好きだが(セドリック視点)
ラウラと別れたあともしばらく、セドリックはその場を動けなかった。
夕暮れの風が回廊を抜け、石壁に長く落ちた影を揺らしていく。
春の終わりの匂いを含んだその風はやわらかいはずなのに、胸の内だけが妙にざらついていた。
――少しだけ、時間をください。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
拒まれたわけではない。
終わらせるとも言われなかった。
むしろ、ちゃんと受け止めようとしてくれていた。
それなのに、少しも落ち着かなかった。
「……はあ」
低く息を吐いて、ようやく壁に背を預ける。
頭の中では、さっきのやり取りが何度も繰り返されていた。
セシリアのこと。
騎士学校のこと。
自分が何も言わなかったこと。
言葉が足りなかったこと。
全部、事実だ。
全部、自分が招いたことだ。
ラウラはずっと間違ったまま苦しんでいた。
そして、その間違いを正さなかったのは自分だ。
「……最悪だな」
誰に聞かせるでもない呟きが、夕暮れの冷えた空気に吸い込まれる。
他の相手なら、もう少しましにできる。
言うべきことも、飲み込むべきことも、ある程度はわかる。
なのに、ラウラの前だといつも駄目だった。
何か言おうとするほど、余計なことまで気になった。
他のやつと話しているのを見ると面白くなかった。
知らない顔を向けられるだけで、妙に腹が立った。
だから、きつくなった。
だから、意地の悪い言い方ばかりした。
好きな相手にすることじゃない。
そんなことは、自分が一番よくわかっている。
セドリックは片手で額を押さえた。
――まるで……私のことを、好きみたいではありませんか。
あの言葉が、ひどく正確に胸へ刺さったままだった。
好きみたい、ではない。
好きだ。
そんなことは、ずっと前から知っていた。
知っていたくせに、今までまともに言えなかっただけだ。
そして、あの時――婚約解消、という言葉を聞いた瞬間、頭の中が本当に真っ白になった。
怒ったのかと問われれば、たぶん違う。
傷ついたのかと問われれば、それももちろんあった。
けれど最初に来たのは、もっと単純で、もっとどうしようもない感覚だった。
そんなはずがない、と。
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
いや、言葉自体は聞こえていた。
婚約解消。
はっきりと。
逃げようのない形で。
なのに意味が胸まで落ちてこなかった。
ただ、その一言だけが耳の奥で何度も反響して、他の音が全部遠くなった。
目の前にラウラがいる。
ちゃんと見えている。
声も聞こえている。
それなのに、肝心の頭だけが動かなかった。
婚約がなくなる。
ラウラが自分のものではなくなる。
隣にいるのが当たり前ではなくなる。
そこまで考えが届いた瞬間、遅れて血の気が引いた。
冗談じゃないと思った。
でも、その“冗談じゃない”をどう言えばいいのかわからなかった。
何から止めればいいのかも。
何を説明すれば間に合うのかも。
ただ、目の前が一瞬、本当に白くなった。
「……みたい、じゃない」
ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くほど低かった。
誰もいない回廊の先で、風がまた細く鳴る。
夕暮れの色は、もうだいぶ薄くなっていた。
セドリックはゆっくりと顔を上げる。
好きみたい、ではない。
好きだ。
当たり前だ。
だから、婚約解消なんて言われて、頭が真っ白になった。
だから、セシリアとのことを誤解されていたと知った時、頭が痛くなった。
だから、知らない男の話をされるのも、他のやつに笑っているのを見るのも、あんなに嫌だった。
全部、同じ理由だ。
「……好きだが」
言った途端、胸の奥が焼けるみたいに熱くなる。
次の瞬間、堪えきれずに声が跳ねた。
「……好きだ!」
吐き出すみたいに言った瞬間、セドリックは片手を頭へやった。
そのまま乱暴に髪を掻きむしる。
整えていた前髪がぐしゃりと崩れ、指のあいだから黒髪がばらばらに落ちる。
「っ……だから、お前だからだろうが……!」
低いのに、抑えきれない声だった。
怒鳴ったわけではない。
けれど、抑えていたものが堪えきれず、そのままあふれたみたいな響きだった。
頭を掻きむしったまま、セドリックは荒く息を吐く。
何を今さら、こんなところで叫んでいるのか。
本人の前で言え。
そう思うのに、さっきだってぎりぎりだった。
ラウラの前では昔からどうにも調子が狂う。
ましに話そうとするほど、逆に駄目になる。
本当に、最悪だ。
「誰に向かって荒れてるの」
呆れたような声がして、セドリックは顔をしかめた。
振り返ると、少し離れた柱にもたれてエリオットが立っていた。
いつからいたのか。
「……聞いてたのか」
「最後だけ」
エリオットは肩をすくめる。
「好きだが、ってところ」
セドリックは本気で嫌そうな顔をした。
「最悪だ」
「うん、ちょっと面白かった」
「殴るぞ」
「でも、やっとそこまで出るようになったんだなって思ったよ」
軽い口調だったが、声は少しだけやわらかかった。
セドリックは返さない。
そんな元気もなかった。
エリオットは少しだけ目を細める。
「今だから言うけど、ほんと昔の君、ラウラ相手だと変だったよね」
「他の相手には普通にできるのに、あの子にだけ妙にきついし、変に意地張るし」
「まるで好きな子に意地悪する子どもみたいだった」
セドリックは低く息を吐いた。
「……わかってる」
それ以外に言えなかった。
エリオットは少しだけ笑ったあと、ふっと真面目な顔になる。
「でも、今は前よりましだよ」
「ちゃんと本人に届く方へ向かってる」
前よりまし。
そうかもしれない。
少なくとも今日は、途中で逃げなかった。
誤魔化しもしなかった。
足りないかもしれない。
まだ届ききっていないかもしれない。
それでも、何も言わないまま終わるよりはずっといい。
セドリックは壁から背を離し、ゆっくりと息を吐いた。
「……もう、同じやり方はしない」
ぽつりとそう言うと、エリオットが少しだけ目を瞬いた。
セドリックは視線を逸らしたまま続ける。
「好きだから大事にしたいなら、逆のことしてたら意味がない」
「今さらだけどな」
エリオットは何も茶化さなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「今さらでも、やらないよりはずっといいよ」
その言葉に、セドリックは小さく息を吐いた。
回廊の向こうでは、もう夕暮れがかなり濃くなっている。
ラウラは今、どんな顔をしているだろう。
驚いているか。
まだ信じきれずにいるか。
困っているか。
それでもいいと思った。
今はまだ、それでも。
何も伝えないまま、誤解させたままでいるよりはずっといい。
セドリックは静かに顔を上げる。
胸の奥はまだうるさい。
けれど、そのうるささの正体を、もう言い逃れするつもりはなかった。
好きだ。
どうしようもなく。
昔からずっと。




