表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

47/63

45 空っぽの噂

数日後。


貴族学校の昼休み、教室にはいつものように穏やかなざわめきが満ちていた。


窓から差し込む光。

机に広げられた教本。

令嬢たちのやわらかな笑い声。


何も変わらない昼のはずなのに、ラウラの胸の奥だけが、少し落ち着かなかった。


婚約を解消する、という話にはなっていない。


あの日、セドリックははっきりと「解消はしない」と言った。


だから周囲から見れば、何も変わっていないのだろう。


ラウラとセドリックは、今も婚約者のまま。

セシリアは今も、騎士学校に関わる有力家の令嬢。


そして、社交の場や公開演習で並ぶ姿だけを見れば、相変わらず“お似合い”だと囁く人はいる。


変わっていないのは、噂のほうだった。


「この前も、セシリア様とハーヴェル公爵家のご子息、ご一緒だったそうですわ」


「まあ、そうなの」


「学校のことでお顔を合わせる機会も多いのでしょうね」


「見ていて、とても自然なおふたりですもの」


「婚約者の方がいらっしゃるのは承知しておりますけれど……」


ひとりの令嬢が、少し言いにくそうに間を置いた。


けれど結局、そのまま続ける。


「並ばれた時の雰囲気だけを見ると、つい、そう見えてしまいますわよね」


小さな笑い声が重なる。


教室の後ろの方から聞こえてくる声に、ラウラの指先がぴたりと止まった。


悪意のある言い方ではなかった。

むしろ、何気ない噂話。

いつもの、軽い会話の延長だ。


だからこそ、以前ならひどく心を削られていた。


セシリアの方がふさわしい。

自分はただ、最初から決まっていた婚約者なだけ。


そんなふうに、自分で自分を追い詰めてきた。


けれど今は、その痛みの正体が少しだけ違って見える。


ラウラは教本の端に触れたまま、ふとあの日のことを思い出す。


――義理だけで、この婚約を続けてたわけじゃない。


――セシリアは違う。


――婚約解消なんて、認めない。


低くて、ぶっきらぼうで、それでも逃げなかった声が、胸の奥によみがえる。


その瞬間、ラウラはふと思った。


空っぽなのだ、と。


この噂は。


誰も、本当のことを知らない。


誰も、あの日の回廊で交わされた言葉を知らない。

誰も、セドリックがどんな顔で「違う」と言ったのかを知らない。


ただ、見えたものをそれらしく並べているだけだ。


前の自分は、その“それらしさ”に傷ついていた。


まるで事実みたいに受け取って、勝手に怯えて、勝手に苦しくなっていた。


でも今は、少なくとも知っている。


あれは、本当の言葉ではない。


外から見えた形を、もっともらしくつないだだけのものだ。


「ラウラ様?」


不意に声をかけられて、ラウラは顔を上げた。


近くの席の令嬢が、少し不思議そうにこちらを見ている。


「どうなさいました?」


「……え?」


「少し、考え込んでいらっしゃるようでしたわ」


ラウラは目を瞬いた。


自分ではそんなつもりはなかった。

でも、たぶんほんの少しだけ、昔の自分を思い出していたのだ。


「ごめんなさい」


小さくそう言ってから、ラウラは首を振る。


「大丈夫です」


それから、少しだけ考えて、静かに続けた。


「……ただ、噂って不思議だなと思って」


令嬢はきょとんとした。


ラウラはそれ以上、詳しくは言わなかった。


言えなかったのではない。

言う必要がないと思ったのだ。


この前までの自分なら、ここでまた傷ついていた。


けれど今は違う。


胸がちくりとする感じは、まだ残っている。

まったく平気になったわけではない。


でも、それはもう“本当かもしれない痛み”ではなかった。


外側だけの言葉に、少し引っかかっているだけだとわかる。


それだけで、前よりずっと息がしやすかった。


昼休みのあと、ラウラはいつものように温室へ向かった。


ガラス越しの光が床へ落ちて、花々の色をやわらかく透かしている。


そこへ足を踏み入れた瞬間、張っていた気持ちが少しほどけた。


ベンチに腰を下ろし、花の本を膝に置く。


しばらくそのまま黙っていたあと、ラウラは小さく呟いた。


「……空っぽなのに」


誰に聞かせるでもない声だった。


噂が。

自分が勝手に膨らませてきた思い込みが。

それに振り回されて、苦しんで、身を引こうとしていた自分の時間が。


急に全部、軽くなるわけではない。


けれど、その根っこが“本当の言葉”ではなかったのだと知ってしまった。


それは大きかった。


ラウラは花の本を開く。


ヴィルネアの頁。

白に淡い色の混じる花。


この花を見つけるたび、以前は思っていた。


義理で覚えていてくれただけ。

婚約者だから、たまたま知っていただけ。


そう決めつけていれば、傷つかずに済む気がした。


けれど今は、そこまで簡単に決めつけられない。


それが困る。


本当に、困る。


でも、困るということは、もう前とは違う場所にいるということでもあった。


「……噂だけで決めるのは、もうやめよう」


そっと口にしてみる。


すると、その言葉は思っていたよりも静かに胸へ落ちた。


そうだ。


まだ全部はわからない。


セドリックのことも。

自分のことも。


でも、少なくとももう、周りの勝手な噂を答えにしてしまうのは違う。


あの人のことは、あの人の言葉で知りたい。


自分の気持ちは、自分で確かめたい。


温室の花々は何も答えない。


けれど、その静けさが今は少しだけ心地よかった。



その頃。


騎士学校では、午後の訓練が終わったところだった。


木剣の音が止み、張りつめていた空気がゆるむ。


セドリックは無言で手袋を外しながら、少しだけ視線を落としていた。


そこへ、エリオットがいつもの調子で近づいてくる。


「また何か考えてる顔だね」


「考えてない」


「考えてる時ほどそう言うよね」


セドリックは小さく眉を寄せた。


けれど今日は、それ以上強く返さなかった。


エリオットはそんな様子を見て、少しだけ目を細める。


「ラウラのこと?」


短い沈黙。


それだけで十分だったらしい。


エリオットは肩をすくめた。


「だろうと思った」


セドリックは答えない。


ラウラの顔を思い出す。


あの日、ちゃんと聞こうとしていた目。

すぐには信じられないと言いながら、それでも逃げなかった声。


噂や周囲の目に振り回されていたのだと、今ならわかる。


だが、その原因の半分以上は自分だ。


ちゃんと伝えなかったから。

足りない言葉ばかり渡していたから。


自分が黙っていた間に、ラウラはひとりで勝手に傷ついていた。


いや、勝手にではない。


そうさせたのは、自分だ。


「……面倒だな」


低く呟くと、エリオットが笑った。


「何が?」


「全部だ」


「でも、放り出す気はないんだろ」


セドリックは手袋を握ったまま、少しだけ目を細めた。


「ない」


短く、けれど迷いのない返事だった。


エリオットは一度だけ頷く。


「なら今度は、わかるように言いなよ」


セドリックは眉を寄せる。


「……言ってるつもりだ」


「その“つもり”が危ないんだけどね」


軽い口調だった。


けれど、言っていることは正しい。


セドリックはそれ以上返さなかった。


前みたいに、黙っていれば何とかなるとはもう思っていない。


あれで足りると思っていたことが、何も足りていなかったのだと知ってしまったから。


「……うるさい」


遅れてそう言うと、エリオットが笑う。


「はいはい」


短いやり取りだった。


でも、その奥には以前より少しだけ落ち着いたものがあった。


ラウラもきっと、まだ揺れている。


自分も同じだ。


それでも、前みたいに何も知らないままではない。


その違いは大きかった。



夕方。


伯爵家へ戻ったラウラは、窓辺に立って外を見ていた。


庭はやわらかな夕暮れに包まれ、花々の輪郭が少しずつ薄れていく。


昼間に聞いた噂話を思い出す。


前なら、あれだけで一日じゅう胸が重かった。


今も、気にならないわけではない。

胸の奥が少し痛むこともある。


けれどもう、前みたいに、自分の気持ちまで持っていかれはしない。


ラウラは胸の前で手を重ね、小さく息を吐いた。


形だけの言葉に、ずいぶん長く傷ついていたのだと思う。


そう思うと、少し可笑しくて。

少し悔しくて。

でも、少しだけうれしかった。


本物の言葉を、ちゃんともらったからだ。


足りなくて。

不器用で。

それでも、あの人の言葉だったから。


ラウラはそっと目を閉じる。


もう少しだけ、ちゃんと見てみようと思う。


噂ではなく。

思い込みでもなく。

自分の目で。


春の終わりの風が、静かに窓辺を抜けていく。


その風に乗るように、ラウラの胸の中にも、これまでとは少し違う静けさが生まれはじめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ