもの。

桃色の花びらを重ねたもの。


どれも可愛らしい。


けれど、自分で身につけるには少し華やかすぎる気がして、ラウラは手を伸ばせなかった。


「似合うんじゃないか」


不意に、セドリックが言った。


ラウラは振り返る。


彼が見ていたのは、淡い紫の小花を使った小さな髪飾りだった。


「これが、ですか」


「ああ」


「少し、可愛らしすぎませんか」


「そうか?」


「はい」


「お前に似合うと思う」


あまりにも自然に言われて、ラウラは固まった。


セドリックも、少しして自分の言葉に気づいたのか、わずかに視線を逸らした。


「……嫌なら別のにしろ」


ラウラは髪飾りを見つめたまま、小さく首を振った。


「……いただきたいです」


セドリックがこちらを見る。


ラウラは頬が熱くなりながら、視線を落とした。


「ただ……その、驚いただけです」


「またか」


「はい。またです」


セドリックは小さく息を吐いた。


それから店主に声をかけ、その髪飾りを手に取った。


「これを」


ラウラは髪飾りを受け取る。


淡い紫の小花が、小さく揺れた。


「ありがとうございます」


「つけないのか」


「今、ですか?」


「今じゃなければ、いつつける」


それは、たしかにそうかもしれない。


でも、セドリックの目の前で髪飾りをつけるのは、妙に恥ずかしかった。


ラウラが迷っていると、セドリックが少しだけ首を傾げた。


「貸せ」


「え?」


「つける」


ラウラは息を止めた。


「セドリック様が、ですか」


「変か」


「いえ……その」


かなり変だと思った。


でも、嫌ではなかった。


むしろ、嫌ではない自分が困る。


ラウラは髪飾りを持つ指に、少しだけ力を込めた。


「……お願い、してもいいでしょうか」


セドリックは一瞬だけ黙った。


それから、ラウラから髪飾りを受け取る。


「わかった」


その手つきは、木剣を扱う時とはまるで違っていた。


どこか慎重で、慣れていなくて、少しだけ危なっかしい。


ラウラはじっとしていた。


セドリックの指が、髪に触れる。


ほんの少し。


それだけで、心臓が大きく跳ねた。


「……痛くないか」


「はい」


「ここでいいのか」


「たぶん」


「たぶんって何だ」


「私も見えませんので」


セドリックが、ほんの少しだけ笑った気がした。


本当にかすかな変化だった。


けれどラウラには、それがわかってしまった。


その笑みに、胸の奥が甘くほどける。


セドリックは髪飾りをつけ終えると、一歩下がってラウラを見た。


黙っている。


ラウラは落ち着かなくなった。


「……変ですか」


「いや」


「では、何か言ってください」


「似合ってる」


短い言葉だった。


けれど、前に聞いた時よりもずっと近くで言われた。


ラウラは、息が止まりそうになる。


「……ありがとうございます」


声が小さくなった。


セドリックは視線を逸らす。


「別に」


ぶっきらぼうな返事。


でも、耳元が少し赤い。


それを見た瞬間、ラウラの胸はもうどうしようもなくなった。


いとおしい、と思ってしまった。


あのぶっきらぼうで、強引で、いつも言葉が足りなくて、ラウラを困らせてばかりいた人を。


そんなふうに思ってしまった。


ラウラは自分の胸元をそっと押さえた。


もう、駄目かもしれない。


そう思った。


ふたりは再び歩き出した。


白い花の小道を抜けると、少し人の少ない丘へ出た。


そこには、花祭りの喧騒が少し遠くに聞こえるだけだった。


一面に淡い紫と白の花が咲いている。


風が吹くたび、花が揺れる。


セドリックはラウラの歩幅に合わせて、ゆっくり歩いた。


そのことにも、ラウラは気づいてしまう。


以前なら、そんなことには気づかなかったかもしれない。


けれど今は、わかる。


彼が少しずつ、ちゃんと近づこうとしてくれていることが。


「疲れたか」


セドリックが尋ねる。


「いいえ」


「無理してないか」


「していません」


「本当に?」


ラウラは思わず笑った。


「セドリック様は、今日はよく確認なさるのですね」


セドリックは少しだけ気まずそうにした。


「……前に、確認しなかったからな」


ラウラの笑みが、少しだけ止まる。


セドリックは、花畑の方を見たまま続けた。


「お前が嫌がっているのか、困っているだけなのか。前は、そういうのを見ようとしていなかった」


「……」


「だから、今は聞く」


その言葉は、ラウラの胸の奥に深く届いた。


大げさな言葉ではない。


けれど、それよりずっと、今のラウラには響いた。


この人は、変わろうとしている。


不器用なまま。

少しずつ。

でも、ちゃんとこちらを見て。


「……ありがとうございます」


ラウラがそう言うと、セドリックは短く頷いた。


「礼を言われることじゃない」


「私が言いたいのです」


「そうか」


「はい」


しばらく、ふたりは丘の上で花を見ていた。


風がラウラの髪を揺らす。


その拍子に、つけてもらった髪飾りが少しだけずれた。


ラウラが手を伸ばすより先に、セドリックがそれに気づく。


「ずれてる」


「あ……」


セドリックの手が、ラウラの髪に伸びた。


けれど途中で止まる。


「直していいか」


ラウラは息を呑んだ。


以前なら、きっと聞かなかった。


そのまま直していたかもしれない。


けれど今は、聞いてくれる。


たったそれだけのことが、胸に触れた。


ラウラは小さく頷いた。


「お願いします」


セドリックの指が、髪飾りに触れる。


風で乱れた髪を、そっと避ける。


その手つきは相変わらず不器用だった。


けれど、とても慎重だった。


ラウラは目を伏せた。


近い。


セドリックの気配が近い。


花の香りの中に、かすかに彼の服の匂いが混じる。


雨の日の上着を思い出した。


肩にかかった重み。

温かさ。

嫌ではない、と言った自分の声。


胸が、痛いくらい鳴っている。


「……できた」


セドリックが手を離す。


ラウラは顔を上げた。


「ありがとうございます」


「またずれたら言え」


「はい」


そこで会話は途切れた。


けれど、沈黙は怖くなかった。


むしろ、もう少しだけこの沈黙の中にいたいと思ってしまう。


ラウラは丘の向こうに広がる花を見た。


白と紫の花が、風に揺れている。


こんなに綺麗な景色なのに。


隣にいるセドリックの方が、ずっと気になってしまう。


その事実に気づいた瞬間、ラウラは静かに息を吸った。


ああ。


そうなのだ。


花祭りに来られて嬉しい。


綺麗な花を見られて嬉しい。


でも、それ以上に。


この人が誘ってくれたことが嬉しい。

この人が覚えていてくれたことが嬉しい。

この人が隣にいてくれることが、どうしようもなく嬉しい。


ラウラは、もうごまかせなかった。


好き。


その二文字が、胸の奥に落ちた。


声にはならなかった。


けれど、はっきりと形になった。


好きなのだ。


自分は、セドリックのことが好きなのだ。


そう気づいた瞬間、胸が痛いほど静かになった。


苦しい。

でも、嫌ではない。


困る。

でも、離れたくない。


むしろ、もっと一緒にいたい。


ラウラは髪飾りにそっと触れた。


セドリックが選んでくれた花。

セドリックがつけてくれた花。


それが髪にあるだけで、胸の奥が甘く震える。


「ラウラ」


名前を呼ばれて、ラウラは顔を上げた。


「はい」


「顔が赤い」


「……気のせいです」


「そうか?」


「そうです」


「疲れたのか」


「違います」


「熱でもあるのか」


「ありません」


セドリックが少し心配そうに眉を寄せる。


本気で心配している顔だった。


それがまた、胸に悪い。


ラウラは慌てて視線を逸らした。


「少し、花の香りに酔っただけです」


「花に酔うのか」


「……たぶん」


「たぶん?」


ラウラは返事に困って、口を閉じた。


本当は花の香りのせいではない。


隣にいる人のせいだ。


でも、そんなこと言えるはずがない。


セドリックは少しだけ考えたあと、近くの木陰を指した。


「少し休むか」


「大丈夫です」


「無理するな」


「本当に大丈夫です」


「ならいいが」


そう言って、セドリックはラウラの様子をまだ見ている。


その視線がくすぐったくて、ラウラは小さく笑った。


「セドリック様」


「何だ」


「今日は、誘ってくださってありがとうございました」


セドリックは少しだけ目を伏せた。


「お前が好きそうだと思っただけだ」


「はい」


ラウラは髪飾りに触れたまま、静かに微笑んだ。


「とても、好きです」


言ってから、自分の言葉に心臓が跳ねた。


セドリックも、一瞬固まった。


ラウラは慌てて言い直す。


「花祭りが、です」


「……ああ」


セドリックは短く答えた。


けれど、その声は少しだけ不自然だった。


ラウラの頬はさらに熱くなる。


今のは危なかった。


本当に、危なかった。


でも、完全に嘘でもなかった。


花祭りが好き。


けれど、それだけではない。


誘ってくれたセドリックが好き。

隣で歩いてくれたセドリックが好き。

不器用に髪飾りをつけてくれたセドリックが好き。


そう思ってしまったら、もう胸の中がいっぱいになった。


セドリックは少しだけ間を置いてから言った。


「また来るか」


ラウラは顔を上げる。


「え?」


「来年も」


その言葉に、ラウラの胸が大きく鳴った。


来年。


そんな先のことを、セドリックが口にした。


来年も一緒に。


そう聞こえてしまった。


「……はい」


ラウラは小さく頷いた。


「来年も、来たいです」


セドリックは、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「なら、覚えておく」


また、胸が甘く痛んだ。


この人はきっと本当に覚えている。


ラウラが言ったことを。

好きだと言ったものを。

来年も来たいと願ったことを。


きっと、覚えていてくれる。


ラウラは花の小道を見つめながら、胸の奥でそっと繰り返した。


好き。


まだ声にはしない。


けれどもう、否定はしない。


その答えを抱えたまま、ラウラはセドリックの隣で、しばらく春の終わりの花を見ていた。

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