42 揺れる答え
夕暮れの回廊に、静かな沈黙が落ちていた。
「義理だけで続けてたわけじゃない」
「前から、お前相手だと調子が狂う」
その言葉が、まだラウラの胸の奥で何度も反響している。
前から。
その短いひと言だけで、今まで見ていた景色の色が変わってしまう気がした。
幼いころの言い合いも。
庭でのぶっきらぼうな言葉も。
手紙を返してくれたことも。
花のことを覚えていたことも。
全部。
全部、意味が変わってしまう。
そんなこと、すぐに受け止められるはずがなかった。
「……ずるい」
やっとこぼれた声は、自分でも驚くほど小さかった。
セドリックの眉が、わずかに動く。
「何がだ」
「今さら、そんなこと」
ラウラはぎゅっと手を握った。
喉の奥が熱い。
でも、もう止められなかった。
「今まで、何も言ってくださらなかったのに」
「私はずっと、わからなかったんです」
「わからないまま、一人で考えて……苦しくなって……」
そこまで言って、声が少し掠れた。
「そうして、もう終わらせるしかないのだと思ったのに」
セドリックは何も挟まなかった。
ただ、ラウラが最後まで言うのを待っている。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「今になって、そんなふうに言われても」
ラウラは唇を噛む。
「……すぐには、信じられません」
その言葉に、セドリックは少しだけ目を伏せた。
否定はしなかった。
しばらくしてから、低い声が落ちる。
「……そうだな」
短い返事だった。
けれど、そのひと言は思いのほかまっすぐで、ラウラは少しだけ目を瞬いた。
もっと強く返されるかと思っていた。
誤解だと、何を考えているんだと、そう言われるかもしれないと思っていた。
だが、セドリックはただラウラを見たまま続ける。
「信じられないのは当然だ」
「今まで俺が何も言わなかった」
「言葉が足りなかったのも、本当だ」
「……だから、お前がそう思ったのもわかる」
ラウラの胸が、また少し痛んだ。
やさしい言い方ではない。
慰めるような響きでもない。
それでも、その不器用なまっすぐさが、妙に胸に残った。
ラウラは目を伏せる。
「わかるなら……どうして」
小さくこぼれた問いに、セドリックの視線がわずかに揺れる。
「どうして、もっと早く言ってくださらなかったんですか」
責めたかったわけではない。
けれど、責めるような響きになってしまった。
ラウラは自分でもそれがわかったが、言葉を引っ込めることはできなかった。
セドリックは少しだけ黙った。
夕方の風が、二人のあいだを静かに抜けていく。
「……言わなくても、伝わると思っていた」
やがて、低い声が落ちた。
「昔から一緒にいたし、婚約もあった」
「今さら口にしなくても、何とかなると思っていた」
そこで一度、言葉が切れる。
「……でも、ならなかった」
最後のひと言だけ、ひどく苦かった。
ラウラの胸がきゅっと縮む。
それはきっと、本音なのだろう。
誤魔化しでも、取り繕いでもない。
だからこそ、余計に切なかった。
「私は……そんなふうには思えませんでした」
ラウラはゆっくりと息を吸った。
「セドリック様は、いつも私にだけきつかったから」
言ってしまってから、胸が少し痛む。
きつかった。
遠かった。
肝心なことは何も言ってくれなかった。
その全部が、今さら簡単に消えるわけではない。
セドリックはラウラを見つめたまま、低く言った。
「……騎士学校の時のことか」
ラウラの肩が小さく揺れる。
「そうです」
もう逃げたくなかった。
「あの時、どうしてあんなふうに言ったんですか」
“帰れ”。
その言葉は、今度も口にできなかった。
けれど二人のあいだには、たしかにあった。
セドリックはしばらく黙っていた。
さっきまでの沈黙とは少し違う。
逃げるためではなく、言うべきことを探している沈黙だった。
やがて、低く、少しだけ苦い声が落ちる。
「……腹が立った」
ラウラは目を瞬く。
「お前が、知らないやつと笑っていたから」
その言葉に、呼吸が止まる。
「一人で来ていたのも気に食わなかった」
「放っておけなかったのに、うまく言えなかった」
「……それで、ああなった」
乱暴なくせに、どこか苦しそうな声音だった。
ラウラはすぐには言葉を返せない。
ひどい理由だと思う。
子どもっぽくて、勝手で、まったく褒められたものではない。
けれど、その不格好さが作りものではないこともわかってしまう。
「それでは……」
やっと絞り出した声は、かすれていた。
「それでは、私はずっと」
ラウラは目を伏せる。
「間違ったまま、苦しんでいたことになります」
そのひと言に、セドリックの表情がわずかに強ばった。
「……そうだな」
否定は、なかった。
「悪かった」
あまりにもまっすぐで、短い謝罪だった。
ラウラは息をのむ。
セドリックが、こんなふうに言うとは思っていなかった。
胸の奥が、またひどく揺れる。
責めたいわけではなかった。
許したいわけでも、まだない。
ただ、思っていたよりずっと本気なのだと、そう感じてしまった。
それが苦しい。
「……少しだけ」
ラウラは唇を噛んだ。
「少しだけ、時間をください」
その言葉に、セドリックの目が揺れる。
たぶん本当は、今すぐ答えがほしいのだろう。
婚約解消の話を引っ込めろと、ここで言いたいのかもしれない。
けれど、ラウラにはもうそれができなかった。
「急に、全部は変えられません」
「今まで思っていたことも……今日聞いたことも」
「どちらも、まだうまく受け止めきれないんです」
セドリックは黙ったままラウラを見ていた。
その視線に責める色はない。
けれど、簡単に引くつもりもないのだとわかる目だった。
長い沈黙のあと、ようやく低い声が落ちる。
「……わかった」
ラウラは少しだけ目を見開く。
セドリックは続けた。
「だが、この話は終わりにしない」
「婚約解消の話も、今は認めない」
言い方はやはり少し強引だった。
けれどそれが、今のセドリックにできる精いっぱいなのだろう。
ラウラは小さく息を吐く。
不思議なくらい、少しだけ肩の力が抜けた。
終わってはいない。
でも、決まってもいない。
その曖昧さはつらいはずなのに、今は少しだけ救いでもあった。
「……はい」
やっとそれだけ答えると、セドリックの表情がほんのわずかにゆるんだ。
見間違いかと思うほど小さな変化だった。
けれど、ラウラにはわかった。
それだけでまた胸が鳴る自分が、少し悔しい。
回廊の外では、春の終わりの風が花を揺らしていた。
二人のあいだに落ちた沈黙は、もうさっきまでのものとは違う。
まだ何も解決していない。
誤解も、傷も、すれ違いも、全部そのまま残っている。
けれど。
たったひとつだけ、確かに変わったことがあった。
もう、何も知らないまま一人で終わりを決めることはできない。
ラウラはそのことだけを、静かに感じていた。




