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38 すれ違う再会

数日後。


王都のある侯爵家で、小さな夜会が開かれていた。


春の終わりを惜しむような、穏やかな集まりだった。

広間にはあたたかな灯りがともり、壁際には季節の花が飾られている。

楽師たちの奏でる静かな音楽が、人々のざわめきに溶けるように流れていた。


本来なら、ラウラはこういう場を嫌いではなかった。


人と話すのは得意ではなくても、きちんと笑って、きちんと礼をして、必要な言葉を選ぶことはもう身についている。

貴族学校へ入ってからは、そういう“ちゃんとした令嬢”でいる時間が増えた。


でも今日は、会場へ入った瞬間から胸の奥が落ち着かなかった。


理由はわかっている。


招待客の中に、ハーヴェル公爵家の名があったからだ。


来るかもしれない、と思っていた。

思っていたけれど、実際にその姿を見つけた瞬間、胸の奥がわずかに強く鳴った。


黒い髪。

青い瞳。

きちんとした礼装に身を包んだセドリックは、少し離れた場所で誰かと短く言葉を交わしていた。


相変わらず愛想はない。

でも、あの無愛想ささえ今は妙に目を引く。


ラウラはすぐに視線を逸らした。


見つかる前に、少し離れておこう。

そんなふうに思ってしまった自分に、少しだけ嫌気がさす。


前なら、見つかったら見つかったで

「相変わらず感じが悪いですね」

くらいすぐに言えたはずなのに。


今は、それができる気がしない。


ふと広間の奥に目をやると、エリオットの姿も見えた。

誰かとやわらかく言葉を交わしている。


少しだけほっとしたのに、そのことすら自分で認めたくなくて、ラウラはすぐに視線を戻した。


「ラウラ様」


隣からやわらかな声がした。


振り向くと、セシリアだった。


今日も淡い色のドレスを上品に着こなし、穏やかな微笑みを浮かべている。


「こんばんは、セシリア様」


ラウラは自然と背筋を伸ばした。


セシリアはラウラの表情を見て、少しだけ首をかしげる。


「少し緊張していらっしゃる?」


「いえ……少し、人が多いので」


「そうですわね」


セシリアはくすりと笑った。


「こういう場は、慣れていても疲れますもの」


その言い方に嘘はないのだろう。

こういう場が似合う人でも、やはり疲れることはあるのだと、ラウラは少しだけ意外に思う。


小さく頷いた、そのときだった。


「セシリア様」


低い声がして、ラウラの指先がわずかに止まる。


振り返らなくてもわかった。


セドリックだ。


セシリアがやわらかく笑みを向ける。


「こんばんは、セドリック様」


「こんばんは」


短い応答。

けれど礼は欠いていない。


ラウラはほんの一瞬だけ迷ってから、ゆっくりと顔を上げた。


「……こんばんは、セドリック様」


その呼び方に、セドリックの眉がぴくりと動いた。


ほんのわずかだったけれど、ラウラは見逃さなかった。


けれど、彼は何も言わない。

ただ青い瞳でラウラを見る。


ラウラはその視線を受け止め続けることができず、少しだけ目を逸らした。


沈黙が落ちる。


前なら、この沈黙はもっと短かった。


誰かが何かを言うより早く、ラウラが

「相変わらず感じが悪いですね」

とでも言って、セドリックが眉を寄せて返しただろう。


でも今は、その一歩が出ない。


セシリアがその空気をやわらかくほどくように言った。


「騎士学校は、もうすぐ次の試験があるのでしょう?」


「ああ」


セドリックは短く頷いた。


「前にお話しされていた学校支援の件も、そのあとに動くらしい」


ラウラはわずかに目を瞬いた。


“前にお話しされていた”。


その言い方だけで、ふたりのあいだに自分の知らない会話があったのだとわかる。


セシリアはやわらかく微笑んだ。


「では、本当にお忙しいのですね」


「まあな」


短い返事。

けれど、それだけでは終わらなかった。


セドリックは珍しく、自分から続ける。


「この前の資料は助かった」


ラウラの胸が、わずかに沈む。


セシリアが少しだけ目を細めた。


「お役に立てたのなら、よかったですわ」


「教師方も、ああいう形なら受け取りやすいでしょうもの」


「ああ」


また短いやりとり。


でも、その短さのわりに、妙に噛み合っていた。


ラウラの知らない話題で、自然に会話が続いていく。

そのことが、かえって胸に刺さる。


セシリアが続ける。


「この前、神殿側の方とも少しお話ししましたけれど、やはり支援の形は整理されていた方が動きやすいようでした」


セドリックはわずかに眉を動かした。


「……そこまで話が行ってるのか」


「ええ。まだ正式ではありませんけれど」


「でも、あのままでは教師方も困っていらっしゃいましたから」


セドリックは少しだけ視線を落とし、短く言う。


「そうだな」


その声は相変わらず低い。

けれど、ラウラに向ける時のような刺々しさはなかった。


セシリアはそんなセドリックを見て、ほんの少しだけ笑う。


「ご安心ください。わたくしも、無理に話を進めるつもりはありませんわ」


「ただ、放っておいてよいことでもないのでしょう?」


セドリックはその言葉に、今度ははっきりと頷いた。


「ああ」


「……助かる」


その一言が、ラウラの胸をまた静かに沈ませる。


助かる。

そんなふうに、きちんと礼に近い言葉を向けるのだ。


自分には肝心なところで言葉を切るのに。

自分とは、あんなふうに会話が続かないのに。


ラウラは思わず指先をきつく重ねた。


セドリックは相変わらず愛想がいいわけではない。

それでも、ラウラには十分だった。


セシリアには、ちゃんと向き合っているように見える。

少なくとも、自分に向ける時よりはずっと。


それがたまらなく苦しかった。


自分がここにいる必要はない気がした。


「……少し失礼いたします」


小さくそう言って、ラウラは二人に軽く礼をした。


セシリアが目を瞬く。


「ラウラ様?」


「少し、空気を入れ替えてまいります」


できるだけ穏やかに言ったつもりだった。


そのままその場を離れようとした時、低い声が背中に落ちる。


「待て」


ラウラの足が止まった。


けれど、すぐには振り向かなかった。


「……なんでしょう、セドリック様」


自分でも驚くくらい、丁寧な声だった。


その声が、かえってセドリックの眉間の皺を深くした。


「なんだ、その言い方」


ラウラはゆっくり振り向く。


「言い方、ですか?」


「そうだ」


「別に、普通ですけれど」


「普通じゃない」


返事は早かった。


ラウラの胸が少しだけざわつく。

でも、それを顔には出さない。


「失礼がありましたら、申し訳ありません」


さらに少しだけ丁寧に言うと、セドリックの表情がますます険しくなった。


「そういうことじゃない」


「では、どういうことでしょう」


ラウラはまっすぐに問うた。


きれいな言葉で。

きれいな距離を置いたまま。


セドリックは一瞬だけ言葉に詰まる。


その沈黙が、ラウラには少しだけ苦しかった。


ほら、やっぱり。

本当は、こうしていた方がいいのだ。


気安く言い返すより。

昔みたいに近い顔をするより、ずっと。


セシリアが静かに口を開いた。


「わたくしは、少し向こうへ参りますわ」


その声には、気遣いがあった。


ラウラは小さく頭を下げる。


「ありがとうございます、セシリア様」


セシリアはそれ以上何も言わず、その場を離れていった。


二人きりになる。


音楽は続いているのに、この一角だけ別の空気になった気がした。


セドリックが低く言う。


「なんで避ける」


ラウラは目を瞬いた。


「避けているつもりはありません」


「嘘だな」


「嘘ではありません」


「じゃあ、なんでそんな他人行儀なんだ」


その一言に、ラウラの胸の奥が少しだけ痛む。


他人行儀。


そうしたのは自分だ。

そうしないと、平気な顔で立っていられなかったから。


けれど、それを言うわけにはいかない。


「……その方がいいと思っただけです」


静かに返す。


セドリックの目が細くなる。


「何が」


「いろいろです」


「曖昧だな」


「そちらこそ」


返した瞬間、ラウラはほんの少しだけ自分を嫌になる。


結局、少し言い返してしまう。

完全に遠くなることもできない。


セドリックはラウラをじっと見ていた。


やがて、低い声で言う。


「この前のことなら」


ラウラの指先がぴくりと動く。


「……あれは」


続きがあるのかと思った。


謝るのか。

それとも、また別の何かを言うのか。


けれど、セドリックはそこで止まった。


ラウラは小さく息を吸う。


やっぱりだ。


肝心なところで、いつも止まる。


「お気になさらないでください」


ラウラは、あの手紙と同じ言葉を口にした。


綺麗に。

丁寧に。

少しだけ冷たく。


その瞬間、セドリックの顔が変わる。


「……それ、本気で言ってるのか」


「はい」


「嘘だな」


「どうしてそう思われるんですか」


「そういう顔してる」


ラウラは一瞬だけ言葉を失う。


そんなにわかりやすい顔をしていただろうか。


でも、すぐに視線を外した。


「私の顔なんて、どうでもいいでしょう」


言ってから、自分でも少し驚く。


思ったより棘のある言い方になった。


セドリックは眉を寄せる。


「どうでもよくない」


返事は早かった。


その速さに、ラウラの胸が大きく鳴る。


でも、そのあとが続かない。


またそれだ。

一番ほしい言葉の手前で、いつも止まる。


ラウラは耐えきれずに言った。


「……セシリア様には、あんな言い方しないのに」


口にした瞬間、空気が変わる。


セドリックの目が見開かれた。


そこでようやく、セドリックはラウラが何を見て、何を誤解したのかを理解したようだった。


ラウラはもう止まれなかった。


「ちゃんと話せるし、ちゃんと礼だって言えるのに」


「どうして私にだけ、いつもそうなるんですか」


セドリックが何か言おうとする。


けれど、ラウラが先だった。


「私だって、もう子どもじゃありません」


「ずっと前みたいに、何を言われても平気ではいられません」


声が少しだけ震えた。


泣きたくはなかった。

でも、胸の奥にためていたものが、少しずつ言葉になってこぼれてしまう。


セドリックは珍しく、はっきりと困った顔をしていた。


それでも、すぐには言葉が出てこない。


ラウラはその沈黙を見てしまう。


やっぱり、と思った。


「……もういいです」


そう言って、その場を離れようとした瞬間だった。


「逃げるな」


鋭い声が背中に飛ぶ。


ラウラの足が止まった。


ゆっくり振り返る。


「……逃げているのは、どちらですか」


静かな声だった。


でも、その静けさの方が、よほど痛かった。


セドリックの表情が強ばる。


ラウラは続けた。


「私は、ちゃんと話そうとしています」


「でも、セドリック様はいつも途中でやめる」


「それでいて、私には離れろという顔をする」


「そんなの、無理です」


言い切ったあと、胸が大きく上下した。


こんなふうに言ってしまうつもりではなかった。

でも、もう戻せない。


セドリックは何も言わない。


言えないのだ。


ラウラはそのことを、もう知っている。


知っているからこそ、つらい。


「失礼します」


今度こそ、ラウラは礼をした。


きれいで、遠い礼だった。


そのまま歩き出す。


背後から呼び止める声は、もうなかった。


広間の端まで戻ったところで、柱の影からエリオットが現れた。


どうやら最初から見ていたらしい。


「……ひどい顔」


ラウラは思わず少し笑いそうになる。


「誰のせいですか」


「僕じゃないよ」


エリオットは困ったように微笑んだ。


その表情があまりにもいつも通りで、ラウラは少しだけ肩の力を抜く。


「帰るの?」


「はい」


「送ろうか」


ラウラは小さく首を振った。


「大丈夫です」


そう答えてから、少しだけ躊躇って付け足す。


「……エリオット様」


「うん?」


「セドリック様を、あまり責めないでください」


エリオットは目を瞬いた。


ラウラは視線を落とす。


「悪いのは、きっと……あの方だけではありませんから」


自分でも、何を庇っているのかわからなかった。

けれど、すべてをセドリックのせいにしてしまうのは、どこか違う気がした。


エリオットはしばらくラウラを見て、それからやわらかく笑った。


「わかった」


「でも、少しは言わせてもらうよ」


ラウラはそれには答えず、ただ小さく頭を下げた。


その夜会のあと。


外へ出た回廊で、セドリックはひとり立ち尽くしていた。


春の夜風が冷たい。


さっきの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


――どうして私にだけ、いつもそうなるんですか。

――逃げているのは、どちらですか。


どちらも正しい。


返す言葉がなかった。


遅れてやってきたエリオットが、少し離れたところで立ち止まる。


「……終わった?」


セドリックは答えない。


エリオットは近づき、静かに言った。


「セドリック、そのままだと本当に手遅れになるよ」


低い声だった。

いつもの軽さはない。


セドリックの眉がぴくりと動く。


「……うるさい」


でも、その返事には力がなかった。


エリオットは肩をすくめる。


「うるさくもなるよ」


「ラウラ、今日はかなり本気だった」


セドリックは拳を握った。


わかっている。


今日のラウラは、今までと違った。


怒っているだけではない。

傷ついて、それでもきちんと線を引こうとしていた。


その線を、このまま放っておけば、本当に届かなくなる。


「セドリック」


エリオットは少しだけ目を細めた。


「もう“そのうち”で済ませられるところは過ぎてるからね」


風が吹く。


夜会の音楽が遠くから微かに聞こえてくる。


セドリックはしばらく黙っていた。


やがて、低く吐き出すように言う。


「……わかってる」


でも、どうすればいいのかは、まだわからない。


それがいちばん厄介だった。

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