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51 ある日の午後

夜会から、数日が過ぎた。


春の終わりの空は、朝から薄く晴れていた。


貴族学校の中庭にはやわらかな光が差し込み、若葉の影が白い石畳の上で揺れている。


昼下がりの授業を終えたラウラは、教本を抱えたまま廊下を歩いていた。


いつもと同じ午後のはずだった。


令嬢たちの穏やかな声。

遠くから聞こえる鐘の音。

庭師が整えた花壇の匂い。


何も変わらない。


そう思っていたのに。


「ラウラ様」


背後から呼ばれ、ラウラは足を止めた。


振り返ると、同じ学年の令嬢が少しだけ興奮した顔で立っている。


「正門の方に、騎士学校の方々がいらしているみたいですわ」


「騎士学校の……?」


ラウラは瞬きをした。


騎士学校は、ここから近くはない。


合同行事や警備の打ち合わせでもなければ、騎士学校の生徒が貴族学校に来ることはほとんどなかった。


「ええ。何でも、来月の合同式典の警護確認だとか」


令嬢は楽しそうに声を潜める。


「それで、セドリック様もいらしているそうです」


その名前を聞いた瞬間、ラウラの指先が教本の表紙を少し強く押さえた。


セドリック様。


心の中でその名を繰り返すだけで、数日前の夜会の灯りがよみがえる。


――また。


――話す。


短い、ぎこちない約束。


あれは、社交辞令ではなかったのだろうか。


そう思った途端、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。


「……そうですか」


できるだけ平静に答えたつもりだった。


けれど、令嬢は何かを察したように微笑む。


「もしかしたら、ラウラ様にご用がおありなのでは?」


「そのようなことは……」


言いかけて、ラウラは言葉を止めた。


ない、と言い切ることができなかった。


夜会の帰り際、セドリックは確かに言った。


また話す、と。


それだけの言葉だった。


けれど、あの人にとっては、きっと簡単なことではなかったのだと思う。


「……少し、正門の方を通ってまいります」


ラウラはそう言うと、令嬢に軽く会釈し、廊下を歩き出した。


足取りは、いつもより少しだけ速かった。


正門へ続く回廊の途中で、騎士学校の制服を着た数人の姿が見えた。


教師らしき人物と話している者。

校舎を見上げている者。

そして、その少し後ろに。


セドリックがいた。


背筋をまっすぐに伸ばし、周囲から少しだけ距離を取って立っている。


見慣れた無愛想な横顔。


けれどここは騎士学校でも、夜会の広間でもない。


ラウラのいる学校だ。


その場所にセドリックがいることが、妙に不思議だった。


「ラウラ」


先に気づいたのは、セドリックの方だった。


名前を呼ばれ、ラウラは思わず立ち止まる。


以前なら、その呼び方だけで少し身構えたかもしれない。


けれど今日は、胸がほんの少しだけ跳ねた。


「セドリック様」


ラウラは近づき、礼をする。


「こちらへいらしていたのですね」


「ああ」


セドリックは短く答える。


「来月の合同式典の確認だ」


「そうでしたか」


それだけ言って、会話が途切れた。


お互いに、何かを言いたいようで、言えない。


廊下を行き交う生徒たちの視線が、ちらちらとこちらへ向いている。


ラウラはその視線に気づき、少しだけ背筋を伸ばした。


セドリックも同じことに気づいたらしく、わずかに眉を寄せる。


そして、少し低い声で言った。


「……少し、時間はあるか」


ラウラは目を瞬いた。


「時間、ですか」


「このあと、確認が終わるまで少し空く」


セドリックはそこで一度言葉を切った。


それから、言いにくそうに続ける。


「……茶でも、どうだ」


あまりにも不器用な誘い方だった。


まるで、戦場で進路を確認するような硬い声。


けれど、そのぎこちなさに、ラウラの胸がふっと緩んだ。


本当に来たのだ。


本当に、話そうとしているのだ。


「……はい」


ラウラは小さく頷いた。


「少しでしたら」


セドリックの表情が、ほんのわずかに和らいだ気がした。


けれどすぐに、いつもの無愛想な顔に戻る。


「どこか、話せる場所はあるか」


「温室のそばに、小さな茶室があります」


ラウラはそう答えながら、少しだけ迷った。


そこは生徒が自由に使える場所ではあるが、静かで、人目も多くない。


二人で話すにはちょうどいい。


けれど、ちょうどよすぎる気もして、少しだけ落ち着かない。


セドリックはそんなラウラの迷いに気づいたのか、短く言った。


「嫌なら、別の場所でいい」


その言葉に、ラウラは顔を上げる。


以前なら、こんなふうに選ばせてくれただろうか。


強引に決めるのではなく、こちらの気持ちを確かめる。


ただそれだけのことなのに、胸の奥が静かに揺れた。


「……嫌ではありません」


ラウラはゆっくり答えた。


「そちらへ参りましょう」


温室のそばにある小さな茶室は、校舎の喧騒から少し離れた場所にあった。


窓の外には、季節の花が整えられた花壇が見える。

薄いカーテン越しに差し込む光はやわらかく、室内には茶葉の香りが静かに漂っていた。


茶室に入ると、給仕係がすぐに紅茶を用意してくれた。


ラウラとセドリックは向かい合って座る。


小さな丸テーブルの上に、白いカップが二つ並んだ。


けれど、どちらもすぐには手を伸ばさない。


沈黙が落ちる。


気まずいはずだった。


けれど、不思議と逃げ出したいほどではなかった。


ラウラはカップの縁を見つめながら、そっと口を開いた。


「……遠かったでしょう」


セドリックが顔を上げる。


「何がだ」


「こちらの学校まで」


セドリックは少しだけ考えるようにしてから答えた。


「近くはない」


「そうですよね」


「でも、来られない距離じゃない」


何でもないことのように言われた。


けれど、ラウラはすぐに返事ができなかった。


来られない距離じゃない。


それは、ただの事実なのだろう。


けれどラウラには、別の意味にも聞こえてしまった。


遠いから来ないのではない。

用があるから来た。

話すと言ったから、来た。


そんなふうに。


ラウラは視線を落とす。


「……先日は」


セドリックの声がした。


ラウラは顔を上げた。


セドリックはカップには触れず、少しだけ眉を寄せている。


「強引だった」


ラウラは瞬きをした。


「夜会の時のことですか」


「ああ」


セドリックは短く頷く。


「袖を引いた」


その言葉に、ラウラの指先がわずかに動いた。


あの時の感触が、まだ少し残っているような気がした。


「……乱暴ではありませんでした」


「でも、強引だった」


セドリックはそう言い切った。


ラウラは黙る。


セドリックは視線を逸らさない。


以前なら、言い訳をしたかもしれない。

黙って不機嫌そうにして、話を終わらせたかもしれない。


けれど今は、違った。


「悪かった」


短い謝罪だった。


飾りもない。

上手でもない。


けれど、まっすぐだった。


ラウラは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


「……謝ってくださるとは思いませんでした」


「謝ることだろ」


「そう、ですね」


ラウラは少しだけ笑ってしまった。


セドリックが眉を寄せる。


「何だ」


「いえ。少し、不思議で」


「不思議?」


「セドリック様が、そういうふうに言ってくださるのが」


言ってから、少しだけ言い過ぎただろうかと思った。


けれどセドリックは怒らなかった。


ただ、気まずそうに視線を落とした。


「……今まで言わなかったからだろ」


ラウラは息を止める。


「わかっているんですか」


「最近は」


その返しがあまりにも彼らしくて、ラウラは今度こそ小さく笑ってしまった。


セドリックは少し不機嫌そうにする。


「笑うな」


「すみません」


「謝る顔じゃない」


「では、笑ってもいいですか」


「……好きにしろ」


その短いやり取りに、茶室の空気が少しだけやわらいだ。


ラウラはカップに手を伸ばす。


紅茶はまだ温かかった。


ひと口飲むと、香りが胸の奥まで落ちていく。


セドリックもようやくカップを持った。


けれど、飲む前にふと窓の外へ視線を向ける。


「花が多いな」


ラウラは同じように窓の外を見た。


「ええ。この季節は特に」


「白いのが多い」


「白花は、春の終わりにもよく映えますから」


ラウラは自然に答えてから、ふと思い出す。


夜会で髪に挿していた白花の飾り。


――それ、似合ってる。


その言葉が頭をよぎり、ラウラは思わずカップを置いた。


セドリックも何かを思い出したのか、少しだけ視線を逸らす。


「……この前の」


「はい?」


「髪飾り」


ラウラの頬に熱が上がる。


「まだ、その話をなさるんですか」


「悪いか」


「悪くは……ありませんけれど」


セドリックはしばらく黙ってから、低く言った。


「本当に似合ってた」


ラウラの心臓が、静かに跳ねた。


今度は、エリオットに言われたからではない。


セドリック自身の言葉だと、わかってしまった。


「……ありがとうございます」


声が少し小さくなる。


セドリックも、どこか落ち着かないようにカップを持ち直した。


しばらく、二人は黙って紅茶を飲んだ。


窓の外では、花壇の向こうを数人の生徒が通り過ぎていく。


遠くから聞こえる声は穏やかで、茶室の中までは届かない。


ラウラは、その静けさの中でふと思った。


こうして向かい合ってお茶をするのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。


小さい頃は、もっとよく一緒にいた。


大人たちの茶会の端で。

庭に面した席で。

互いに菓子の取り合いをしたこともあった。


セドリックはいつも無愛想で、ラウラの話に素直に頷くことなどほとんどなかった。


「花の話ばかりだな」と呆れた声で言った。

「そんなに見て飽きないのか」と眉を寄せた。

「知らん」と言いながら、次に会う時にはなぜか花の名前を覚えていた。


思い返せば、腹の立つことばかりだった。


それなのに、こういう時間が嫌いだったわけではない。


ラウラはカップを見つめる。


小さい頃から、なんだかんだで一緒にいることが多かった。


楽しいばかりではなかった。

優しいばかりでもなかった。


けれど、沈黙が怖い相手ではなかった。


そのことを、今さらのように思い出す。


「……何を考えてる」


セドリックの声に、ラウラははっとした。


「そんなに顔に出ていますか」


「出てる」


「またそれですか」


「事実だ」


ラウラは少しだけ唇を尖らせる。


「セドリック様こそ、昔からそうです」


「何がだ」


「人のことはよく見ているのに、自分のことは何も言わないところです」


セドリックは言葉に詰まった。


ラウラは少し驚く。


言い返されると思った。


だが、セドリックはしばらく黙ったあと、低く言った。


「……言うようにする」


それだけだった。


けれど、ラウラの胸には十分だった。


「はい」


ラウラは静かに頷く。


「では、私も聞くようにします」


セドリックが顔を上げる。


「聞く?」


「はい」


ラウラはカップを置き、少しだけ背筋を伸ばした。


「決めつける前に。諦める前に。ちゃんと聞くようにします」


セドリックはしばらくラウラを見ていた。


その目が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


「……そうか」


「はい」


「なら、俺も言う」


ぎこちない言葉だった。


けれど、それがセドリックの精一杯なのだとわかる。


ラウラは胸の奥に、ゆっくりと温かいものが広がっていくのを感じた。


答えが出たわけではない。


何かが劇的に変わったわけでもない。


けれど、こうして少しずつなら、話せるのかもしれない。


昔から隣にいた人と。


ずっとわかりにくくて、何度も傷つけられて、それでもどこか離れきれなかった人と。


もう一度、違う形で向き合うことができるのかもしれない。


そう思えただけで、ラウラは少しだけ息がしやすくなった。


やがて、遠くで鐘が鳴った。


セドリックが窓の外へ視線を向ける。


「戻らないとまずいな」


「お時間ですか」


「ああ。確認の続きがある」


ラウラは少しだけ残念に思ってしまい、すぐにその気持ちをごまかすようにカップを置いた。


「では、ここまでですね」


「ああ」


セドリックは立ち上がる。


ラウラも続いて席を立った。


茶室を出ると、廊下には午後の光が差し込んでいた。


さっきより少し明るい。


二人は温室の前で足を止める。


「今日は、ありがとうございました」


ラウラがそう言うと、セドリックは少しだけ眉を寄せた。


「礼を言うことか」


「はい。来てくださったので」


その言葉に、セドリックは一瞬だけ黙った。


それから、少し視線を逸らして言う。


「……また来る」


ラウラは目を瞬く。


「え?」


「用があれば」


言い足したその声は、少しだけ不自然だった。


ラウラは思わず笑いそうになる。


用があれば。


きっと、そう言わないと落ち着かないのだ。


「では、用がある時には」


ラウラは少しだけ微笑んだ。


「また、お茶をいたしましょう」


セドリックはラウラを見る。


その目が、ほんの少しだけやわらかくなった。


「ああ」


短い返事。


けれど、以前よりずっと届く。


ラウラは小さく礼をして、校舎の方へ戻った。


数歩進んでから、ふと振り返る。


セドリックはまだそこに立っていた。


温室の花を背に、少し不器用な顔で。


ラウラは何も言わず、ほんの少しだけ会釈した。


セドリックも、ぎこちなく頷く。


それだけで、胸の奥が静かにあたたかくなった。


小さい頃から、なんだかんだで隣にいた人。


昔はそれが当たり前すぎて、気づかなかった。


今はまだ、その意味をうまく言葉にはできない。


けれど。


今日、遠い学校まで来てくれたこと。

短い言葉でも、話そうとしてくれたこと。

向かい合ってお茶を飲む時間が、思っていたより自然だったこと。


その全部が、ラウラの中に静かに残った。


午後の光の中、ラウラは教本を胸に抱き直す。


答えはまだ出ない。


けれど、もう少し一緒にいたかった。


そう思った。

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