36 幼なじみの役目
翌日の午後、ラウラは図書室へ向かう途中で呼び止められた。
「ラウラ様」
振り返ると、学院の使用人が丁寧に一礼する。
「応接室にお客様がお見えです」
「お客様?」
「ハーヴェル公爵家のエリオット様でいらっしゃいます」
ラウラは一瞬だけ目を瞬いた。
どうして、と思う。
両家の行き来自体は珍しくない。
けれど、わざわざ自分に会いに来る理由は、すぐには思いつかなかった。
胸の奥がわずかにざわつく。
セドリックのことが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。
あの人がエリオットを通して何か言ってくるようなことは、たぶんしない。
「……すぐに参ります」
そう答えて、ラウラは応接室へ向かった。
扉を開けると、エリオットはすでに立ち上がっていた。
「急にごめんね、ラウラ」
いつものやわらかい笑顔だった。
それだけで少しだけほっとする自分がいて、ラウラは小さく息をつく。
「いいえ。どうかなさったんですか?」
「ちょっと近くまで来たついでに、顔が見たくなって」
軽い言い方だった。
でも、幼いころから知っているエリオットが、ただそれだけで来る人ではないこともラウラは知っている。
「そうですか」
とりあえずそう返して、向かいの席へ座る。
使用人が紅茶を置いて下がっていくと、部屋の中には静かな空気だけが残った。
窓の外には春の光。
磨かれた机。
上品な応接室。
整いすぎたその空間の中で、ラウラは自然と背筋を伸ばした。
エリオットはそんな彼女を見て、少しだけ目を細める。
「ラウラ」
「はい」
「最近、ちゃんと寝てる?」
あまりにも唐突な問いだった。
ラウラは一瞬きょとんとして、それから少しだけ苦笑する。
「それ、久しぶりに会った相手に聞くことですか?」
「幼なじみだから聞くんだよ」
やわらかい声だった。
その一言に、ラウラは返す言葉を失う。
そうだ。
エリオットは、ただの“ハーヴェル公爵家のご子息”ではない。
セドリックと同じように、幼いころからの付き合いがある。
言い合って、笑って、怒って、何度も顔を合わせてきた相手だ。
だからこそ、表面だけ整えても通じないのかもしれなかった。
「……普通です」
少しだけ視線を逸らして答える。
エリオットはすぐには何も言わなかった。
ただ、その沈黙が、ラウラには少しだけ苦しい。
「公開演習のあとから、変な噂が広がってるって聞いた」
静かな声でそう言われて、ラウラの指先が止まる。
やっぱり、と思った。
何かを知っていて来たのだ。
ラウラはカップの取っ手に触れたまま、視線を落とす。
「噂なんて、そういうものではありませんか」
できるだけ整った声で言う。
「気にしても仕方がありません」
「うん。仕方ない部分はある」
エリオットはあっさりと頷いた。
その肯定が、逆にラウラの胸を少し刺した。
けれど、次の言葉はもっとやさしかった。
「でも、気にするなって言うつもりもないよ」
ラウラはゆっくり顔を上げた。
エリオットはまっすぐこちらを見ていた。
軽く笑ってごまかすような目ではない。
幼いころ、ラウラが転んで膝を擦りむいた時と同じような、ちゃんと見てくる目だった。
「痛いものは痛いでしょ」
その一言だけで、喉の奥が少し熱くなる。
ラウラは慌ててカップを持ち上げた。
でも、口をつける前にまたそっと戻す。
今は、紅茶の味なんてたぶんわからない。
「……見ました」
ぽつりと、声が落ちた。
自分でも驚くほど素直に出た言葉だった。
エリオットは何も言わず、続きを待っている。
ラウラは視線を膝の上へ落とした。
「騎士学校でのセドリック様を」
「訓練場に立っているところも、セシリア様と話しているところも」
胸の奥がきりりと痛む。
けれど、もう止まらなかった。
「私に向けるのとは、全然違いました」
エリオットの表情は変わらない。
でも、否定もしない。
軽く流したりもしない。
そのことが、ラウラには少しだけ救いだった。
「……あの日、私はたぶん、最初から場違いだったんです」
「そんなことないよ」
すぐに返ってきた言葉に、ラウラは首を横に振った。
「でも、そう見えました」
「皆もそう言っています」
「セシリア様と並んでいる方が自然だって」
「私が途中で帰ったのも、きっとそういうふうに見えたんだと思います」
話しながら、少しずつ声が細くなるのが自分でもわかった。
みじめだと思う。
こんなことを口にしている自分が。
けれど、エリオットの前では、きれいに整えた言葉だけでは済まなかった。
「それに」
ラウラは唇を湿らせる。
「セドリック様、私には……帰れって」
最後の二文字だけ、どうしても少し震えた。
エリオットの目がわずかに曇る。
「うん」
短く返す。
知っている、という響きだった。
ラウラははっと顔を上げた。
「知っていたんですか」
「聞いた」
エリオットは少しだけ言いにくそうにしながらも、逃げずに答える。
「セドリック本人から」
その瞬間、ラウラの胸の奥で何かが小さく揺れた。
知られていた。
あの最悪な言葉を、エリオットも知っている。
恥ずかしさと、痛みと、情けなさがいっぺんに押し寄せる。
けれどエリオットは続けた。
「先に言っておくけど、あれは最低」
思わず、ラウラは目を瞬く。
エリオットは苦笑した。
「そこは庇わないよ。ほんとに最低だった」
あまりにきっぱり言われて、ラウラは一瞬だけ言葉を失う。
それから、胸の奥に張っていたものが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。
自分が傷ついたのは、考えすぎでも気のせいでもなかったのだと。
「……そうですよね」
小さく呟くと、エリオットはやわらかく頷いた。
「うん。あれで傷つかない方がおかしい」
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
春の光だけが静かに床へ伸びていた。
ラウラはその先を見つめたまま、ぽつりとこぼす。
「でも、たぶん」
「嫌われているわけじゃないんです」
エリオットがわずかに眉を動かす。
ラウラは自分の膝の上でぎゅっと指を組んだ。
「嫌いなら、もっと前に切り捨てていたと思うんです」
「花のことを覚えていたり、手紙を返してくれたり、昔の約束を忘れていなかったり」
「そういうことは……してくれないと思うから」
エリオットは何も挟まない。
ラウラは息を吸い、少しだけ苦しそうに続けた。
「だから、嫌いじゃないんです」
「でも、好きでもないんだと思います」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がずしりと重く沈んだ。
何度も頭の中では考えた。
けれど声にすると、思っていた以上に痛かった。
「……義理で、今まで続けてくれていただけで」
「でも、セシリア様には違った」
「ちゃんと礼を尽くして、ちゃんと向き合って、あんなふうに」
ラウラはそこで言葉を切った。
喉の奥が、少しだけ詰まる。
「私、見たんです」
「だから、わかってしまった気がして」
「私じゃないんだって」
最後の方は、ひどく小さな声になった。
沈黙。
エリオットはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……それ、ラウラが考えた答え?」
「それとも、傷ついたまま出した答え?」
ラウラは顔を上げた。
エリオットの目はやわらかい。
でも、逃がしてくれない目でもあった。
「どっちも、同じじゃないですか」
「違うよ」
思ったよりもきっぱりした返答だった。
ラウラは息をのむ。
エリオットは声を荒げたりはしない。
ただ、まっすぐに言葉を置く。
「傷ついた時って、人はきれいに筋の通る答えを作っちゃうから」
「こっちの方が自然だ、こっちの方が釣り合う、だから自分じゃないんだって」
「そうやって全部つなげると、すごく納得できるように見える」
「でも、それが本当とは限らない」
ラウラはすぐに返事ができなかった。
胸のどこかを、静かに突かれた気がしたからだ。
たしかに、自分はつなげてしまった。
公開演習の日のこと。
噂。
セシリアの立場。
セドリックの態度。
自分に向けられた「帰れ」。
全部を。
その方が、痛くても納得できるから。
「……でも」
やっとのことで声を絞り出す。
「私が見たものは、なくならないです」
「うん、なくならない」
エリオットは頷いた。
「見たものまで、なかったことにはしなくていい」
「つらかったことも、そのままでいい」
「ただ、そのひとつの見え方だけで全部決めなくていいって言ってる」
ラウラは黙ったまま、机の木目を見つめた。
否定できない。
でも、素直に頷くこともできない。
今の自分には、そう思うことでしか立っていられない気もするからだ。
エリオットはその迷いを見て取ったのだろう。
少しだけ息をついてから、今度はもっとやわらかく言った。
「ラウラ」
「はい」
「セドリックの気持ちを、僕が代わりに言うことはできない」
ラウラのまつげがわずかに揺れる。
それはそうだ、と頭ではわかっている。
でも、今いちばん触れてほしいところでもあった。
エリオットは続ける。
「僕はあいつじゃないし、あいつが言うべきことまで奪いたくないから」
「でも、ラウラがひとりで“私じゃない”って決めるのは止めたい」
ラウラは唇を噛んだ。
その言い方はずるい、と思う。
希望を持たせるのでも、きっぱり切るのでもない。
ただ、決めるなと言う。
「……じゃあ、どうしたらいいんですか」
少しだけ、子どもみたいな響きのある声だった。
エリオットはそこでほんの少し困ったように笑う。
「今すぐ何かを決めなくていい」
「会いたくないなら、無理して会わなくていいし」
「話したくないなら、今は話さなくていい」
「ただ、“これ以上迷惑をかけないように離れた方がいい”ってところまで、今の痛みだけで進まないで」
ラウラははっと顔を上げた。
図星だった。
まさに、その言葉になりかけていたからだ。
それを見たエリオットは、小さく息をつく。
「顔に出た」
「……ひどいです」
「幼なじみだからね」
その返しが少しだけ昔みたいで、ラウラはほんのわずかに力を抜いた。
けれど、胸の苦しさまで消えたわけではない。
「私、もう前みたいに話せる気がしません」
「うん」
「避けてしまうし、会ったらたぶん、また変なことを考えます」
「うん」
エリオットは否定しなかった。
ただ、静かに受け止める。
「それでもいいよ」
「今は、そういう時なんだと思う」
「でもラウラ、自分が傷ついたことを、いつの間にか“相手のために退いた方がいい”って形に変えやすいから」
「そこだけは気をつけて」
ラウラは、思わず息を止めた。
そこまで見抜かれているとは思わなかった。
みっともない。
でも同時に、どこかほっとする。
「……エリオット様は」
ラウラはためらいがちに口を開く。
「セドリック様の味方なんですか?」
訊いたあとで、自分でも少しだけ嫌になる。
ずるい質問だと思ったからだ。
けれどエリオットは怒らなかった。
ほんの少しだけ首をかしげ、それから言う。
「ラウラの幼なじみでもあるよ」
その答えに、ラウラは何も言えなくなった。
ずるい。
でも、ずるいくらいにまっすぐだった。
窓の外では、春の風が木々を揺らしている。
しばらくして、ラウラはようやく小さく頷いた。
「……少しだけ」
「うん?」
「少しだけ、楽になりました」
それはたぶん、本当だった。
痛みが消えたわけではない。
苦しいままだし、噂も、公開演習の日のことも、なくなりはしない。
けれど、今ここで全部を決めなくてもいいのだと、初めて少しだけ思えた。
エリオットはやわらかく笑う。
「それならよかった」
立ち上がる前に、ラウラはそっと言った。
「……ありがとうございました」
エリオットは、いつもの少し気楽な調子で肩をすくめる。
「どういたしまして。幼なじみの役目だから」
その言葉を聞いた瞬間、ラウラはほんの少しだけ、本当に昔みたいに笑った。
ほんの一瞬だったけれど、作ったものではない笑顔だった。
エリオットはそれを見て、内心でほっと息をつく。
まだ大丈夫だ。
少なくとも、全部が手遅れになったわけではない。
応接室を出たあと、廊下を歩きながら、ラウラはゆっくり息を吐いた。
少しだけ楽になった。
それは本当だ。
でも、胸の奥の痛みはまだそこにある。
エリオットは「今すぐ決めなくていい」と言った。
ひとりで“私じゃない”と決めるな、と。
その言葉はやさしかった。
ありがたかった。
けれど同時に、ラウラには別の思いも残っていた。
エリオットでさえ、セドリックの気持ちを代わりには言わなかった。
言えなかったのか。
言わなかったのか。
どちらにしても、それが答えのように思えてしまう自分がまだいる。
「……だめね」
小さく呟く。
少し楽になったはずなのに、少し楽になったからこそ、また考えてしまう。
今すぐ決めなくていい。
その通りだ。
けれど、決めなければ、ずっとこのまま曖昧な場所に立ち続けることになるのではないか。
その曖昧さが、今のラウラには何より苦しかった。
歩きながら、ラウラはそっと手を握る。
胸の奥にあるのは、少しだけ和らいだ痛みと、まだ消えない迷いだった。
そしてその迷いは、やがて別の形をとって、静かにラウラを追い詰めていくことになる。




