46 届いた申し出
数日後の午後。
伯爵家の応接間には、やわらかな陽射しが差し込んでいた。
昼の茶の時間を少し過ぎた頃、ラウラは刺繍枠を膝にのせたまま、窓辺の明るさをぼんやりと眺めていた。
手元は動いている。
けれど、意識のどこかは別の場所にあった。
ここ最近、そういうことが多い。
花を見ても。
本を開いても。
誰かと話していても。
ふとした拍子に、あの日の回廊が胸に浮かぶ。
――義理だけで、この婚約を続けてたわけじゃない。
――今度は一人で決めるな。
思い出すたびに、胸の奥が少し熱くなって、それから落ち着かなくなる。
「お嬢様」
侍女の声に、ラウラははっと顔を上げた。
銀の盆の上に、封書が一通のっている。
「お手紙でございます」
「……私に?」
「はい。先方のお名前は、ローデンベルク伯爵家のご子息、アルベルト様と」
ラウラは目を瞬いた。
ローデンベルク伯爵家。
名前に覚えはあった。
社交の場で何度か顔を合わせたことがあるはずだ。
物静かで、礼儀正しく、あまり前へ出る方ではない。
少なくとも、ラウラに個人的な便りを寄越すような間柄ではなかった。
「ありがとう。ここへ置いてちょうだい」
侍女が一礼して下がる。
ラウラはしばらく封書を見つめていた。
整った筆跡。
過不足のない上質な紙。
けれど、そこに漂う空気はどこか硬い。
何だろう、と胸の奥がわずかにざわつく。
そっと手に取り、封を切る。
中には短い便箋が一枚だけ入っていた。
ラウラは視線を落とす。
⸻
突然のお手紙をお許しください。
先日、学院の外回廊にて、偶然あなたのお話の一部を耳にしてしまいました。
本来なら聞き流し、忘れるべきことと承知しております。
ですが、その後も心に残り続け、無礼を承知で筆を取りました。
もし今後、あなたが現在のお立場を離れ、自由になられることがあるならば。
その時は、どうか私にも正式に想いをお伝えする機会をいただけませんでしょうか。
軽々しい気持ちで申し上げているのではありません。
以前より、あなたの聡明さと穏やかさに敬意を抱いておりました。
この手紙がご負担になるようでしたら、どうかお忘れください。
ご返答は不要です。
ローデンベルク伯爵家
アルベルト・ローデンベルク
⸻
ラウラは、しばらく動けなかった。
窓の外で、風が木々を揺らしている。
その音だけがやけに遠く聞こえる。
「……え……?」
思わず、小さな声がこぼれた。
もう一度、便箋に目を落とす。
けれど内容は変わらない。
偶然耳にしてしまった。
現在のお立場を離れ、自由になられることがあるならば。
その時は、正式に想いを伝える機会を。
意味ははっきりしていた。
婚約が解消されたなら、自分に申し込みたいと言っているのだ。
ラウラはゆっくりと便箋をたたみかけて、また止めた。
驚いた。
それは間違いない。
けれど、それ以上に胸を打ったのは、別のことだった。
――以前より、あなたの聡明さと穏やかさに敬意を抱いておりました。
その一文を、ラウラはもう一度目でなぞる。
そんなふうに見られていたとは、思わなかった。
婚約者であるセドリックの隣では、いつもどこか足りない気がしていた。
セシリアのほうが自然だと言われるたび、自分が間違った場所に立っているような気さえしていた。
けれど、誰かが自分を見て、ちゃんと価値を認めた上で、こうして言葉にしてきた。
その事実は、思っていた以上に重かった。
「……どうして」
小さく呟く。
問いかけた相手は、ここにはいない。
どうして今なのか。
どうして、こんな手紙を。
どうして、私はこんなに驚いているのか。
ラウラは便箋を膝の上へ置き、そっと息を吐いた。
嫌ではなかった。
軽んじられたとも思わない。
むしろ、礼を尽くしてくれているのが伝わる。
婚約中の自分に無遠慮に踏み込むのではなく、
もし正式に自由になったなら、その時に、と書いている。
誠実な申し出だと思った。
だからこそ、困る。
本当に、困る。
ラウラは目を閉じた。
もしほんの少し前なら、どう感じただろう。
たぶん、もっと別の受け取り方をした。
婚約解消を決めたなら、次はこういう話になるのだと。
自分にもまだ別の道があるのだと。
そう思って、少し救われたかもしれない。
けれど今は。
今、胸の中に最初に浮かんだ顔は、アルベルトではなかった。
低い声。
不機嫌そうな顔。
ぶっきらぼうな言い方。
――なくす気はない。
――今度は一人で決めるな。
ラウラははっとして目を開けた。
どうして。
どうして、こういう時に思い出すのがあの人なのだろう。
別の令息からまっすぐな申し出を受けたのに。
丁寧で、礼儀正しくて、何ひとつ不快ではない手紙なのに。
胸の奥に先に浮かぶのは、やっぱりセドリックだった。
そのことに気づいてしまった瞬間、指先がわずかに震える。
「……困ります」
今度の呟きは、少しだけ掠れていた。
アルベルトの手紙が困るのではない。
そうではなくて――
こうして別の道が目の前に差し出された時に、
自分の心が真っ先に向く先が、もう違ってしまっていることが困るのだ。
ラウラは便箋をそっと折りたたみ、封筒へ戻した。
返事は不要と書いてある。
それはありがたかった。
今の自分には、何を書けばいいのかわからない。
感謝だけを返すのも違う気がする。
期待を持たせるようなことは、なおさらできない。
何より――今のラウラはまだ、誰にも何も決められなかった。
自分の気持ちを、自分で確かめる途中にいる。
静かな部屋の中で、ラウラはしばらく封筒を見つめていた。
誰かに選ばれたことがうれしくないわけではない。
見てくれていた人がいたことは、たしかに救いだった。
けれど、その救いがそのまま答えにはならない。
答えになるのは、たぶん別のものだ。
ラウラは机の引き出しを開け、手紙をそっと中へしまった。
見えなくなっても、胸のざわめきは消えなかった。
むしろ、さっきよりはっきりしてしまっている。
自分は、もう前と同じ場所にはいない。
婚約解消の話が出た時、別の相手がいるならそちらへ向けばいい、そんなふうに割り切れると思っていたわけではない。
それでも、どこかで道はひとつではないのだと、自分を守るように考えていたところはあった。
でも今は違う。
別の道を差し出されても、心がそちらへ向かない。
向かないどころか、そのことでかえって、誰のことを見ているのか思い知らされてしまう。
ラウラはゆっくりと立ち上がり、窓辺へ向かった。
庭には春の終わりの光が落ちている。
花壇の色はやわらかく、風は静かだった。
「……ずるい方です」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわかっていた。
こんな時まで思い出させるなんて。
こんな形で、自分の気持ちを突きつけてくるなんて。
ラウラはそっと胸元に手を当てる。
まだ“好き”とは言えない。
そんなに簡単に言えるほど、傷も迷いも消えてはいない。
でも、気にしている。
それどころではないくらい、心が向いている。
そのことだけは、もうごまかせなかった。
窓の外では、風に揺れた枝先が陽を返している。
誰かが差し出してくれた道ではなく。
噂でもなく。
思い込みでもなく。
自分の心が向く先を、ちゃんと見なくてはいけない。
そう思った時、机の中の手紙はもう“答え”には見えなかった。
ただ、自分の気持ちを映してしまった一枚の鏡のように思えた。




