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46/63

44 変わった距離

翌朝。


ラウラは鏡の前で髪を整えながら、もう何度目かわからないため息をついた。


眠れなかったわけではない。

けれど、よく眠れたとも言えなかった。


目を閉じるたびに、夕暮れの回廊が浮かぶ。


――義理だけで、この婚約を続けてたわけじゃない。

――婚約解消の話は、保留だ。


思い出すたびに胸の奥が熱くなって、すぐに苦しくなる。


それなのに、少しだけ頬まで熱くなるのが悔しかった。


信じていいのか、まだわからない。

でも、なかったことにもできない。


昨日までなら、セドリックのことを考えると胸の奥が痛んだ。

今も痛まないわけではない。


けれど、その痛みの中に、知らない温度が混ざっている。


そのことが、ラウラを余計に落ち着かなくさせていた。


「お嬢様?」


侍女に呼ばれて、ラウラははっとする。


「……何でもありません」


そう答えたものの、声は少しだけ上ずっていた。


侍女が不思議そうに鏡越しのラウラを見つめる。

ラウラは慌てて視線を落とした。


自分でもわかっている。


今の顔は、いつも通りではない。


学院へ向かう馬車の中でも、落ち着かなかった。


窓の外の景色はいつもと変わらない。

けれど、ラウラの世界だけが、昨日から少しずれてしまったようだった。


もう以前と同じ気持ちではいられない。


だからといって、すぐに何かが変わるわけでもない。


その曖昧な場所に立たされていることが、ひどく心細い。


けれど、ほんの少しだけ。


心細さの奥に、待ってしまうような気持ちがある。


それが一番、困るのだ。



教室に着いても、ラウラはなかなか落ち着かなかった。


本を開いても文字が頭に入らない。

周囲の令嬢たちの会話も、今日はどこか遠く聞こえる。


ふと窓の外へ目を向ける。


見えるのはいつもの庭園と、春の終わりのやわらかな日差しだけだった。


当然だ。

ここは貴族学校で、騎士学校は別の場所にある。


なのに、ラウラの頭の中にはどうしても、昨日のセドリックの顔が浮かんでしまう。


あの不機嫌そうな顔。

低い声。

ぶっきらぼうな言い方。


――いつも通りだったはずなのに。


昨日の言葉を知ってしまった今は、もう何もかもが同じには見えなかった。


本当は、あの顔の奥で。

あの態度の裏で。

ずっと別のものを抱えていたのだろうか。


そう考えた途端、ラウラは慌てて視線を落とした。


指先に、そっと力が入る。


昨日までは、あの人の態度を思い出すたびに胸が痛かった。

けれど今は、思い出すたびに、痛いのとは少し違う場所がきゅっとなる。


それが何なのか、まだ名前をつけたくなかった。


「ラウラ様? どうかなさいまして?」


隣の席の令嬢に声をかけられ、ラウラは小さく首を振った。


「いえ……少し、考え事を」


微笑んでごまかしたけれど、自分でも笑顔が少し硬いとわかった。


その日一日、ラウラはずっとそんな調子だった。


講義のあいだも、休み時間も、ふと気が緩むたびに昨日のやり取りが蘇ってくる。


あんなふうに言われたことは初めてだった。


ずるい、と思う。


でも同時に、うれしいと思ってしまう自分もいる。


そのことがまた悔しくて、ラウラは机の下でそっと指を握りしめた。



放課後、ラウラは一人で外回廊を歩いていた。


貴族学校の正門へ続くその回廊は、来客や他校の生徒が立ち入ることもある場所だ。

本当は令嬢たちに誘われていたのだけれど、今日はどうにも人の輪の中にいる気分になれなかった。


春の名残を残した花壇には、薄い色の花が揺れている。


昨日と同じように、風はやわらかい。

それなのに、ラウラの胸の内だけが少しも穏やかではなかった。


足音が聞こえたのは、その時だった。


規則正しい、迷いのない足音。


聞き覚えがありすぎるほど、ある。


ラウラの肩が小さく強張る。

けれど同時に、心臓が一度だけ大きく跳ねた。


振り返ると、セドリックが立っていた。


どうやら、わざわざここまで来ていたらしい。

制服の裾に残るわずかな乱れが、つい先ほどまで別の場所にいたことを思わせる。


昨日の続きみたいな顔はしていない。

いつもの、少し不機嫌そうな、ぶっきらぼうな顔。


けれどラウラは知ってしまっている。


その顔だけでは、もう判断できないことを。


「……一人か」


低い声が落ちる。


その声を聞いただけで、昨日の回廊が一瞬で胸の中によみがえる。


ラウラはゆっくりと息をのみ込んだ。


「そうですけれど」


どうにかそれだけ返すと、セドリックはラウラの手元に視線を落とした。


本を二冊抱えている。

そのうち一冊は少し重い参考書だ。


次の瞬間、セドリックは当然のようにその一冊を取り上げた。


「え」


ラウラが目を見開く。


「せ、セドリック様?」


「持つ」


あまりにも短い一言だった。


本を受け取る時、セドリックの指先がラウラの手にかすかに触れた。


ほんの一瞬。

たったそれだけなのに、ラウラは思わず息を止めてしまう。


「いえ、大丈夫です」


慌てて言うと、セドリックはすぐに返した。


「大丈夫そうに見えない」


即答だった。


ラウラは思わず口をつぐむ。


昨日までのセドリックなら、こんなことはしなかった。

いや、していたのかもしれない。


ただ、ラウラが気づいていなかっただけなのかもしれない。


そう思ってしまって、余計に落ち着かない。


「……ありがとうございます」


小さく礼を言うと、セドリックはそれには答えず、ラウラの横に並んだ。


近い。


昨日までだって近くに立つことはあったはずなのに、今日は妙に意識してしまう。


肩が触れるほどではない。

けれど、少し手を伸ばせば届いてしまう距離。


それが、今はひどく落ち着かなかった。


二人で歩き出しても、しばらく会話はなかった。


沈黙が気まずい。


でも、完全に苦しいだけの沈黙でもない。


そのことがまた、ラウラを戸惑わせる。


やがて、セドリックが前を向いたまま言った。


「寝不足か」


ラウラは思わず足を止めかけた。


「……どうして」


「顔色が悪い」


それだけだった。


けれどラウラの胸は、ひどく落ち着かなくなる。


そんなふうに見ていたのか。

昨日のあとで。

今日も。


「少し、寝つきが悪かっただけです」


どうにか答えると、セドリックは短く息を吐いた。


「だろうな」


まるで当然みたいな言い方に、ラウラは少しむっとする。


「セドリック様のせいです」


言ってから、しまったと思った。


こんな言い方をするつもりではなかったのに。


けれどセドリックは怒らなかった。


むしろほんのわずかに眉を動かしただけで、低く返す。


「……悪かった」


ラウラは目を瞬いた。


謝ると思っていなかった。

それも、こんなにあっさりと。


「え……」


「昨日のことだけじゃない」


セドリックは前を向いたまま言う。


「今までの分もだ」


その声は相変わらず不器用で、愛想もなかった。

でも、冗談でもごまかしでもないのがわかる。


ラウラは何も言えなくなる。


そんなふうに言われると、責めたかったはずの気持ちまで揺らいでしまう。


「……そうやって、急に素直になるのもずるいです」


思わずこぼすと、セドリックがわずかにこちらを見た。


視線が合う。


ほんの一瞬だった。


けれどラウラはそれだけで、胸の奥をぎゅっとつかまれたようになる。


セドリックはすぐに前を向いた。


「素直じゃなかったのは、前からだ」


「……ご自覚はあったのですね」


「最近、嫌というほどな」


その言い方があまりにも苦そうで、ラウラは思わず小さく笑いそうになった。


けれど笑ってしまうと、今度は自分の気持ちまで見えてしまいそうで、口元をきゅっと結ぶ。


しばらく歩いたあと、ラウラは小さく口を開いた。


「……本当に、保留のままにするおつもりなんですか」


セドリックの視線が少しだけ動く。


「何が」


「婚約解消の話です」


セドリックは間を置かなかった。


「そうする」


短い答えに、ラウラは少しだけほっとする。

そして、そのことに自分で驚いた。


セドリックは続ける。


「お前が時間が欲しいって言ったから、待つ」


少しだけ間が空く。


そのあとで、低い声が続いた。


「でも、なくす気はない」


心臓が、また変な鳴り方をした。


なくす気はない。


それはひどく真っ直ぐで、逃げ場のない言い方だった。


ラウラは視線を落とす。


「……そういう言い方、ずるいです」


すると隣で、セドリックがほんの少しだけ息を漏らした。


笑ったわけではない。

でも、どこか力の抜けた気配がした。


「昨日も言ってたな」


「言いました」


「今日も思ったからです」


ラウラが小さく言い返すと、セドリックは少しだけ黙ったあとで、ぽつりと落とした。


「……こっちだって、前から振り回されてる」


ラウラは思わず顔を上げる。


セドリックはすぐにこちらを見なかった。

ほんのわずかに耳のあたりが赤い気がして、ラウラは息をのむ。


たぶん、見間違いではない。


「わたくしが、ですか?」


「そうだ」


「何もしていません」


「してる」


あまりにもはっきり言われて、ラウラは言葉に詰まる。


振り回されているのは、こちらの方ではないだろうか。


急に本を持ってくれたり。

顔色が悪いと気づいたり。

昨日まで聞いたこともなかった言葉を、当然みたいに口にしたり。


そのたびに胸が忙しくなって、何を言えばいいのかわからなくなる。


それなのに、そんなことを言えるはずもなかった。


ラウラは唇を結んだまま、そっと視線を落とす。


けれどセドリックは、それ以上は言わなかった。


いつものように不機嫌そうな顔で前を向いている。

それなのに、耳の赤さだけが少しも隠せていない。


そのせいで、ラウラまで落ち着かなくなる。


何をどう振り回しているのか。

聞きたいような、聞いてはいけないような。


けれど、もし聞いてしまったら。

自分の方こそ振り回されているのだと、うっかり知られてしまいそうな気がした。


だからラウラは、そっと口をつぐんだ。


沈黙が落ちる。


けれどそれは、昨日までのように冷たい沈黙ではなかった。


言葉にならないものが、二人の間に置かれている。

まだ名前をつけるには早い、けれど確かにそこにあるもの。


ラウラは胸の奥がくすぐったくなるのをこらえながら、セドリックの隣を歩いた。


回廊を抜けると、学院の正門へ続く広い道が見えてきた。


馬車寄せには、すでに何台かの馬車が並んでいる。


ラウラの家の馬車も、すぐに見つかった。


その前で、セドリックは足を止める。


自然な流れでここまで送られたことに、ラウラは今さら気づいた。


貴族学校までわざわざ来て、しかも何も言わずにここまで送ってくれたのだ。


その事実が、遅れて胸に落ちてくる。


セドリックは抱えていた本をラウラに差し出した。


「……ここまでだ」


ラウラはそっと本を受け取る。


また、指先が触れそうになる。

今度は触れなかった。


それなのに、触れなかったことまで意識してしまって、ラウラはますます困った。


「ありがとうございました」


「ん」


短い返事。


それで終わるかと思った。


けれどラウラが馬車へ向かおうとした時、セドリックがもう一度だけ口を開く。


「ラウラ」


名前を呼ばれて、ラウラの足が止まる。


振り返ると、セドリックはいつも通りの少し不機嫌そうな顔をしていた。


けれど、その目だけが昨日よりも少しだけまっすぐだった。


「無理にすぐ答えを出そうとするな」


ラウラは息をのむ。


セドリックは視線を逸らさず、低く続ける。


「でも、今度は一人で決めるな」


その言葉は、静かだった。


命令みたいな言い方なのに、不思議と強く責められている気はしない。


むしろ、昨日の回廊で言えなかったことを、今ここでやっと渡されたような気がした。


ラウラの指先が、本の表紙をきゅっとつかむ。


「……それは」


うまく言葉にならない。


ありがとう、なのか。

ずるい、なのか。

わかりました、なのか。


どれも違う気がして、ラウラはただ唇を結ぶ。


けれど何も返さないままでは、また以前と同じになってしまう気がした。


ラウラは小さく息を吸う。


「……では、ひとつだけ」


セドリックの眉がわずかに動く。


「何だ」


「セドリック様も、勝手に決めないでください」


そう言うと、セドリックは少しだけ目を見開いた。


ラウラは本の表紙を指先で押さえながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「わたくしも、まだ上手に答えられる自信はありません。けれど……何も話さないまま決めてしまうのは、もう嫌です」


言いながら、胸の奥が少しだけ震えた。


それでもラウラは、視線を逸らさなかった。


「ですから、これからは……ちゃんと話す時間を作ってください。わたくしも、逃げないようにします」


言い終えた途端、急に恥ずかしくなる。


まるで、自分から少しだけ近づきたいと言ってしまったみたいだった。


けれどセドリックは茶化さなかった。


しばらく黙ったあとで、低く言った。


「……わかった」


その一言だけなのに、胸の奥にすとんと落ちた。


セドリックはそんなラウラを見て、ほんの少しだけ眉を動かした。


「……今日は早く休め」


それだけ言って、今度こそ踵を返す。


ラウラは思わずその背を目で追った。


呼び止める理由なんてない。

なのに、このまま行ってしまうのを見ているだけなのも、なぜか少し苦しかった。


数歩進んだところで、セドリックがふと足を止める。


振り返りはしなかった。


けれど、低い声だけが届く。


「食事も抜くな」


あまりにもぶっきらぼうな言い方で、ラウラは一瞬きょとんとした。


けれど次の瞬間、胸の奥がふいに熱くなる。


気づかわれている。


そんな当たり前のことが、今はどうしようもなく特別に感じられた。


「……はい」


小さく答えると、セドリックは今度こそ歩き出した。


その背中はやっぱり無愛想で、近寄りがたくて、少しだけ乱暴に見える。


けれどもう、昨日までのようには見えなかった。


ラウラはしばらくその場に立ち尽くしていた。


馬車の扉が開かれても、すぐには乗り込めない。


胸の奥が、ずっと落ち着かない。


苦しいのに、嫌ではない。


むしろ、昨日より少しだけやわらかい熱が残っている。


まだ何も決まっていない。

誤解も、傷も、すれ違いも、きっと簡単には消えない。


それでも。


昨日までは、終わらせるために考えていた。


でも今は、どう向き合うかを考えてしまっている。


その違いが、ラウラにはひどく大きかった。


馬車に乗り込み、窓の外を見る。


春の終わりの光の中を遠ざかっていく学院の門は、昨日までと何も変わらない。


変わってしまったのは、自分のほうなのだろう。


ラウラは膝の上の本にそっと触れる。


さっきまでセドリックが持っていた、その重みを確かめるみたいに。


ほんの少しだけ、指先に残っている気がする温度まで思い出してしまって、ラウラは慌てて窓の外へ視線を向けた。


それなのに、口元がかすかにゆるむ。


そして小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……ずるい方です」


そう言った自分の声は、思っていたより少しだけやわらかかった。

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