48 灯りの下で
週末の夜。
伯爵家の離れを使った小さな夜会は、春の終わりらしい、やわらかな華やぎに包まれていた。
庭へ面した広間では、背の高い燭台の灯りが静かに揺れている。
開かれた窓からは夜風が入り、白い薄布のカーテンをゆるやかに動かしていた。
大きな舞踏会ほどの賑やかさはない。
集まっているのは、近しい家同士の子息令嬢たちと、その保護者たちばかりだ。
だからこそ、視線も言葉も近い。
ラウラは母に伴われて広間へ入ると、自然と背筋を伸ばした。
淡い色のドレスの裾が、静かに床をなでる。
髪には、小さな白花を模した飾りをひとつだけ挿していた。
誰かに見せたいわけではない。
ただ今夜は、あまり重たく見えない装いにしたかった。
「少し顔色がよくなったわね」
母のやわらかな声に、ラウラは小さく微笑む。
「そう見えますか?」
「ええ。少なくとも、この前よりは」
ラウラは返事の代わりに、そっと息をついた。
この前よりは。
たしかに、そうかもしれない。
まだ迷いはある。
傷も、戸惑いも、消えてはいない。
けれど、ただ苦しいだけだった頃とは、もう少し違っていた。
噂に振り回されるのはやめようと思った。
誰かの言葉だけで、自分の気持ちを決めてしまうのも違うと思った。
そうしてようやく、少しだけ前を向けるようになったところだった。
視線を上げた、その時だった。
広間の一角に、セドリックがいた。
エリオットと並んで立っている。
手にはグラスを持っていたが、ほとんど口をつけていないようだった。
その視線は、広間の向こう側――庭へ面した場所へ向いている。
エリオットは、そんな幼なじみの横顔を見て、くすりと笑った。
「ラウラ、今日はいつもより目立つね」
セドリックが眉を寄せる。
「何の話だ」
「何の話って」
エリオットは、わざとらしく肩をすくめた。
「見ればわかるでしょ」
そう言って、視線で広間の向こうを示す。
人の輪の少し外、庭へ面した場所に立つラウラの姿は、派手ではない。
けれど、淡い色のドレスと灯りのやわらかさのせいか、不思議と人の目を引いた。
ただ綺麗なだけではない。
静かにしているのに、なぜか視線が留まる。
「前から思ってたけど」
エリオットは少し目を細めた。
「ラウラって、ああいうふうに立ってるだけで目を引くよね」
「……」
「本人はたぶん、全然気づいてないけど」
セドリックは何も言わなかった。
否定しない時点で、ほとんど認めているようなものだった。
エリオットが面白そうに続ける。
「しかも最近、前よりちょっとやわらかいからさ」
「余計に話しかけたくなるんじゃない?」
その言葉に、セドリックの眉がわずかに動いた。
ちょうどその時だった。
ひとりの令息が、ラウラのもとへ歩み寄っていくのが見えた。
整った礼装に、静かな物腰。
ローデンベルク伯爵家のアルベルトだと気づいた瞬間、セドリックの視線が鋭くなる。
ラウラも相手に気づいたらしく、わずかに肩をこわばらせた。
アルベルトはラウラの前で足を止め、丁寧に一礼する。
「ラウラ様。先日のお手紙の件で、少しだけ――」
その瞬間、セドリックは動いていた。
「うわ、行った」
背後でエリオットが小さく笑う声がしたが、もう耳には入らない。
広間を横切る足取りは、抑えているつもりでも、いつもより明らかに速かった。
ラウラが返事をする前に、セドリックはその隣へ並ぶ。
「セドリック様……?」
驚いたように目を見開くラウラを一瞥してから、セドリックはアルベルトを見る。
「少しいいか」
低い声だった。
問いの形をしていても、実際には断らせるつもりのない声音だった。
アルベルトは一瞬だけ目を見開き、それからすぐに静かに一礼する。
「もちろんです」
その落ち着きが、余計に癪に障った。
セドリックは一度だけラウラの方を見る。
それから、彼女の袖口へ手を伸ばしかけて、わずかにためらった。
乱暴に掴むつもりはない。
けれど、この場に立ったまま、別の男と話をさせるつもりもなかった。
指先が、そっと袖の端をつまむ。
強くではない。
けれど、迷いなく。
「……少し、来てくれ」
短い声だった。
ラウラの肩が、ぴくりと揺れる。
「え、ちょ……」
戸惑いが混じるその声を聞きながらも、セドリックは半歩だけ先に進んだ。
無理やりではない。
けれど、ついて来てほしいという意思だけは、はっきりと伝わる引き方だった。
ラウラはアルベルトを振り返りかけ、それから小さく頭を下げる。
「も、申し訳ありません……」
アルベルトはわずかに目を細めたものの、それ以上引き止めはしなかった。
「どうぞ」
静かな返事だけが、背に届く。
そのままセドリックはラウラを連れ、広間の人波を抜けて、庭へ面した回廊へ出た。
夜風が頬を撫でる。
灯りの届く広間の熱から少し離れた場所まで来て、ようやくセドリックは足を止めた。
袖を引いていた指先が離れる。
けれど、離れたあとも、触れられていた場所だけが妙に熱かった。
ラウラはそこでようやく息をついた。
「……何をなさるんですか」
思っていたより、声が上ずった。
セドリックはすぐには答えない。
少しだけ眉を寄せたまま、夜の庭へ視線を向けている。
「何って……」
ラウラは胸の奥の鼓動を押さえきれないまま、続けた。
「急に、あんなふうに」
そこで、ようやくセドリックが口を開いた。
「近づいてきたからだ」
あまりにもそのままの答えに、ラウラは目を瞬く。
「それは、見ればわかります」
「だから、先に行った」
ぶっきらぼうな返しだった。
けれど、その声音の奥に、妙な硬さが混じっている。
ラウラは息をのんだ。
「……アルベルト様と話すのが、嫌だったのですか」
セドリックは、少しだけ黙った。
否定するかと思った。
気にしていないふりをするかと思った。
けれど、そうはしなかった。
「嫌だ」
短く落ちた言葉に、ラウラの呼吸が止まる。
セドリックは前を向いたまま続けた。
「お前に別のやつが近づくのが、嫌だ」
夜風が、二人のあいだを静かに抜けた。
ラウラは何も言えなかった。
さっき袖を引かれた感触が、今さらのように熱を持ってよみがえる。
強引なのに、乱暴ではなかった。
急なのに、触れ方だけは慎重だった。
まるで、誰にも渡したくないという気持ちを、そのまま形にしたみたいに。
「……ずるいです」
やっと絞り出した声は、思ったより弱かった。
セドリックがようやくラウラを見る。
「何がだ」
「前は、何も言ってくださらなかったのに」
ラウラは扇を胸元でぎゅっと握る。
「今になって、そんなふうにされたら……困ります」
セドリックは少しだけ眉を寄せた。
「困らせたいわけじゃない」
「……」
「でも、止まれなかった」
その一言に、ラウラの心臓がまた大きく鳴る。
止まれなかった。
それは飾り気のない、ひどくセドリックらしい本音だった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
広間からは遠く、かすかに音楽が聞こえる。
夜の庭には、灯りに照らされた花々が淡く浮かんでいた。
やがて、セドリックが少しだけ視線を外したまま言う。
「……さっき、ローデンベルクは何を話すつもりだった」
ラウラは、ほんの少しだけ迷った。
けれど、先ほどの言葉はセドリックにも聞こえていたはずだ。
ごまかすようなことではない。
「……先日のお手紙のことだと思います」
セドリックの眉が、わずかに動く。
やはり知っていたのだろうか。
それとも今、はっきり確かめたのだろうか。
ラウラは視線を外し、庭の灯りを見る。
「返事を急がせるつもりはないと、以前もおっしゃっていました」
その言葉に、セドリックの表情が少しだけ硬くなる。
けれど、すぐには何も言わなかった。
ラウラは庭へ視線を向けたまま、静かに続ける。
「……誠実な方です」
それは、ただの事実だった。
アルベルトを持ち上げたいわけではない。
セドリックを責めたいわけでもない。
ただ、そう感じたことを、そのまま言っただけだ。
セドリックはしばらく黙っていた。
それから、低く言う。
「だろうな」
意外な返答に、ラウラは目を瞬いた。
もっと不機嫌になるかと思っていた。
あからさまに嫌そうな顔をするかもしれないと思っていた。
けれどセドリックは、夜の庭を見たまま続ける。
「そうじゃなきゃ、あんな手紙は出さない」
ラウラは何も言えなかった。
その言い方は少し苦そうだったけれど、相手を軽く見る響きではなかった。
認めているのだ。
自分が気に入らなくても、相手が礼を失していないことは。
それがわかってしまって、胸の奥が少しだけ熱くなる。
セドリックはゆっくりと息を吐いた。
「……でも、嫌だ」
ラウラははっとして顔を上げる。
セドリックは前を向いたままだった。
耳のあたりが、ほんの少しだけ赤いように見える。
「え……?」
問い返すと、セドリックは眉を寄せたまま続けた。
「誠実とか、そういう話じゃない」
「お前に別のやつが手を伸ばしてるのが、嫌だ」
あまりにもまっすぐで、飾りのない言葉だった。
ラウラの呼吸が、一瞬止まる。
そんなふうに言う人ではないと思っていた。
少なくとも、以前のセドリックなら、絶対に口にしなかった。
だからこそ、胸に刺さる。
「それは……」
うまく言葉が出てこない。
責めたいのか。
困りたいのか。
嬉しいのか。
自分でも、わからなかった。
セドリックはラウラの戸惑いを見たのか、少しだけ目を伏せた。
「こういう言い方しかできないのは、わかってる」
「でも、今さらきれいに言える気もしない」
低い声は、ぶっきらぼうなままだった。
それでも、投げやりには聞こえない。
むしろ、不器用なまま差し出しているのがわかるから、余計に苦しかった。
ラウラは返事に困って、手元の扇をぎゅっと握る。
「……そういうところです」
セドリックの眉がわずかに動く。
「何がだ」
「困るところです」
ラウラは視線を落としたまま、思ったより小さくない声で続けた。
「前は何も言ってくださらなかったのに……今になって、そんなふうに」
喉の奥が、少し熱い。
セドリックは黙って聞いていた。
逃げない。
途中で切らない。
そのことが、ラウラをさらに落ち着かなくさせる。
「私はまだ……全部きれいに受け止められるわけではありません」
「今までのこともありますし」
「急に、こんなふうに言われても」
そこで、言葉が揺れる。
でも今は、最後まで言いたかった。
「……うれしいと思ってしまう自分がいるのも、困るんです」
口にした瞬間、ラウラは自分で自分に驚いた。
何を言ってしまったのだろう。
頬が熱くなる。
今すぐ消えてしまいたいくらいだった。
けれど、セドリックの方も固まっていた。
さすがに言いすぎたのではないか、とラウラが青ざめかけた時。
セドリックが、ほんの少しだけ顔を背けたまま言う。
「……俺も困ってる」
ラウラは目を瞬く。
「何に、ですか」
「お前が、そういうことを言うから」
その声は低いのに、どこか掠れていた。
ラウラは一瞬きょとんとして、それから少しだけ唇を引き結ぶ。
「普通に言ったわけではありません」
「……」
「頑張って言いました」
すると、セドリックが本当にわずかに、息を漏らした。
笑ったとまではいかない。
でも、たしかに少しだけ空気がやわらいだ。
その変化が嬉しくて、でも嬉しいと思うこと自体がまた悔しくて、ラウラは視線を落とす。
夜風が二人のあいだを静かに通り抜けた。
その時、セドリックがぽつりと言った。
「……髪飾り」
ラウラは顔を上げる。
「え?」
「それ、似合ってる」
ラウラの思考が、一瞬止まった。
白花を模した、小さな飾り。
今夜、自分で選んだものだ。
どうして、そんなことを。
どうして今、そんなふうに。
「っ……」
言葉にならない。
セドリックの方も、自分で言っておいて、少し気まずそうに眉を寄せていた。
「エリオットが、花の話でもしろってうるさかった」
その一言で、ラウラは思わず目を見開く。
それから、こらえきれずに小さく息を漏らした。
「……何ですか、それ」
「うるさいと思った」
「思ったなら、言わなければいいのに」
「言った方がいい気がした」
あまりにも不器用な答えに、ラウラはとうとう笑ってしまった。
大きくではない。
ほんの少しだけ、こぼれるような笑みだった。
けれど、セドリックはその顔を見たまま動かない。
ラウラは笑ってから、はっとする。
まただ。
また、この人はこういう時に、何でもないふうに胸を揺らす。
「……本当に、ずるい方です」
今度の言葉は、責めるような響きではなかった。
セドリックは少しだけ目を細める。
「お前もな」
「私は違います」
「違わない」
短いやり取りだった。
でも、そのやり取りをしている二人のあいだには、もう以前のような刺々しさはなかった。
もちろん、何も解決してはいない。
傷も、迷いも、まだそのまま残っている。
それでも、たしかにひとつだけ違うことがある。
言葉が、前より届く。
ラウラはそのことを、静かに感じていた。
その時、広間の方から誰かを呼ぶ声がした。
ラウラの母だ。
「ラウラ、こちらにいらっしゃい」
現実へ引き戻されるように、ラウラはそちらを見る。
そろそろ戻らなければならない。
けれど、その前にどうしても、ひとつだけ言いたくなった。
ラウラはセドリックを見上げる。
「……あのお手紙の返事から、逃げるつもりはありません」
セドリックの表情が、わずかに変わる。
ラウラは続けた。
「でも、あのお手紙を、逃げ道にするつもりもありません」
「ちゃんと、自分で考えます」
声はまだ少し震えていた。
それでも、逃げずに言えた。
セドリックはしばらくラウラを見ていた。
それから、低く答える。
「……ああ」
たったそれだけだった。
でも、そのひと言は、不思議なくらいまっすぐ胸へ落ちた。
認めたのだと思う。
ラウラが自分で考えることを。
そして、その先を待つつもりでいることを。
ラウラは小さく頷くと、広間へ戻るために身を翻した。
数歩進んでから、思わず足を止める。
振り返ると、セドリックはまだそこに立っていた。
灯りのこぼれる回廊の下で、以前より少しだけやわらかい顔をして。
ラウラは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めてから、今度こそ歩き出す。
胸の奥はまだ落ち着かない。
苦しいほどではないけれど、静かでもない。
それでも、そのざわめきはもう、前とは違っていた。
ただ傷つくだけのものではなく。
ただ逃げたくなるだけのものでもなく。
少しずつ形を持ち始めた何かの、まだ名前のない揺れのようだった。
回廊の外では、春の終わりの風が庭の花を揺らしている。
その花の色を、今夜のラウラは少しだけ違う気持ちで見ていた。




