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40 言えなかった言葉

数日後。


侯爵家の庭園では、春の終わりを惜しむような茶会が開かれていた。


広い芝庭には白いテーブルが並べられ、花々に囲まれた小道を、色とりどりのドレスがゆっくりと行き交っている。

笑い声も、食器の触れ合う音も、どれも穏やかだった。


けれど、ラウラの胸の内だけは少しも穏やかではない。


今日ここへ来る馬車の中でも、何度も考えた。


本当に言うのか。

今ここで。

ちゃんと伝えられるのか。

そして、もし思っていた通りのことを言われたら――


考えるたびに、喉の奥が少しずつ乾いていった。


それでも、今日は逃げないと決めていた。


今までみたいに曖昧なままにせず、自分の口で伝える。

もう、一人で考えて、一人で傷ついて、それだけで終わらせたくなかった。


その時、少し離れた木陰の向こうに、見慣れた黒い髪が見えた。


セドリックだった。


侯爵家の若い子息に声をかけられ、短く何かを返している。

礼装姿の彼は、相変わらず少し近寄りがたい空気をまとっていたけれど、そのぶっきらぼうささえ今は妙に目を引いた。


ラウラの心臓が、どくんと鳴る。


今だ、と思った。


少しでも迷ったら、きっと言えなくなる。


ラウラは手袋の上から指を握りしめる。

それから、ゆっくりと息を吸って、そのまままっすぐ歩き出した。


セドリックの前まで来たところで、ようやく声をかける。


「……セドリック様」


その呼びかけに、セドリックが振り向く。


青い瞳がラウラを映した瞬間、わずかに目が見開かれた。


「ラウラ」


名前を呼ばれる。


それだけで少し弱くなりそうになるのを、ラウラは必死に押さえた。


「少し、お話があります」


声音は思ったより硬かった。

自分でも、少しだけよそよそしく聞こえた。


セドリックはほんの少しだけ眉を寄せる。


周囲にはまだ人が多い。

令嬢たちの視線も、庭を行き交う者たちの気配もある。


その空気を一度見渡してから、セドリックは低く言った。


「……ここじゃ駄目だ」


ラウラの胸が小さく揺れる。


やはり、そうなのだろうか。


こんな場所で婚約の話を持ち出されること自体が迷惑なのかもしれない。

そう思いかけたとき、セドリックが短く言い足した。


「来い」


返事を待たずに歩き出す。


ラウラは一瞬だけためらった。

けれど、ここまで来て引き返すことはできない。


小さく息をついて、その背中を追った。


庭園の奥。

人通りの少ない回廊。

石造りの壁に夕方の光が淡く落ち、外のざわめきが少し遠くなる。


ようやく足を止めたセドリックが、振り返った。


「それで」


低い声だった。


「何の話だ」


ラウラは胸の前で手を重ねる。


逃げない。

今日は、ちゃんと伝える。


そう決めてきたはずなのに、いざ口にしようとすると、喉の奥がひどく重かった。


「婚約のことです」


それでも、なんとか言った。


その言葉に、セドリックの表情がわずかに強ばる。


ラウラはその変化を見て、少しだけ息が詰まった。


でも、ここで止まるわけにはいかない。


「……ずっと考えていました」


「騎士学校のことも、夜会のことも」


「いろいろ、全部」


セドリックは黙っている。


その沈黙が、かえってラウラに続きを促してくるようだった。


ラウラは一度、唇を湿らせた。


「私、ずっと勘違いしていたのかもしれません」


その一言に、セドリックの眉がぴくりと動く。


「勘違い?」


「はい」


ラウラは視線を落とさずに続けた。


「セドリック様が、私にきつい言い方をするのは、ただ不器用なだけだと思っていました」


「昔からそうでしたし、近いからこそ、そうなるのだと」


そこまで言って、ラウラは少しだけ唇を噛む。


昔なら、それで済ませられた。

ぶっきらぼうでも、感じが悪くても、そういう人だと思えた。


でも、今は違う。


その違いを知ってしまったから。


「でも……違ったのかもしれません」


「……何がだ」


セドリックの声は低い。


怒っているようにも見えるし、ただ緊張しているようにも見える。

けれどラウラには、その違いをもう正確に読み取る余裕がなかった。


「セドリック様は、私のことを嫌いではないのだと思います」


そう言うと、セドリックの目がわずかに揺れた。


ラウラは、その揺れを見るだけで胸が痛くなるのを感じた。


「でも、それは恋愛のお気持ちではないのでしょう?」


沈黙。


風が回廊を抜けていく。


ラウラはもう、自分の声が少し震えているのを隠せなかった。


「私には、最初から決まっていた婚約だから義理を通してくださっていただけ」


「今さら無下にもできなくて、昔からの約束だから、ずっとそうしてくださっていた」


そこまで言って、ラウラは少しだけ目を伏せる。


嫌いではない。

たぶん、それは本当だ。


でも、だからこそ苦しかった。


嫌いなら、まだよかったのかもしれない。

最初から何も期待しないで済んだかもしれないから。


「でも」


喉がつかえる。


それでも、言わなければいけない。


「でも、好きなのは……別の方なんですよね」


セドリックの表情が、はっきりと変わった。


驚いたように。

何かを言いかけて、言葉を失ったように。


でも、ラウラはもう止まれなかった。


止まったら、きっともう言えなくなる。


「セシリア様には、私に見せるのとは違う顔をなさっていました」


「ちゃんと礼を尽くして、ちゃんと向き合って、ちゃんと話して……」


「私には、あれが“好きな相手”への態度に見えました」


セドリックが口を開きかける。


けれど、ラウラの方が先だった。


「それに……家のことだって、そうです」


セドリックの眉がわずかに動く。


ラウラは視線を逸らさないまま言った。


「私は伯爵家の娘ですけれど」


「セシリア様の方が、ずっと自然です」


「家のことも、立場も、ああいう場で並んだ時のことも……全部」


少しだけ声が震える。


でも、もう止められない。


「私が隣にいるより、セシリア様の方がふさわしいのだと、そう思いました」


「最初から望まない婚約だったんです」


「それでも今までは続いてきた」


「でも今はもう、それが重いだけなのだとしたら」


「私がいることで、セドリック様を縛っているのだとしたら」


胸が苦しい。

それでも、言う。


ここまで来てしまったら、もう戻れない。


「だから」


小さく息を吸う。


「……私たちの婚約を」


声がわずかに震えた。


けれど、その震えごと押し出すようにして、最後まで言い切った。


「解消していただけませんか」


回廊が、しんと静まり返る。


遠くから庭のざわめきが聞こえる。

鳥の鳴く声も、風の音も。


でも、ラウラには何も耳に入らなかった。


ただ、目の前のセドリックの顔だけが、ひどく鮮明に見える。


「……は?」


落ちた声は低かった。


でも怒りではなかった。

呆れでもなく、ただ純粋に、信じられないものを聞いた時の声だった。


ラウラの胸が、少しだけ痛む。


けれど、もう言葉を引っ込めることはできない。


セドリックはしばらくラウラを見つめたまま、動かなかった。


まるで、今聞いた言葉の意味をすぐには受け止めきれないみたいに。


やがて、ぎこちなく口を開く。


「お前……本気で言ってるのか」


ラウラは小さく頷いた。


それしかできなかった。


夕暮れの光が回廊に長い影を落とす。


春の終わりの風はやさしいのに、二人のあいだに落ちたものだけが、ひどく重かった。


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