37 遅すぎる自覚
その日の夕方、騎士学校の回廊は西日で淡く染まっていた。
実技を終えた生徒たちが、剣を戻し、制服の乱れを整えながら、それぞれの持ち場へ散っていく。
昼間の熱気がまだ石壁の奥に残っているのに、風だけは少しずつ冷えてきていた。
エリオットはその回廊を一人で歩きながら、小さく息をついた。
思っていたより、ラウラは深く傷ついていた。
いや、思っていた以上というより、
思っていた通りに傷ついていた
と言う方が近いのかもしれない。
昔からそうだった。
ラウラは本当に平気な時は、もっと素直に怒るし、もっとあからさまに拗ねる。
けれど本当に痛い時ほど、きれいに笑って、何でもないような顔をしてしまう。
今日のラウラは、まさにそうだった。
少しだけ楽になったと言っていた。
それは本当だろう。
でも同時に、胸の奥ではまだ、別の結論が静かに形を持ち始めていた。
――これ以上迷惑をかけないように、離れた方がいいのではないか。
そこまで口にはしなかった。
けれど、エリオットにはわかった。
あの顔は、もうそこへ向かいかけている顔だった。
「……ほんとに面倒くさい」
誰にともなく呟く。
そのとき、回廊の向こうからセドリックが歩いてくるのが見えた。
訓練帰りなのだろう。
上着を片手に持ち、もう片方の手で手袋を外しながら歩いている。
相変わらず整った顔をしているのに、その横顔は少しも穏やかではなかった。
エリオットは足を止める。
セドリックも気づいたらしく、数歩手前で立ち止まった。
「……何だ」
開口一番、それだった。
エリオットは少しだけ肩をすくめる。
「ただいま、の前にそれ?」
「帰ってきたばかりで疲れてる」
「嘘。疲れてるんじゃなくて、落ち着いてないんでしょ」
セドリックの眉がわずかに寄る。
図星だ。
エリオットはそこで軽く笑うのをやめた。
「ラウラに会ってきた」
その一言で、セドリックの指先が止まる。
空気がわずかに張る。
「……何で」
「何でって、放っとけないから」
エリオットは壁に寄りかかるように立ちながら、幼いころから見慣れた横顔を見た。
セドリックは昔からこうだ。
何でもない時は黙っていても別に気にならないのに、言えないことを抱えている時だけ、沈黙の形が少し変わる。
今の顔は、その時の顔だった。
「お前、自分が何したかはわかってるでしょ」
セドリックはすぐには答えなかった。
ただ、視線だけが少し落ちる。
「……で」
やがて、低い声が落ちた。
「ラウラは、何て言ってた」
その訊き方だけで十分だった。
気にしている。
想像以上に。
でも、自分からは聞きに行けない。
行ける立場でも、気安く踏み込める空気でも、もうなくなってしまっているからだ。
エリオットは少しだけ息を吐いた。
「まず先に言うけど、ラウラはかなり傷ついてる」
セドリックの目が、はっきりと揺れる。
エリオットは続けた。
「お前がセシリア様と話してた時のこと、ちゃんと見てた」
「自分に向けるのとは全然違ったって」
沈黙。
風が吹いて、回廊の端に置かれた鉢植えの葉が小さく揺れた。
セドリックは何も言わない。
でも、その黙り方でわかる。
思い当たっているのだ。
あの日の自分の声も、態度も、全部。
「噂のことも知ってたよ」
エリオットが言うと、セドリックの眉が深く寄る。
「……もう耳に入ってるのか」
「入ってる」
短く返す。
「お前とセシリア様がお似合いだとか、ラウラが途中で帰ったのはつらかったからだとか」
「そういうの、もう向こうで普通に話になってる」
セドリックの口元が、わずかにきつく結ばれた。
怒っているのではない。
悔しさとも違う。
もっと鈍くて、重いものを飲み込んだ顔だった。
エリオットはそのまま、まっすぐ言う。
「ラウラ、かなり悪い方に考えてる」
「……どこまで」
セドリックの声は、思ったより低かった。
それはたぶん、聞きたくないのに聞かずにいられない声だった。
エリオットは少しだけ迷った。
けれど、ここで甘くしても意味がない。
「嫌われてるわけじゃない、とは思ってる」
その言葉に、セドリックの目がわずかに上がる。
けれど、その次でまた沈んだ。
「でも、好きでもないんだろうって」
「昔から決まってた婚約だから、義理で続けてくれてるだけなんだろうって」
回廊の空気が、そこでひどく静かになった。
セドリックは、しばらくまったく動かなかった。
その無表情の下で何が起きているのか、エリオットにはわかる。
幼いころからずっと見てきたからだ。
この沈黙は、考えている時のものじゃない。
刺さりすぎて、うまく反応できない時のものだ。
「……何でそうなる」
ようやく落ちた声は、乾いていた。
怒りではない。
呆れでもない。
ただ、本気で理解できない時の声だった。
「何でって、お前がそう思わせたからでしょ」
エリオットは容赦なく返す。
「公開演習の日のことも、噂も、セシリア様との立場の違いも、全部ひとりでつなげちゃってる」
「で、最後にお前が“帰れ”って言った」
「そりゃそうなるよ」
セドリックが言葉を失う。
エリオットは、少しだけ声をやわらげた。
「ラウラ、ひとりで全部決める癖あるから」
「特に、相手のために自分が引いた方がいいと思った時ほど危ない」
その一言に、セドリックの視線がぴくりと動いた。
そこだ、とエリオットは思う。
気づいたのだ。
ようやく。
「……何て言った」
今度の問いは、さっきより少しだけ硬かった。
エリオットはセドリックを見る。
「はっきりとは言ってないよ」
「でも、顔に出てた」
「“これ以上迷惑をかけないように離れた方がいい”って、そっちに行きかけてる顔だった」
その瞬間、セドリックの顔色が変わった。
ほんのわずかだ。
でも、長い付き合いのエリオットには、それで十分だった。
息をのむのを堪えたような、一瞬の静止。
次の瞬間には元の無表情に戻っていたけれど、遅かった。
エリオットははっきりとわかった。
これは、想像していなかったのだ。
ラウラが傷ついていることはわかっていた。
避けられていることも、噂のことも。
でも、ラウラが本気で離れることを考え始めているところまでは、まだ実感していなかった。
セドリックはやがて、ひどく低い声で言った。
「……そんなこと、させるか」
その言葉は反射みたいに落ちた。
あまりにも自然で、あまりにも速かった。
言った本人だけが、数秒遅れて自分の言葉に気づいたようだった。
エリオットは目を細める。
「へえ」
セドリックは明らかに顔をしかめた。
「何だ」
「いや。今の、ずいぶん早かったなって」
「……うるさい」
でも、否定はしない。
それで十分だった。
エリオットは壁から背を離す。
「じゃあ、どうするの」
「……」
「ラウラがその気になる前に、止める?」
セドリックは答えなかった。
その沈黙に、エリオットは小さく息をつく。
やっぱりそうだ。
気持ちはある。
止めたいとも思っている。
でも、どう言えばいいのかわからない。
この幼なじみは昔からそうだった。
剣を握れば迷わない。
けれど、言葉になると急に不器用になる。
しかも厄介なことに、肝心な時ほどそれがひどくなる。
「今のお前が行っても、たぶんまた失敗するよ」
エリオットが言うと、セドリックの眉がぴくりと動く。
「……わかってる」
「本当に?」
「わかってる」
その声は、少しだけ掠れていた。
エリオットはそこで初めて、セドリックが思っている以上に追い詰められていることに気づいた。
ラウラを傷つけたこと。
追いかけなかったこと。
噂が広がっていること。
そして、そのせいでラウラが離れる方へ傾いていること。
それを、ようやく全部まとめて突きつけられたのだ。
平気なわけがない。
しばらくの沈黙のあと、セドリックが低く言う。
「……セシリア様のことは違う」
エリオットは瞬きをした。
ぽつりと落ちたその一言は、言い訳というより、ほとんど独り言に近かった。
「違うって?」
セドリックは視線を逸らしたまま言う。
「そういうつもりじゃない」
短い。
相変わらずびっくりするほど短い。
けれど、その言葉だけで十分だった。
少なくとも、そこははっきりした。
エリオットは少しだけ肩の力を抜く。
「だろうね」
「……だったら」
セドリックがそこで言葉を切る。
たぶん続きは、
だったら何であんなふうに見えるんだ
なのだろう。
エリオットは苦笑した。
「お前が言葉足りないから」
「ラウラが考えすぎるから」
「噂が好き勝手につなぐから」
「全部だよ」
セドリックは、ひどく嫌そうな顔をした。
でも反論しなかった。
反論できないのだ。
西日が少しずつ傾き、回廊の床に長い影を落としていく。
エリオットはセドリックの横顔を見ながら、静かに言った。
「今すぐきれいに解決するのは無理だと思う」
「でも、次にお前が黙ったら、たぶん本当に遅くなる」
セドリックの指先が、外した手袋を握りしめる。
その手に力が入っているのがわかった。
「……ラウラは」
そこで一度止まり、やがて続く。
「本気なのか」
その問いに、エリオットはすぐには答えなかった。
本気かどうか。
まだ、そこまでは行っていないかもしれない。
けれど、行かない保証もない。
「今は、まだ迷ってる」
正直にそう言う。
「でも、あのままなら、そっちを選ぶ」
セドリックの目が、ゆっくりと閉じられた。
それはほんの一瞬だったが、エリオットには妙に長く感じられた。
開いた時、青い目の奥にあったのは迷いではなかった。
焦りだ。
ようやく、ここまで来て。
「……くそ」
低く落ちた悪態は、誰に向けたものでもない。
たぶん、自分自身へ向けたものだ。
エリオットはその声を聞いて、少しだけ目を細めた。
遅い。
でも、遅すぎると決まったわけでもない。
たぶん、ここが最後の分かれ目だ。
「セドリック」
「何だ」
「次、失敗したらたぶん終わるよ」
きっぱりと言う。
脅しではない。
ただの事実だ。
セドリックは黙ったまま前を向いていたが、その横顔はもう、さっきまでとは違っていた。
何を言うべきかはまだわからない。
でも、言わなければいけないことだけは、もうはっきりしてしまった顔。
エリオットはそこでようやく、小さく息をついた。
面倒だ。
本当に、どうしようもなく面倒な二人だ。
でも、幼いころから見てきた二人が、こんな誤解のまま終わるのは見たくなかった。
回廊の外で、夕方の鐘が鳴る。
その音を聞きながら、エリオットは静かに思った。
――たぶん、もう時間はあまりない。
そしてセドリックもまた、同じことを感じていた。
ラウラが、自分の知らないところで静かに決意を固めてしまう前に。
今度こそ、言わなければならない。
言えなかった言葉を。
けれど、その覚悟が形になるより早く、事態はもうひとつ先へ進もうとしていた。




