39 決めてしまう前に
夜会の翌日、ラウラは朝からひどく静かだった。
侍女に髪を整えられても、朝食の席で母に話しかけられても、きちんと返事はする。
笑おうと思えば笑えるし、礼を失うこともない。
けれど、自分の心だけがどこか遠くへ置き去りにされているようだった。
鏡の前に座ったまま、ラウラは自分の顔を見つめる。
少し青い顔。
少し力のない口元。
それでも、令嬢として見苦しくない程度には整っている。
だから余計に、空っぽな感じがした。
昨夜のことが、まだ胸の奥に残っている。
セドリックの顔。
返せなかった言葉。
止まりかけた声。
そして、結局また届かなかった会話。
「……やっぱり」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
期待していたのだと思う。
昨夜こそは。
あの夜会で、声をかけられて、少しでも何か変わるのではないかと。
エリオットが言ってくれたことも、胸のどこかに残っていた。
今すぐ全部を決めなくていい、と。
ひとりで“私じゃない”と決めるな、と。
その言葉はたしかにやさしかった。
だからこそ、少しだけ期待してしまったのだ。
もしかしたら。
昨夜、セドリックが続きを言ってくれるかもしれないと。
けれど、結局だめだった。
「この前のことなら」
そこまでだった。
肝心なところで、また止まった。
どうでもよくない、と言った。
避けるな、とも言った。
それなのに、一番聞きたいことは何ひとつ言ってくれなかった。
セシリアのこと。
あの日の“帰れ”のこと。
自分をどう思っているのかということ。
全部、手前で止まった。
ラウラは膝の上でそっと指を組む。
あれがセドリックなのだ。
昔からそうだった。
言いたいことがあるくせに、最後の一歩だけが出ない。
前はそれでもよかった。
前は、その不器用さも“セドリックらしい”で済ませられた。
でも、今はもうだめだった。
そこに自分の気持ちが混ざってしまったから。
「お嬢様?」
侍女の声に、ラウラははっとした。
「はい?」
「本日は少しお疲れのようです。ご無理はなさらないでくださいませ」
ラウラは鏡越しに小さく笑った。
「大丈夫よ」
口にした瞬間、自分でもそれが嘘だとわかった。
けれど侍女はそれ以上踏み込まず、「お支度が整いました」とだけ言って静かに下がっていく。
一人になると、部屋は急に広く感じた。
ラウラはゆっくり立ち上がり、窓辺へ寄る。
春の終わりの陽射しが、庭の花々をやわらかく照らしていた。
花は変わらずきれいに咲いている。
風も穏やかだ。
なのに、自分だけがそこにいないような気がした。
思い出すのは、昨夜のセドリックの顔ばかりだった。
困ったような顔。
言えないまま止まる顔。
そして最後まで、何も言えなかった顔。
ラウラはゆっくり目を閉じる。
好きだから、とはまだ言えない。
そう認めてしまったら、もっと苦しくなる気がする。
けれど少なくとも、もうわかっていた。
セドリックに他の誰かの影が重なって見えるだけで、こんなにも痛い。
自分に向けられる言葉と、誰かに向けられる言葉の違いだけで、こんなにも苦しい。
それはもう、昔みたいな幼なじみの意地では済まなかった。
だからこそ。
だからこそ、もう終わらせた方がいいのではないかと、ラウラは思う。
自分のために。
そして、たぶんセドリックのためにも。
「……迷惑、ですよね」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
最初から望んだ婚約ではなかった。
それはきっと、セドリックも同じだ。
幼いころは無理だと言い合って。
大きくなってからは、なんとなく続いて。
でも今はもう、なんとなくで続けていいものではなくなってしまった。
自分の気持ちが、思っていたより重くなってしまったから。
続けていれば、きっとまた期待してしまう。
また傷つく。
また言えないことが増えていく。
そのたびに苦しくなるくらいなら――。
「……もう、言わないと」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。
決まってしまったのだとわかった。
怖い。
本当は怖くてたまらない。
今まで当たり前みたいに続いてきたものを、自分の口で終わらせるなんて。
そんなことが本当にできるのかもわからない。
でも、このまま曖昧に立ち続ける方が、もう苦しかった。
午後の授業中も、ラウラの頭の中にはその言葉だけが残っていた。
婚約を解消してほしい。
頭の中で繰り返すたびに、喉の奥が詰まる。
文字にすれば簡単なのに、口に出そうとすると急に鋭いものに変わる。
ノートの上に置いたペン先が、わずかに震える。
隣の令嬢が何か話しかけてきても、ラウラはうまく聞き取れなかった。
ただ「ごめんなさい」と小さく微笑んでごまかすことしかできない。
授業が終わり、皆が立ち上がっても、ラウラはしばらく席を離れられなかった。
行かなければ。
言わなければ。
そう思うのに、足が少しだけ重い。
それでも、もう決めてしまったのだ。
今ここで言えなければ、きっとまた言えなくなる。
また曖昧に笑って、また傷ついて、それでも何も変わらないまま時間だけが過ぎていく。
そんなのは嫌だった。
「ラウラ様?」
後ろから声をかけられ、ラウラは振り向く。
同じ学年の令嬢が、不思議そうに首をかしげていた。
「ご一緒に帰りませんか?」
ラウラは一瞬だけ迷い、それからやわらかく首を振る。
「今日は少し、寄るところがあるので」
「そうなの?」
「ええ。また明日」
令嬢はそれ以上は言わず、小さく手を振って去っていく。
ラウラはその背中を見送り、そっと息を吐いた。
今から向かう先を思うと、胸の奥がまた冷たくなる。
庭園だった。
ハーヴェル公爵家の子息が、この時間によく通る場所。
見つからなければ、それはそれで仕方ない。
でも、もし会えたなら。
今日こそ、言うのだ。
廊下を歩きながら、ラウラは何度も心の中で言葉を繰り返す。
婚約を――
そこで喉が止まる。
違う。
もっときちんと。
もっと礼を失わずに。
私たちの婚約を、解消していただけませんか。
それなら言えるだろうか。
言える気がしない。
でも、言わなければならない。
窓の外には、午後のやわらかな光が差していた。
春の花々が風に揺れ、校舎の白い壁に影を落としている。
その景色を見ても、もう少しも落ち着かなかった。
庭園へ出る手前で、ラウラは一度だけ立ち止まる。
胸の奥が大きく鳴っている。
足先が少しだけ冷たい。
本当に、これでいいのだろうか。
答えは出ない。
出ないままでも、進むしかなかった。
エリオットは、今すぐ決めなくていいと言った。
その言葉は本当にやさしかった。
でもラウラには、もうこれ以上迷い続けることの方がつらかった。
はっきりさせてしまえば、終わる。
終われば、少なくともこれ以上勝手に期待して苦しむことはない。
それが正しいのかはわからない。
でも、そうするしかないように思えた。
ラウラはそっと手を握る。
震えている。
自分でもわかるくらいに。
それでも、足を前へ出した。
もう、これ以上迷惑はかけない。
その一言だけを胸の中で繰り返しながら、ラウラは庭園へ向かって歩き出した。
その先で何が待っているのか、まだ知らないまま。




