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53 雨の回廊

午後から降り出した雨は、放課後になってもやまなかった。


春の終わりの雨だった。


激しくはない。

けれど細く、長く、校舎の屋根を濡らしつづけている。


ラウラは温室へ続く回廊の途中で、足を止めた。


庭園の奥にある小さな書庫へ寄るつもりだった。

けれど、この雨では中庭を横切ることができない。


傘は教室に置いたままだ。


「……困りました」


小さく呟いて、ラウラは柱のそばに立った。


雨に濡れた庭は、いつもより色が濃く見えた。


葉の緑も、土の黒さも、花びらに落ちた水滴も。

すべてがしっとりと沈んでいる。


こういう景色は嫌いではない。


静かで、少しだけ寂しくて。

誰にも急かされない感じがする。


ラウラは雨音に耳を澄ませた。


その時だった。


背後から、足音が聞こえた。


石造りの回廊に、低く、規則正しく響く音。


振り返ったラウラは、思わず息を止めた。


セドリックがいた。


騎士学校の制服ではなく、今日は貴族学校を訪ねた時の礼装に近い上着を着ている。

けれど肩先は少し雨に濡れていた。


濡れた髪が、額にかかっている。


「セドリック様……?」


セドリックも、ラウラを見て足を止めた。


ほんの一瞬、気まずそうに視線を逸らす。


けれど、すぐに戻した。


「……雨宿りか」


「はい。書庫へ向かうつもりだったのですが」


「傘は」


「教室に置いたままでした」


「……そうか」


そこで会話は途切れた。


雨音だけが、ふたりの間に落ちる。


ラウラは、妙に落ち着かなかった。


数日前に茶室で話したことを思い出す。

あの時より距離は離れているはずなのに、今の方がずっと近くに感じた。


ふたりきりだからだろうか。


雨のせいだろうか。


それとも、セドリックが以前より少しだけ、こちらをちゃんと見ているからだろうか。


セドリックは何か言いかけて、やめた。


それから、少しだけ眉を寄せる。


「……この間のことだが」


ラウラの指先が、ぴくりと動いた。


「はい」


「言い方が悪かった」


あまりにまっすぐ言われて、ラウラは目を上げた。


セドリックは、逃げなかった。


いつものように不機嫌そうではある。

けれど、その奥に少しだけ不器用な緊張が見えた。


「別のやつが近づくのが嫌だと言った」


「……はい」


「あれは、本心だ」


ラウラの胸が、小さく跳ねる。


雨音が急に遠くなった気がした。


「でも、それだけ言えば、お前を困らせるだけだとも思った」


ラウラは返事ができなかった。


セドリックが、そんなことまで考えてくれていた。

そのことが、思った以上に胸に触れた。


セドリックは少し間を置いてから、低く言った。


「ローデンベルクのことを悪く言うつもりはない」


ラウラは瞬きをした。


「……やっぱり、手紙のことをご存じだったんですね」


セドリックの表情が、わずかに気まずそうに揺れた。


「少しだけ聞いた」


「エリオット様からですか?」


「……そうだ」


「そうですか」


責めるつもりはなかった。


けれど、自分の知らないところで手紙のことが伝わっていたと思うと、少しだけ気まずい。


セドリックは、探るようにラウラを見た。


「気を悪くしたか」


「いいえ」


ラウラは首を横に振る。


「ただ、少し驚いただけです」


「……そうか」


短く答えたあと、セドリックは視線を雨の庭へ向けた。


「気に食わないとは思う」


あまりに正直な言い方に、ラウラは思わず目を丸くした。


セドリックは苦々しげに続ける。


「でも、悪く言うつもりはない。あいつは……たぶん、誠実なんだろう」


その声には、悔しさが滲んでいた。


認めたくない。

けれど、認めている。


そんな言い方だった。


ラウラは、少しだけ笑いそうになった。


「……そうですね。」


セドリックの肩が、わずかに強張る。


けれど、何も言わなかった。


その顔が少しだけ面白くて、少しだけ愛おしくて。

ラウラは慌てて視線を伏せた。


愛おしい。


そんな言葉が自分の中に浮かんだことに、驚いてしまった。


「……でも」


ぽつりと声がこぼれた。


セドリックがこちらを見る。


ラウラは雨に濡れた庭を見つめたまま、続けようとして――やめた。


今、言葉にしたら、きっと戻れなくなる。


「何だ」


「……何でもありません」


「言いかけただろ」


「言っていません」


「言いかけた」


「言っていません」


セドリックが眉を寄せる。


ラウラは思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。


それを見たセドリックが、黙る。


「……何ですか」


「いや」


「今、何か言おうとしましたよね」


「言ってない」


「言いかけました」


「言ってない」


さっきと同じやり取りになって、ラウラはまた笑いそうになった。


セドリックもそれに気づいたのか、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。


雨音の中、ふたりの間に落ちた沈黙は、さっきよりずっとやわらかかった。


その時、回廊の端から風が吹き込んだ。


細かな雨粒が斜めに流れ、ラウラの手元にひやりと落ちる。


「冷た……」


小さく呟いた瞬間、セドリックが一歩近づいた。


ラウラが顔を上げるより早く、彼は自分の上着を脱いでいた。


「濡れる」


それだけ言って、ラウラの肩に上着をかける。


不意打ちだった。


肩に落ちた布の重み。

雨の匂い。

それから、ほんの少しだけ残ったセドリックの体温。


ラウラは固まった。


「……セドリック様」


「嫌なら取れ」


「嫌では、ありません」


思ったより早く返してしまい、ラウラは自分で驚いた。


セドリックも驚いた顔をした。


ふたりはしばらく、黙って見つめ合った。


先に目を逸らしたのは、セドリックだった。


「……そうか」


その声が、妙に低い。


ラウラは上着の端をそっと掴んだ。


大きい。


自分の肩には少し余る。

けれど、その余る感じが、どうしようもなく落ち着かない。


包まれているみたいで。

守られているみたいで。


ラウラは頬が熱くなるのを感じた。


「ありがとうございます」


「別に」


「濡れてしまいますよ」


「俺はいい」


「よくありません」


「少しくらい濡れても平気だ」


「風邪を引いたらどうするんですか」


「引かない」


「どうして言い切れるんですか」


「鍛えてる」


あまりに真顔で言うので、ラウラはつい笑ってしまった。


セドリックが少しだけ不満そうにする。


「何だ」


「いえ……セドリック様らしいと思って」


「褒めてるのか」


「たぶん」


「たぶんか」


ラウラは口元を押さえた。


笑いをこらえようとしたのに、少しだけこぼれてしまう。


セドリックは黙ってそれを見ていた。


その視線に気づいて、ラウラは急に恥ずかしくなる。


「……何ですか」


「笑うんだな」


「私だって笑います」


「知ってる」


「では、なぜそんなことを」


セドリックは少しだけ視線を落とした。


「最近、あまり見てなかったから」


ラウラの胸が、きゅっと鳴った。


さっきまで軽くなっていた空気が、急に甘く沈む。


「……見ていたんですか」


「見てた」


ためらいのない返事だった。


ラウラは何も言えなくなる。


セドリックは、すぐに気まずそうな顔になった。


「いや、変な意味じゃない」


「変な意味とは」


「……だから」


珍しく言葉に詰まっている。


ラウラは、少しだけ意地悪をしたくなった。


「ちゃんと聞くようにすると言いましたから。変な意味とは、どういう意味ですか」


セドリックは眉間にしわを寄せた。


「お前、そういうところがある」


「どういうところですか」


「急に強い」


「セドリック様ほどではありません」


「俺は別に強くない」


「強いです」


「どこが」


「言い方が」


「……それは悪かった」


急に素直に謝られて、ラウラは言葉を失った。


セドリックは視線を逸らしたまま、低く続ける。


「前よりは、気をつける」


その一言が、不意に胸に落ちた。


大げさな言葉ではない。

甘い言葉でもない。


けれど、セドリックがちゃんと変わろうとしていることだけは、伝わってきた。


ラウラは上着の端を握る指に、少しだけ力を込める。


「……はい」


それしか言えなかった。


雨はまだやまない。


回廊の外では、薄い水煙のように雨が庭を覆っている。


ふたりは並んで立った。


近すぎるわけではない。

けれど、肩にかかった上着のせいで、ラウラにはどうしても近く感じる。


セドリックの袖が、ほんの少しだけラウラの手元に触れた。


それだけで、胸が跳ねた。


ラウラは慌てて雨の庭を見る。


「……雨、なかなかやみませんね」


「そうだな」


「お急ぎではないのですか」


「別に」


「訓練は?」


「今日は終わった」


「では、どうしてこちらに?」


何気なく尋ねたつもりだった。


けれど、セドリックは少しだけ黙った。


ラウラは横を見る。


「セドリック様?」


セドリックは、ものすごく言いにくそうな顔をしていた。


「……用があった」


「どなたにですか」


「お前に」


ラウラの息が止まる。


雨音が、また遠くなった。


「私に?」


「ああ」


「何のご用でしょう」


「……特に決めてなかった」


「え?」


「会えたら、少し話そうと思った」


セドリックは気まずそうに言った。


「それだけだ」


ラウラは、返事を忘れた。


会えたら、少し話そうと思った。


ただそれだけのために、ここまで来たのだろうか。


この雨の中を。


肩を濡らして。


ラウラは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「……それだけのために?」


「悪いか」


「悪くは、ありません」


「ならいい」


ぶっきらぼうに返す彼を見て、ラウラはまた笑いそうになった。


でも今度は、笑うより先に胸が苦しくなった。


どうしよう。


そう思った。


こんなふうに来られたら。

こんなふうに不器用に近づかれたら。

こんなふうに、ただ会いたかったみたいに言われたら。


もう、困るだけでは済まなくなる。


ラウラは視線を落とした。


肩の上着が、少しずれる。


それを直そうとした時、セドリックの手が伸びた。


「ずれてる」


彼の指が、上着の襟元を軽く直す。


ほんの一瞬。


指先が、ラウラの髪に触れた。


ラウラは息を止めた。


セドリックも気づいたのか、すぐに手を引く。


「……悪い」


「いえ」


声が小さくなる。


頬が熱い。


ラウラは、雨の庭を見ているふりをした。


見られたくなかった。


今の顔を。


きっと、自分でもわかるくらい赤くなっている。


けれどセドリックは、何も言わなかった。


からかいもしない。

問い詰めもしない。


ただ、少しだけ横に立っている。


その沈黙が、妙に優しかった。


「……ラウラ」


名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「はい」


「嫌なら言え」


「何をですか」


「こういうのを」


セドリックは、ラウラの肩にかかった上着をちらりと見る。


「近いとか、困るとか」


ラウラはゆっくり瞬きをした。


以前なら、きっとこんなふうに聞かなかった。


嫌かどうか。

困っているかどうか。


セドリックがそれを確かめようとしてくれることが、嬉しかった。


ラウラは少しだけ迷ってから、首を横に振った。


「……嫌ではありません」


セドリックの目が、わずかに揺れる。


ラウラは視線を伏せた。


「困ってはいますけれど」


「困ってるのか」


「はい」


「なら、取るか」


セドリックが上着に手を伸ばしかける。


ラウラは反射的に、その端を掴んだ。


「取らなくていいです」


自分で言ってから、はっとする。


セドリックも固まった。


ラウラは上着を掴んだまま、顔を上げられない。


「……その」


声が小さくなる。


「困るのと、嫌なのは、違います」


言ってしまった。


セドリックは何も言わなかった。


ラウラも、それ以上は言えなかった。


雨音だけが、ふたりを包んでいる。


しばらくして、セドリックが低く言った。


「……そうか」


たったそれだけ。


けれど、その声はいつもより少しだけやわらかかった。


ラウラは胸の奥がいっぱいになって、何も返せなかった。


雨はまだ、やまない。


けれどもう、早くやんでほしいとは思わなかった。


この回廊に、もう少しいたい。


この上着を、もう少しだけ肩にかけていたい。


隣にいるセドリックの気配を、もう少しだけ感じていたい。


そう思っている自分に気づいて、ラウラはそっと息を吸った。


「セドリック様」


「何だ」


「雨がやむまで……もう少しだけ、ここにいてもいいですか」


セドリックは一瞬、驚いたようにラウラを見た。


それから、雨の庭へ視線を戻す。


「……好きにしろ」


ぶっきらぼうな返事だった。


でも、声は優しかった。


ラウラは小さく笑った。


「はい」


ふたりは並んで、雨を見た。


近すぎない。

けれど、遠くもない。


肩にかかった上着の温もりだけが、静かにラウラへ伝わってくる。


ラウラはその温もりを感じながら、胸の奥でそっと思った。


たぶん、もう。


自分の心は、ずいぶん前から傾いていた。


ただ、それを認めるのが怖かっただけなのだ。


雨は、しばらくやまなかった。


それでもラウラは、その時間を少しも長いとは思わなかった。

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