43 眠れない夜
部屋に戻ってからも、ラウラはしばらく扉の前に立ったままだった。
閉めたはずの扉の向こうに、まだあの回廊の空気が残っている気がした。
夕暮れの光。
石壁に落ちた影。
低く響いた声。
――義理だけで続けてたわけじゃない。
――前から、お前相手だと調子が狂う。
「…っ」
ラウラはそっと目を閉じた。
だめだ。
思い出さないようにしようと思うほど、言葉が鮮やかによみがえる。
ゆっくりと歩いて、帽子を置く。
手袋を外す。
いつも通りの動作のはずなのに、何もかもが少しずつ噛み合わない。
鏡の前に立って髪に触れたところで、指先が止まった。
映る自分の頬が、まだほんのり熱を持っている気がした。
「……今さら」
小さくこぼした声は、思ったよりも弱かった。
今さらだ。
今まで何も言わなかったくせに。
ずっとわからせてくれなかったくせに。
あんなふうにきついことばかり言って、傷つけておいて。
それなのに。
ラウラは唇を噛む。
胸の奥では別の声が、どうしても消えてくれなかった。
――悪かった。
たったひと言。
それだけなのに、あの声は驚くほどまっすぐだった。
セドリックが、あんなふうに謝るなんて思わなかった。
思わなかったからこそ、余計に苦しい。
「ずるい……」
また同じ言葉がこぼれる。
責めたいのに。
まだ簡単に許したくなんてないのに。
あんなふうに本気で言われたら、何も感じないふりなんてできない。
ラウラはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
窓の外はもう薄暗い。
春の終わりの風が、カーテンをかすかに揺らしている。
静かな部屋の中で、一人になると、よけいに考えてしまう。
幼いころの言い合い。
庭で交わしたぶっきらぼうな言葉。
何気なく返された手紙。
花の名前を覚えていたこと。
自分では気づかなかった小さな出来事まで、ひとつずつ違う色を帯びて思い出される。
もし、本当に前からそうだったのなら。
あの時の不機嫌も。
あの時の妙な沈黙も。
あの時のきつさも。
全部、違う意味だったのだろうか。
そこまで考えて、ラウラは首を振った。
「……そんなの」
簡単に信じられるわけがない。
そんなふうに思ってしまったら、今まで苦しかった時間まで全部違うものになってしまう。
傷ついたことまで、なかったことみたいに思えてしまう。
それは違う。
違ってほしくない。
あの時つらかったことは、本当につらかったのだ。
ラウラは両手をぎゅっと握る。
けれど、それでも。
あの回廊でまっすぐ自分を見るセドリックの目を思い出すと、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
怒っていたわけではない。
呆れていたわけでもない。
ごまかそうとしていたのでもなかった。
不器用で、勝手で、みっともなくて。
でも、逃げてはいなかった。
そこまで思ってしまってから、ラウラははっとする。
「……何を考えているの、私」
頬が熱くなる。
こんなふうに相手のことを考えるつもりではなかった。
婚約解消を申し出た相手なのだ。
もっと腹を立てていてもいいはずなのに。
なのに胸に残っているのは、怒りだけではなかった。
悔しい。
悔しいのに、少しだけ嬉しかった自分がいる。
それが何より悔しかった。
ラウラは立ち上がり、机の引き出しを開けた。
中には、昔の手紙や小さな包みがしまってある。
読み返すつもりはなかった。
ただ、目に入っただけだ。
けれど、その一番上に見覚えのある花押を見つけて、指先が止まる。
しばらく見つめたあと、そっと手に取る。
紙の端に触れただけで、胸が小さく鳴った。
開くことはできなかった。
でも、しまい直すこともすぐにはできない。
あの人の言葉を聞いてしまったあとでは、ただの紙切れには思えなかった。
ラウラはしばらくそれを手にしたまま、静かに息を吐く。
まだわからない。
何を信じればいいのかも。
どう受け止めればいいのかも。
これからどうしたいのかさえ、まだはっきりしない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
もう、昨日までと同じ気持ちではいられない。
その事実だけが、静かに胸の奥へ沈んでいく。
夜はまだ長い。
今夜はきっと、簡単には眠れそうになかった。




