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47 耳に入った名前

午後の訓練が終わったばかりの騎士学校には、まだ熱のこもった空気が残っていた。


木剣の打ち合う音は止み、張りつめていた気配が少しずつほどけていく。

訓練場の端では、汗をぬぐいながら水を飲む者、仲間同士で軽口を交わす者の姿があった。


その中で、セドリックはいつものように無言で手袋を外していた。


指先にはまだわずかに熱が残っている。

けれど、心のどこかは別の場所にあった。


ここ数日、そういうことが増えている。


訓練中はさすがに余計なことを考えない。

だが、終わってふと気が緩んだ瞬間、思い出すのは同じ顔だ。


あの日の回廊。

少しかすれた声。

すぐには信じられないと言いながら、それでも目を逸らさなかったラウラの顔。


「またその顔」


聞き慣れた声がして、セドリックは眉を寄せた。


エリオットが水差しを片手に、どこか面白がるような顔で立っている。


「どの顔だ」


「考え事してる顔」


「してない」


「してる時ほど、そう言うよね」


エリオットは勝手知ったる調子で隣に立った。

セドリックは小さく息を吐く。


いつもなら、ここで適当に追い払う。

けれど今日は、そうする前にエリオットの方が先に口を開いた。


「ローデンベルク伯爵家って知ってる?」


セドリックの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……知ってる」


短く返す。


伯爵家の名としては珍しくない。

何度か社交の場で顔を合わせた記憶もある。


それだけのはずだった。


エリオットはその小さな間を見逃さなかったようで、少しだけ目を細めた。


「そこのアルベルトが、ラウラに手紙を送ったらしいよ」


空気が、止まった気がした。


訓練場のざわめきはそのまま続いている。

誰かが笑い、誰かが木剣を片づけている。


なのにセドリックの耳には、その一言だけが妙に鮮明に残った。


「……何だと」


声は低かった。


エリオットは肩をすくめる。


「そんな怖い顔しなくても。僕が出したわけじゃない」


「どこで聞いた」


「姉上から」


エリオットはあっさり答えた。


「昨日、母上の茶会にローデンベルク伯爵夫人がいらしてたんだって。もちろん細かい中身までじゃないけど、息子が伯爵家のお嬢様に文を送ったって話になったらしい」


そこまで聞いて、セドリックは黙った。


伯爵夫人同士の茶会。

家と家の間を行き交う穏やかな会話。

そういう場所で出た話なら、嘘ではないのだろう。


だが、理解したくない気持ちの方が先に立つ。


「……どういう手紙だ」


エリオットはわずかに眉を上げた。


「そこまで気になる?」


セドリックは答えなかった。


その沈黙だけで十分だったらしい。

エリオットは苦笑する。


「正確な文面までは知らないよ。ただ、“婚約が解けるなら、正式に申し込みたい”って趣旨だったらしい」


その瞬間、セドリックの喉の奥がひどく冷えた。


婚約が解けるなら。


その言い方が妙に現実味を帯びて胸へ刺さる。


誰かが、ラウラが自分の婚約者ではなくなる可能性を、現実のものとして見ている。


そして、その先を考えて動いている。


セドリックは無意識のうちに、手袋を握りしめていた。


「……勝手なことを」


低くこぼすと、エリオットが肩をすくめた。


「まあ、タイミングが良いとは言えないよね」


「良い悪いの話じゃない」


「じゃあ何の話?」


セドリックはそこで言葉を切った。


何の話なのか。


無礼だと言いたいのか。

腹立たしいと言いたいのか。

それとも――焦っているのか。


自分の中でうまく言葉にならないものが、胸の奥でざらついている。


エリオットはそんなセドリックを見て、少しだけ声の調子を変えた。


「でも、変な話じゃないよ」


セドリックが睨むように見ると、エリオットは軽く両手を上げる。


「いや、別にあっちの肩を持つわけじゃない。ただ、ラウラが見ていないところでちゃんと見られてたってことだろ」


その言葉に、セドリックの眉がわずかに動く。


見られていた。


ちゃんと。


あの日の回廊で、ラウラは言っていた。


自分はセシリアの方が自然に見えるのだと。

自分には、あんなふうに向き合って話してくれないのだと。


そう思わせたのは自分だ。


でも、だからといって。

他の誰かがそこへ入り込んでいい理由になるわけではない。


その考えが頭をよぎった瞬間、セドリックは自分でも嫌になるほどはっきりと理解した。


嫌なのだ。


他の男が、ラウラのこれからを当たり前のように考えていることが。


「……気に食わない顔してる」


エリオットが面白くなさそうに言うと、セドリックは低く返した。


「気に食わないに決まってる」


「だろうね」


即答だった。


「でも、そうなる前にちゃんとしろって話でもある」


セドリックは眉を寄せる。


「ちゃんとって何だ」


「わかるようにすること」


エリオットの声は軽い。

けれど、言葉そのものは妙にまっすぐだった。


「この前も言ったけど、君は“言ったつもり”が多いんだよ」


「……言ってる」


「足りてないから、今こうなってるんじゃないの」


セドリックは黙った。


反論できないのが腹立たしい。


ラウラは確かに、自分の言葉をちゃんと聞こうとしていた。

けれど同時に、今までずっと足りない言葉しか渡されてこなかったせいで、信じきれずにいる。


そこへ別の誰かから、礼を尽くした申し出が届く。


それは、当然ではないにしても、不思議ではないのかもしれない。


だからこそ余計に、胸の奥がざわつく。


「まさか、黙って見てるつもりじゃないよね」


エリオットのその一言に、セドリックは目を細めた。


「見てるわけないだろ」


低く落ちた声は、自分でも驚くほど迷いがなかった。


エリオットは一瞬だけ黙って、それからふっと笑う。


「うん。今の返事は、ちょっとよかった」


「うるさい」


「褒めたのに」


セドリックは相手にしなかった。


だが、その胸の内には先ほどまでとは違う種類の熱が生まれていた。


ただ腹が立つだけではない。

焦りだけでもない。


このままでは駄目だという、妙にはっきりした感覚だった。


ラウラは、待っているわけではない。

ただ迷っているだけだ。


なら、そこに甘えてはいけない。


あの手紙にどう返すかは、ラウラが決めることだ。

だが、その前に自分が何を渡せるかは、自分の問題だった。


「……エリオット」


珍しくセドリックの方から名を呼ぶと、エリオットが目を瞬いた。


「何?」


「今週、伯爵家の夜会の予定はあったか」


「今週末に小さい集まりがあるはずだけど。あれ、行くの?」


セドリックは短く頷いた。


「行く」


エリオットはぱちぱちと二度まばたいたあと、口元をゆるめた。


「へえ」


「何だ」


「いや。やっと立ったなと思って」


「……殴るぞ」


「その前に、今度はちゃんと喋りなよ」


軽い声音だったが、最後の一言だけは妙に的を射ていた。


セドリックは眉を寄せたまま、手袋を握り直す。


ちゃんと喋る。


それがどれだけ厄介で、どれだけ不得手か、自分が一番よく知っている。


けれど、今さらそんなことは言っていられなかった。


ラウラが噂で苦しんでいたことも。

自分の足りない言葉で迷わせていたことも。

ようやく差し出した本音でさえ、まだ足りていないことも。


全部、知ってしまったのだから。


訓練場の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。


その光の中で、セドリックは静かに息を吐く。


胸の奥にあるのは、苛立ちと焦りと――それから、はっきりした決意だった。


誰かの手紙に先を越されたくない、というだけではない。


あの時、ラウラに言ったのだ。

今度は一人で決めるな、と。


ならば、自分ももう黙っているわけにはいかない。


エリオットはそんなセドリックを横目で見て、どこか満足そうに笑った。


「まあ、がんばりなよ」


「軽いな」


「重く言ってほしい?」


「いらん」


短い応酬のあと、セドリックは踵を返す。


向かう先は寮でも鍛錬場でもない。

まずは今週末の夜会の予定を、正式に確認しに行くつもりだった。


背中越しに、エリオットの呑気な声が飛んでくる。


「ちゃんと花の話くらい振ってあげなよ。ラウラ、それ喜ぶでしょ」


セドリックは振り返りもせずに答えた。


「……お前は少し黙れ」


けれど、その声には先ほどまでよりわずかに力が戻っていた。


春の終わりの風が、訓練場を静かに抜けていく。


止まっていたものが、少しずつまた動き始めていた。

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