49 いつも隣には
夜会の広間へ戻ってからも、ラウラの胸の奥はしばらく落ち着かなかった。
母に呼ばれて挨拶の輪に入り、微笑み、言葉を返す。
いつも通りにしているつもりだった。
けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。
――お前に別のやつが近づくのが、嫌だ。
低い声。
ぶっきらぼうな言い方。
それなのに、妙にまっすぐ届いてしまった言葉。
ラウラは扇の影で、そっと息を整えた。
その後、アルベルトとも少しだけ話をした。
彼は相変わらず穏やかで、礼儀正しかった。
先ほどのことを責めるでもなく、困ったように笑って、
「驚かせてしまったなら、申し訳ありません」
と、逆にこちらを気遣ってくれた。
優しい人だと思う。
丁寧な人だと思う。
自分の気持ちを押しつけるような人ではない。
だからこそ、軽く受け流すことも、曖昧に笑って終わらせることもできなかった。
ひとつひとつの言葉を選ぶ。
失礼にならないように。
期待させすぎないように。
けれど、冷たくもならないように。
そうしているうちに、気づけば少しだけ息が詰まっていた。
「……少し、風に当たってまいります」
母にそう告げて、ラウラは広間を離れた。
庭へ続く回廊には、先ほどより冷えた夜風が流れていた。
広間の灯りが背後に遠ざかる。
人の声も、音楽も、薄い布越しに聞こえるみたいにぼやけていく。
ラウラは回廊の柱のそばで足を止め、深く息を吐いた。
「……疲れたなら、無理に戻るな」
背後から聞こえた声に、ラウラは小さく肩を揺らした。
振り返ると、セドリックが少し離れた場所に立っていた。
いつからいたのだろう。
驚いたはずなのに、不思議と怖くはなかった。
「セドリック様」
「顔に出てる」
「……出ていません」
「出てる」
短いやり取りに、ラウラは思わず黙る。
セドリックは近づきすぎることなく、けれど離れすぎることもなく、ラウラの隣に並んだ。
その距離が、妙に懐かしかった。
「どうして、わかるんですか」
問いかけると、セドリックは少しだけ眉を寄せた。
「昔からそうだろ」
「え?」
「人が多いと、庭の方を見る」
ラウラは、思わず息を止めた。
そんなことを、覚えていたのか。
思い出す。
小さい頃の茶会。
大人たちの会話。
甘い菓子の香り。
何度も繰り返される挨拶。
疲れてくると、ラウラはいつも庭の方を見ていた。
花が見たかったから、というだけではない。
ただ少し、人の輪から離れて息をつきたかったのだ。
その時、決まって近くにいたのがセドリックだった。
「また庭か」
そう言いながら、ついてきた。
「転ぶなよ」
そう言いながら、先に段差を下りた。
「戻るぞ」
そう言いながら、ラウラが立ち上がるまで待っていた。
優しい言葉ではなかった。
いつも少し乱暴で、ぶっきらぼうで、腹が立つこともあった。
けれど。
彼はいつも、そこにいた。
ラウラが黙っていても、急かさなかった。
泣きそうな顔をしても、見なかったふりをした。
花を見ている間、何も言わずに隣に立っていた。
「……覚えていたんですか」
ラウラが呟くと、セドリックは視線を庭へ向けたまま答えた。
「忘れるようなことじゃない」
何でもないことのように言われた。
けれど、ラウラの胸は静かに揺れた。
忘れるようなことじゃない。
その言葉が、思っていたより深く落ちてくる。
特別な約束ではなかった。
甘い思い出でもなかった。
胸をときめかせるような出来事でもなかった。
ただ、気づけばいつもそばにあったもの。
面倒くさそうな声。
乱暴な言葉。
けれど、必ず待ってくれる足音。
ラウラは、ゆっくりと息を吸った。
アルベルトと話している時、緊張した。
傷つけないように。
間違えないように。
きちんと向き合わなければと、背筋を伸ばした。
それは嫌な緊張ではなかった。
けれど、少し疲れた。
でも、セドリックの隣では。
腹が立つ。
戸惑う。
心臓が落ち着かない。
気の利いた言葉などなくても、そこにいていいような気がしてしまう。
ラウラは夜の庭を見つめたまま、小さく息を吐いた。
こういう時。
昔から、なぜかこの人は隣にいた。
楽しい時ばかりではなかった。
優しい言葉をくれたわけでもなかった。
むしろ、何度も傷ついたし、何度も腹を立てた。
それでも、こうして少し息が苦しくなった時。
人の輪から離れて、庭の方を見た時。
気づけば、セドリックは近くにいた。
「……ラウラ?」
セドリックの声がした。
ラウラははっとする。
自分が黙り込んでいたことに、ようやく気づいた。
「何でもありません」
そう答えた声は、少しだけやわらかかった。
セドリックが眉を寄せる。
「何でもない顔じゃない」
また、そういうことを言う。
いつも肝心なことは言わないくせに。
こういう小さな変化には、妙に気づく。
本当に、ずるい。
ラウラは胸元で扇を握りしめた。
「……少しだけ、このままでもいいですか」
セドリックはラウラを見た。
問い返すような間があった。
けれど、すぐに短く答える。
「ああ」
それだけだった。
それだけなのに、ラウラはなぜか胸が詰まりそうになった。
セドリックは何も聞かなかった。
何も急かさなかった。
ただ、隣にいた。
小さい頃と同じように。
ラウラは夜の庭へ視線を戻す。
花の色は灯りに溶けて、昼間とは少し違って見えた。
胸の奥にあるものにも、まだはっきりした形はない。
それが何なのか、今はまだわからない。
けれど、ひとつだけ思った。
この人は、いつもわかりにくい。
言葉は足りない。
態度も不器用で、何度も間違える。
それでも、ラウラがひとりで息を整えたい時、なぜか昔から隣にいた。
それを思い出しただけで、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
ラウラはそっと目を伏せた。
今はまだ、それだけでよかった。
答えを出すには早すぎる。
名前をつけるには、まだ少し怖い。
けれど今夜、セドリックの隣に立つ時間は、思っていたより苦しくなかった。
むしろ、懐かしいくらいに静かだった。
春の終わりの風が、庭の花を揺らしている。
ラウラはもう少しだけ、その隣に立っていた。




