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52 静かな一歩


数日後。


伯爵家に一通の封書が届いたのは、午後のやわらかな光が応接間へ差し込んでいた時だった。


侍女から差し出された封蝋を見て、ラウラはすぐに誰からのものかわかった。


ローデンベルク伯爵家。


胸の奥が、ほんの少しだけ緊張する。


あの夜会のあとだ。

何か来るかもしれないとは思っていた。


けれど、実際に目の前へ置かれると、指先に少しだけ力が入る。


ラウラは静かに封を切った。


中には、短い便箋が一枚だけ入っていた。


視線を落とす。



先日の夜会では、改めてご挨拶を申し上げる機会をいただき、ありがとうございました。


以前お送りした手紙について、どうかお気になさらないでください。

あの時申し上げた通り、私はご返答を求めるつもりはありません。


もしあれが、あなたのお心を余計に迷わせるものとなっていたなら、非礼をお詫びいたします。


どうか、あなたご自身のお気持ちを、あなたのためにお選びください。


アルベルト・ローデンベルク



読み終えても、ラウラはすぐには便箋をたためなかった。


短い。


驚くほど短い手紙だった。


けれど、その短さの中に、アルベルトの性格がそのまま表れているようだった。


押しつけない。

急かさない。

こちらの返事を求めない。


それでも、自分のしたことをなかったことにはしない。


ただ静かに、一歩引いている。


ラウラはそっと息を吐いた。


本当に、誠実な方なのだと思う。


アルベルトは、ラウラを困らせたくないのだろう。

自分の気持ちを押しつけることなく、けれど軽いものにもせず、丁寧に距離を取ってくれている。


そのやさしさは、ありがたかった。


ありがたい。


そう思うのに。


便箋を見つめたまま、ラウラの胸に最初に浮かんだのは、手紙の差出人ではなかった。


――お前に別のやつが近づくのが、嫌だ。


低くて、飾り気のない声。


――誠実とか、そういう話じゃない。


あの時の、少し拗ねたような、けれど逃げない横顔。


――でも、止まれなかった。


ラウラは便箋を持つ指に、少しだけ力を込めた。


どうして、こうなるのだろう。


目の前にある手紙は、こんなにも整っている。


言葉は丁寧で、距離の取り方もきれいで、ラウラを思いやる気持ちがまっすぐ伝わってくる。


それなのに、胸の奥に深く残っているのは、別の人の不器用な言葉だった。


アルベルトの言葉は、こちらを苦しめないようにそっと置かれている。


セドリックの言葉は、いつも急で、強くて、こちらを困らせる。


けれど。


困るほど、胸に残る。


アルベルトは、ラウラのために距離を取ってくれる。


セドリックは、距離の取り方が下手なまま、近くにいようとする。


どちらが正しいかと問われれば、きっとアルベルトの方が正しいのだろう。


礼を尽くし、相手の心を乱さないように配慮し、自分の気持ちを背負わせない。


その振る舞いは、とても大人で、とてもやさしい。


けれどラウラの心は、正しさだけで動いてはくれなかった。


「……本当に、困ります」


小さく呟く。


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


アルベルトに対してではない。

セドリックに対してでもない。


たぶん、自分自身に対してだ。


こんなにも穏やかな手紙を受け取っているのに、心の奥で別の人を思い出してしまう自分が、どうしようもなく困る。


セドリックは、きれいではない。


嫌だと思えば、そのまま顔に出る。

止まれなかったと言って、本当に止まらずに来る。

言葉は足りないし、何度も間違えるし、こちらを安心させるより先に胸を騒がせる。


けれど、ラウラは知っている。


あの人は、何も考えずに近づいているわけではない。


言葉にするのが下手なだけで。

表し方を間違えるだけで。

昔から、ラウラが息をつきたい時、なぜかそばにいた。


庭へ逃げたい時。

人の輪に疲れた時。

何も言わずに花を見ていたい時。


気づけば、少し離れたところにいた。


優しい言葉ではなかった。

甘い態度でもなかった。


それでも、そこにいた。


ラウラはゆっくりと便箋を折りたたんだ。


今は、この手紙に返事をするべきではない。


アルベルトがそう望んでいるから。

そして、今の自分が曖昧な言葉を返せば、かえって失礼になる気がしたから。


ただ受け取る。


その誠実さを、軽く扱わない。

そのうえで、自分の心をごまかさない。


ラウラは便箋を封筒へ戻し、そっと引き出しの奥へしまった。


目の前から手紙が消えても、胸のざわめきは残っている。


けれど、そのざわめきは以前のように、ただ苦しいだけではなかった。


自分の心がどこへ向かっているのか。


それが、少しずつ見えはじめている気がした。


まだ言葉にはできない。


けれど、もうごまかしきれない。


ラウラは窓の外へ視線を向ける。


庭の花が、春の終わりの風に小さく揺れていた。


その花を見た時、思い出したのはやはり、整った文字の手紙ではなく。


ぶっきらぼうに「似合ってる」と言った、あの不器用な声だった。



同じ頃。


騎士学校の訓練場には、午後の熱がまだ残っていた。


木剣の打ち合う音が一度止み、休憩を告げる鐘が短く鳴る。


訓練場の端では、汗をぬぐう者、水を飲む者、仲間と軽口を交わす者たちが、それぞれに息を整えていた。


その中で、セドリックは壁際に立ち、無言で手袋を外していた。


指先には、まだ木剣を握っていた熱が残っている。


けれど、心のどこかは訓練場にはなかった。


数日前、貴族学校の茶室で向かい合ったラウラの顔が、ふとした瞬間に浮かぶ。


――では、私も聞くようにします。


決めつける前に。

諦める前に。

ちゃんと聞くようにします。


あの言葉が、妙に胸に残っている。


以前なら、そんなことを言われても、どう返せばいいのかわからなかった。


けれど今は、その言葉がただ嬉しかった。


ラウラが、前より少しだけこちらを見ようとしている。


その小さな変化が、思っていた以上に胸の奥を落ち着かなくさせる。


「またその顔」


聞き慣れた声がして、セドリックは眉を寄せた。


エリオットが水を入れた杯を片手に、いつものように気楽な顔で近づいてくる。


「どの顔だ」


「考え事してる顔」


「してない」


「してる時ほど、そう言うよね」


「うるさい」


エリオットは笑いながら隣に立った。


しばらく二人は、訓練場を眺めていた。


仲間たちの声。

木剣を片づける音。

乾いた土の匂い。


その何でもない休憩の空気の中で、エリオットがふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、ローデンベルクが手紙を送ったらしいよ」


セドリックの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……誰に」


聞かなくてもわかっていた。


それでも、聞いてしまう。


エリオットは肩をすくめる。


「ラウラに」


セドリックの視線が、わずかに鋭くなる。


「中身を知ってるのか」


「姉上づてに、少しだけね」


「またか」


「うちの情報網は優秀だから」


軽い調子で言いながらも、エリオットの声音は少しだけ落ち着いていた。


「でも、今回は君がそんな顔をするような内容じゃないと思うよ」


「どんな顔だ」


「今にもローデンベルク家に乗り込みそうな顔」


「してない」


「してる」


セドリックは黙った。


エリオットは小さく笑ってから、続ける。


「返事は求めない、前の手紙のことも気にしないでほしい。そんな内容だったらしいよ」


セドリックは何も言わなかった。


訓練場のざわめきだけが、二人のあいだを通り過ぎていく。


エリオットは少しだけ声を落とした。


「姉上も詳しく聞いたわけじゃないらしいけど、そういう手紙だったって」


セドリックの眉が、かすかに動いた。


腹立たしい。


そう思うはずだった。


いや、まったく思わなかったわけではない。


ローデンベルクの名前を聞くだけで、胸の奥がざらつく。

ラウラに手紙を送ったという事実だけで、どうしようもなく気に食わない。


けれど同時に、わかってしまう。


その手紙は、礼を失したものではない。


むしろ、静かで、整っていて、相手を思いやったものだ。


セドリックには、きっとできない。


「相変わらず、できた人だね」


エリオットが少しだけからかうように言う。


セドリックは低く返した。


「知るか」


「知ってる顔してるけど」


「うるさい」


エリオットは杯を傾け、それから横目でセドリックを見る。


「君は絶対、ああいうふうにはできないよね」


セドリックは眉を寄せた。


「できるか」


即答だった。


エリオットは一度だけ目を瞬き、それからふっと笑う。


「だよね」


セドリックは手袋を握り直した。


ローデンベルクは、きれいに一歩引いた。


返事を求めず、急かさず、ラウラのために選んでほしいと言った。


たぶん、それは正しい。


少なくとも、立派な振る舞いなのだろう。


だが、自分にはできない。


できそうにもない。


ラウラがまだ迷っているとしても。

まだ答えが出ていないとしても。


その隣から、自分が消える選択だけは、どうしても考えられない。


「……でも」


セドリックは低く呟いた。


エリオットが目を向ける。


「でも?」


セドリックは訓練場の先を見たまま、しばらく黙った。


春の終わりの風が、乾いた土の上を抜けていく。


その中で、セドリックはようやく言った。


「引く気もない」


短い言葉だった。


けれど、その声には迷いがなかった。


エリオットは一瞬だけ目を丸くしたあと、呆れたように笑った。


「うん。知ってた」


「なら聞くな」


「確認しただけ」


「何の確認だ」


「君が本気で面倒くさい男になってるかどうか」


「殴るぞ」


「ほら、面倒くさい」


セドリックは相手にしなかった。


けれど、エリオットの声はそこで少しだけ真面目になる。


「でも、引かないならさ」


セドリックは黙って続きを待った。


「ちゃんと近づきなよ」


その言葉に、セドリックの目がわずかに動く。


エリオットは訓練場の方を見たまま続けた。


「ローデンベルクは、きれいに距離を取れる。ラウラを急かさないで、傷つけないようにできる」


「……」


「君はそれが得意じゃない。だったら、不器用なままでも、ちゃんと伝えるしかない」


セドリックは何も言わなかった。


反論できなかった。


エリオットは軽く息を吐く。


「引かないことと、押しつけることは違うからね」


「わかってる」


「本当に?」


「……わかってる」


少し間が空いた。


けれど今度の返事は、以前よりも低く、確かだった。


エリオットはその横顔を見て、少しだけ表情をやわらげる。


「ならいいけど」


訓練再開の鐘が、遠くで鳴り始めた。


仲間たちがひとり、またひとりと立ち上がる。


セドリックは壁に立てかけていた木剣を取った。


その時、エリオットが最後にぽつりと言った。


「ラウラ、少し変わったよね」


セドリックの動きが止まる。


「何がだ」


「前より、君を見るようになった」


その言葉に、セドリックはすぐには返せなかった。


胸の奥に、静かな熱が落ちる。


ラウラがこちらを見る。


以前のように、すぐには目を逸らさない。

ただ傷ついた顔をするだけでもない。


迷いながらも、こちらを見ようとしている。


そのことが、どうしようもなく胸に残っている。


「……知ってる」


低く答えると、エリオットは小さく笑った。


「なら、なおさら間違えないようにね」


「うるさい」


「褒めてるんだけど」


「どこがだ」


短いやり取りのあと、二人は訓練場へ戻っていく。


木剣を握り直しながら、セドリックは一度だけ空を見上げた。


ローデンベルクの手紙は、静かだった。


丁寧で、誠実で、きれいに距離を取るものだった。


自分には、ああはできない。


きっと、これからもできない。


けれど。


きれいに引けないのなら、不格好でも近づくしかない。


言葉が足りなかったなら、言うしかない。

間違えてきたなら、今度は間違えないようにするしかない。


ラウラがまだ迷っているとしても。


その迷いも含めて、ちゃんと向き合う。


セドリックは木剣を構えた。


訓練場に、再び打ち合う音が響き始める。


その音の中で、胸の奥に残る決意だけが、先ほどよりもはっきりしていた。

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