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50 帰り道の灯り

夜会が終わる頃には、庭を渡る風も少し冷たくなっていた。


広間の灯りはまだあたたかく、名残惜しそうに人々の声が重なっている。

けれど、ひと組、またひと組と客が帰り支度を始め、華やいでいた空気もゆるやかにほどけていった。


ラウラも母に促され、広間の端へ向かう。


「そろそろ失礼しましょうか」


「はい、お母様」


返事をしながらも、ラウラの視線は自然と広間の向こうへ向いてしまった。


探したわけではない。


そう思いたかった。


けれど、見つけてしまう。


セドリックはエリオットと並んで立っていた。

エリオットが何かを言い、セドリックが不機嫌そうに眉を寄せている。


いつもの光景だ。


でも今夜は、その何でもないやり取りさえ、少し違って見えた。


――疲れたなら、無理に戻るな。


――昔からそうだろ。


――人が多いと、庭の方を見る。


何でもないように言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。


ラウラは小さく息を吸った。


その時、セドリックがこちらに気づいた。


一瞬だけ、視線が合う。


近づいてくるだろうか。


そう思った自分に、ラウラは少しだけ驚いた。


けれどセドリックは、すぐには動かなかった。


ただ、こちらを見ている。


以前なら、目が合ってもそっぽを向かれたかもしれない。

あるいは、何か言いたげな顔をしたまま、何も言わずに終わったかもしれない。


けれど今夜のセドリックは、少し迷ったあと、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


ラウラの胸が、静かに鳴る。


母はその様子に気づいたのか、少しだけ目元をやわらげた。

けれど何も言わず、ラウラの隣に立っている。


セドリックは二人の前まで来ると、まず母へ礼をした。


「本日はありがとうございました」


「こちらこそ。セドリック様も、遅くまでお疲れさまでした」


母は穏やかに微笑む。


セドリックは短く頷き、それからラウラを見た。


何か言おうとしている。


けれど、言葉はすぐには出てこない。


ラウラも、何を言えばいいのかわからなかった。


さっき回廊で並んでいた時には、沈黙がそれほど怖くなかった。

けれど、人目のある場所に戻ると、急にすべてが照れくさくなる。


「……気をつけて帰れ」


結局、セドリックが言ったのはそれだけだった。


あまりにも短い。


でも、今までより少しだけ違う。


命令のようでいて、そうではない。

ただ不器用に、心配しているのだとわかる声だった。


ラウラは扇を持つ指に、そっと力を込めた。


「はい。ありがとうございます」


それだけ答えると、セドリックの眉がほんの少し動いた。


何かを言い足したそうだった。


けれど、やはり何も言わない。


かわりに、視線がラウラの髪元へ向く。


白花の髪飾り。


先ほど、似合っていると言われたもの。


ラウラがそれに気づいた瞬間、頬が少し熱くなった。


セドリックも気づいたのか、わずかに顔を背ける。


「……また」


低く、短い声だった。


ラウラは目を瞬く。


「また?」


セドリックは一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。


それから、少し不機嫌そうに言う。


「……話す」


ラウラは息を止めた。


また話す。


それだけの言葉だった。


けれど、それは不思議なくらい胸に残った。


以前のセドリックなら、きっと言わなかった。


言わなくても伝わると思っていたかもしれない。

あるいは、言う必要がないと思っていたかもしれない。


けれど今夜は、少しだけ違った。


短くても、ぎこちなくても、ちゃんと言葉にしようとしている。


ラウラはゆっくりと頷いた。


「……はい」


返事をすると、セドリックはわずかに目を伏せた。


それが少しだけ照れているように見えて、ラウラは慌てて視線を下げる。


これ以上見ていたら、胸が落ち着かなくなりそうだった。


「それでは、失礼いたします」


母とともに礼をして、ラウラは玄関へ向かう。


背中に視線を感じた気がした。


振り返る勇気はなかった。


けれど、馬車に乗り込む直前、どうしても一度だけ顔を上げてしまう。


屋敷の灯りの下に、セドリックが立っていた。


遠くからでも、こちらを見ているのがわかる。


ラウラはほんの少しだけ会釈した。


セドリックも、ぎこちなく頷く。


それだけだった。


本当に、それだけ。


けれど馬車の扉が閉まったあとも、その小さなやり取りが胸の奥に残っていた。


馬車がゆっくりと動き出す。


車輪が石畳を転がる音が、夜の静けさの中に響いた。


窓の外では、夜会の屋敷の灯りが少しずつ遠ざかっていく。


ラウラは膝の上で手を重ねたまま、しばらく黙っていた。


母もまた、すぐには何も言わなかった。


馬車の中には、揺れるランプの灯りと、外を流れる風の音だけがあった。


やがて、母がそっと口を開く。


「疲れた?」


ラウラは少し考えてから答えた。


「……少し」


「そう」


母はそれ以上、すぐには聞いてこなかった。


その沈黙がありがたかった。


今、誰かに何を言われても、うまく答えられる気がしなかった。


セドリックの言葉。

アルベルトの誠実なまなざし。

母の穏やかな声。

夜の庭の風。


いくつものものが胸の中で重なって、まだきちんと形になっていない。


けれど、不思議と嫌な重さではなかった。


「……お母様」


「なあに」


ラウラは少し迷ってから、ぽつりと言った。


「小さい頃のことを、思い出しました」


母はラウラを見る。


「小さい頃?」


「はい」


ラウラは窓の外へ視線を向けた。


暗い道の向こうに、点々と灯りが流れていく。


「茶会などで少し疲れると、よく庭の方を見ていたなと思って」


母は小さく微笑んだ。


「そうね。あなたは昔から、人の輪の中に長くいると、花の方を見ていたわ」


「……気づいていらしたんですか」


「母親ですもの」


そのやわらかな言い方に、ラウラは少しだけ肩の力を抜いた。


「その時、セドリック様が近くにいらしたことも……今日、思い出しました」


母は黙って聞いている。


ラウラは言葉を探しながら続けた。


「優しい言葉をかけてくださるわけではありませんでした」


「ええ」


「むしろ、少し感じが悪くて」


母が小さく笑う。


「ええ」


ラウラも、ほんの少し笑ってしまった。


「でも……なぜか、いつも近くにいらしたんです」


言いながら、胸の奥が静かに揺れる。


昔の茶会。

庭先の小道。

花壇のそば。

少し離れたところに立つ、無愛想な少年。


「また庭か」と言いながら、結局ついてくる。

「転ぶなよ」と言いながら、先に段差を見る。

「戻るぞ」と言いながら、ラウラが立ち上がるまで待っている。


あの時は、腹が立つことの方が多かった。


どうしてもっと優しく言えないのだろう。

どうしていつも命令するみたいなのだろう。

どうして、素直に心配していると言ってくれないのだろう。


そう思っていた。


けれど今になって思い返すと、その不器用さの中にも、確かに何かがあった気がする。


わかりやすい優しさではなかった。

胸がときめくような甘さでもなかった。


ただ、そばにいた。


それだけのことが、なぜか今夜は胸に残る。


母はしばらく黙ってから、静かに言った。


「ずっとそばにあったものほど、気づくのに時間がかかることもあるわ」


ラウラは母を見る。


「……そういうものですか」


「ええ」


母は窓の外へ視線を向ける。


「近すぎると、当たり前に見えてしまうの。けれど、当たり前だと思っていたものが、本当は当たり前ではなかったと気づく時がある」


ラウラは何も言えなかった。


母の言葉は、責めるものではなかった。

答えを急がせるものでもなかった。


ただ静かに、ラウラの中にある揺れを、そのまま置いてくれるような声だった。


「……まだ、よくわかりません」


ラウラは正直に言った。


「セドリック様のことも、自分の気持ちも」


「ええ」


「でも、今日……少しだけ、苦しくない時間がありました」


母はやわらかく目を細めた。


「それはよかったわ」


ラウラは膝の上の手を見つめる。


「苦しいことばかりだと思っていたのに」


小さくこぼした声は、馬車の揺れに溶けるようだった。


「昔から、そうではなかったのかもしれないと……思いました」


母は何も言わず、ただ頷いた。


それだけで十分だった。


やがて馬車は、リンドグレイ伯爵家の屋敷へ到着した。


使用人に迎えられ、ラウラは母とともに屋敷の中へ入る。


夜会の灯りとは違う、見慣れた屋敷の灯り。

廊下に漂う落ち着いた空気。

自分の家の匂い。


部屋へ戻ると、侍女がすぐに髪飾りを外そうとした。


「お嬢様、こちらもお預かりいたしますね」


「……いえ」


ラウラは思わず言った。


侍女が手を止める。


ラウラ自身も、自分の声に少し驚いた。


「それは、今日は自分で外します」


「かしこまりました」


侍女が下がったあと、ラウラは鏡の前に座った。


髪に挿した白花の飾りが、灯りを受けて小さく光っている。


――それ、似合ってる。


不意に思い出してしまい、ラウラは両手で頬を押さえた。


「……もう」


小さく呟く。


どうして、あの人はああいうことを急に言うのだろう。


普段は不器用で、言葉が足りなくて、こちらを困らせることばかりなのに。


たまに、胸の奥にまっすぐ届くことを言う。


ずるい。


そう思う。


でも、嫌ではなかった。


ラウラはそっと髪飾りを外した。


手のひらに乗せると、それは思っていたより軽い。

なのに、今夜の記憶ごとそこにあるような気がして、すぐには箱へしまえなかった。


窓辺へ歩き、外を見る。


庭は夜の闇に沈み、ところどころに淡い月明かりが落ちていた。


セドリックの隣に立って見た庭とは違う。

けれど、風に揺れる花の気配はどこか似ていた。


ラウラは白花の髪飾りを胸元に寄せる。


答えはまだ出ない。


アルベルトの手紙にも、セドリックの言葉にも、自分の気持ちにも。


何かを急いで決めるには、まだ早い。


けれど、今夜ひとつだけ思い出した。


小さい頃から、息が詰まりそうな時。

人の輪から少し離れたくなった時。

庭の方を見てしまう時。


セドリックは、なぜかいつも近くにいた。


優しくはなかった。

わかりやすくもなかった。

何度も傷ついたし、何度も腹が立った。


それでも。


あの無愛想な声と、少し離れた足音は、ラウラの記憶の中にずっとあった。


ラウラはそっと目を伏せる。


今はまだ、それに名前をつけなくていい。


ただ、忘れていたものを思い出しただけ。


そう思うと、胸の奥が少しだけあたたかくなった。


「……また、話す」


夜会の別れ際に聞いた短い言葉を思い出す。


ラウラは髪飾りを小箱へしまい、蓋を閉じた。


そして、窓の外の庭をもう一度だけ見つめる。


春の終わりの夜は静かだった。


けれどラウラの胸の奥では、止まっていたものが、ほんの少しずつ動き始めていた。

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