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35 耳に入った噂

公開演習から数日が過ぎても、セドリックの機嫌は少しも戻らなかった。


戻らない、というより、落ち着かないと言った方が近いのかもしれない。


朝の点呼。

剣技の授業。

午後の実技訓練。

どれもいつも通りこなしてはいる。


けれど、幼いころから一緒にいるエリオットには、それが“いつも通りに見せているだけ”だとすぐにわかった。


返事が短い。

視線が荒い。

ぼんやりしているわけではないのに、どこかひとつだけ気が抜けない顔をしている。


何かあったのだろうと思っていた。


しかも、たぶん公開演習の日からだ。


エリオットもあの日の空気は覚えている。

ラウラが途中で帰ったことも。

そのあと、セドリックが妙に黙り込んでいたことも。


ただ、その中身まではわからなかった。


だからこそ、噂が耳に入った時、エリオットは心の中で小さく舌打ちした。


昼前の休憩時間だった。


訓練場の脇、水場の近くで数人の生徒が話している。

剣を置き、次の授業までのわずかな合間に息をついているだけの、よくある光景だ。


エリオットとセドリックもそのすぐそばにいた。

同じ学年、同じ授業、同じ流れで動いている以上、離れている方が珍しい。


だから、その会話は二人の耳にも自然と入ってきた。


「この前の公開演習、ずいぶん評判が良かったらしいな」


「ああ。うちの姉上も見に来てたけど、騎士学校らしくて見応えがあったって言ってた」


「それだけじゃなくて、ハーヴェル公爵家のご子息がすごかったとか」


エリオットは何気ない顔のまま水差しに手を伸ばした。


その横で、セドリックも無言で立っている。


「支援家のヴァレント家のご令嬢とも並んでいたらしいぞ」


「セシリア様だろ? あの方、綺麗だし、家の立場も合うし、すごく自然だったって」


「婚約者のリンドグレイ伯爵家のお嬢様も来ていたんだろ?」


「途中で帰ったって聞いたな」


「気まずかったんじゃないか?」


小さな笑いが混じる。


悪意というほどではない。

だからこそ、余計に質が悪い。


「まあ、実際お似合いなのはそっちだろ」


「婚約者はいても、ああいうのは雰囲気ってあるからな」


その一言で、エリオットの指先がぴたりと止まった。


隣を見る。


セドリックは動かなかった。

けれど、黙ったまま立つ横顔が、ほんのわずかに強張っている。


青い目の温度が、すっと下がる。


エリオットはそこでようやく、水差しを置いた。


「おい」


いつもより低い声だったのだろう。

話していた生徒たちが一斉にこちらを見る。


エリオットはにこりともせず言った。


「聞こえてる」


短い一言だった。


場が一瞬で静まる。


話していた生徒たちは、さすがにまずかったと思ったのだろう。

「悪気はなくて」「ただの噂で」と口ごもりながら、気まずそうに散っていった。


その場に残ったのは、エリオットとセドリックだけだった。


春の風が、訓練場の土の匂いを運んでくる。


しばらく沈黙が落ちた。


先に口を開いたのは、やはりエリオットだった。


「……公開演習の日、何があったの」


セドリックは答えない。


ただ、視線を正面に向けたまま、短く息を吐いた。


それだけで、ただ事ではなかったのだとわかる。


「ラウラ、途中で帰ったんだろ」


「……ああ」


「お前のせい?」


間を置かずに訊くと、セドリックの眉がわずかに寄った。


否定しない。


それだけで十分だった。


エリオットは小さく息をつく。


「何言ったの」


今度は少しだけ沈黙が長かった。


遠くで号令が響く。

けれど二人のあいだの空気だけは、妙に重いままだった。


やがて、セドリックが低く言う。


「……帰れって」


エリオットは思わず顔をしかめた。


「は?」


聞き返す。


セドリックは表情を変えないまま、もう一度言った。


「帰れって言った」


エリオットは額に手を当てた。


「お前、それ」


言葉を探すまでもなかった。


「最低」


セドリックは何も言い返さなかった。


ふだんなら、ひとことくらいは不機嫌そうに返すはずなのに、今日はそれすらない。


その沈黙が、エリオットにはむしろ重かった。


「何でそんなこと言ったの」


「……知らないやつと話してた」


「それで?」


「一人でふらふらしてた」


「それで帰れ?」


セドリックの口元が、わずかにきつく結ばれる。


言いながら自分でも無茶だと思っているのだろう。

でも、口から出てしまったものは戻らない。


「呼び止めた?」


「……いや」


「追いかけた?」


「行けなかった」


エリオットはそこで目を閉じた。


だめだ。

思った以上にひどい。


しかも面倒なのは、セドリック本人もちゃんとわかっていることだ。

わかっていて、どうにもできなかった顔をしている。


「ラウラ、傷ついたよ」


静かにそう言うと、セドリックの喉が小さく動いた。


「……だろうな」


「だろうな、じゃない」


エリオットは少しだけ声を強くした。


「お前、あの日のことだけでも最悪なのに、今はそのあとに噂まで乗ってるんだよ」


セドリックの目が動く。


エリオットは続けた。


「お前とセシリア様が並んでてお似合いだとか、ラウラが途中で帰ったのはつらかったからだとか、もうそういう話になってる」


今度こそ、セドリックの顔から目に見えて色が消えた。


エリオットは弟を見つめる。


「ラウラがそれを耳にしてないと思う?」


答えはない。


でも、その沈黙で十分だった。


たぶんもう遅い。

ラウラはきっと、聞いている。

そして、ひとりで勝手に全部つなげてしまう。


幼馴染だからわかる。


ラウラは、表ではちゃんとしている。

泣き喚いたりもしないし、人前で取り乱したりもしない。


でも、本当に傷ついた時ほど、きれいに笑って何も言わなくなる。


そして、ひとりで答えを決めてしまう。


悪い方へ。

自分がいなくなった方が収まりがいいのではないか、という方へ。


エリオットは小さく息を吐いた。


「……まずいな」


「何が」


ようやく返ってきたセドリックの声は、ひどく低かった。


「ラウラが、お前の“帰れ”だけじゃなくて、その噂までまとめて信じること」


セドリックの眉が深く寄る。


「……別に、俺は」


そこまで言って、言葉が止まる。


エリオットはその先を待ったが、やはり続かなかった。


別に、セシリアにそういうつもりはない。

たぶん言いたいのはそういうことだ。


でも、今のセドリックにはそれを形にする言葉がない。


「そういう顔しても無駄だよ」


エリオットは肩をすくめる。


「お前が黙ってる限り、ラウラには何も伝わらない」


「……避けられてる」


ぽつりと落ちたその言葉に、エリオットは少しだけ目を細めた。


諦めたような響きだった。

でも本当は、かなり堪えているのだろう。


「そりゃそうでしょ」


容赦なく返す。


「お前、帰れって言って、追いかけもしなかったんだから」


セドリックは黙る。


春の陽射しはやわらかいのに、その沈黙だけが妙に冷えた。


エリオットはしばらく弟を見ていたが、やがて少しだけ声をやわらげた。


「……でも、終わったとは思ってないんでしょ」


セドリックの目が、ほんのわずかに揺れる。


そこだ、とエリオットは思う。


本当に終わったと思っているなら、こんな顔はしない。

噂にこれほど反応もしない。


「まあ、お前に今すぐ何か言わせても、たぶんまた失敗するけど」


「……うるさい」


「うん、うるさく言う」


エリオットは軽く笑った。


それから少し真面目な顔に戻る。


「僕、ラウラの様子見てくる」


セドリックが顔を上げる。


止めたいのか、頼みたいのか、自分でもわからないような目だった。


エリオットはその視線を受けて、静かに言った。


「幼馴染だから」


その一言で、セドリックは何も言えなくなったらしい。


視線を逸らし、短く息を吐く。


エリオットはそこでようやく確信した。


これはもう、二人だけに任せていたらだめだ。


ラウラはきっと、何かを思い込んでいる。

セドリックはきっと、それを訂正する言葉を持っていない。


そのまま放っておけば、噂がそのまま事実の顔をして二人のあいだに残る。


それだけは避けたかった。


授業再開の鐘が鳴る。


生徒たちが再び訓練場へ散っていく中、エリオットは剣を取りながら小さく息をついた。


面倒だ。

本当に面倒だ。


でも、幼いころから見てきた二人が、こんなすれ違い方で離れていくのは見たくなかった。


その日の午後、訓練のあいだじゅう、エリオットは何度も考えた。


ラウラに何をどう聞くべきか。

どこまで踏み込むべきか。

軽く触れるだけではたぶん足りない。

けれど、強く言いすぎればラウラはすぐに殻を作る。


厄介だ。

でも、だからこそ幼馴染の自分が行くしかない。


訓練場の端では、セドリックがいつも以上に無駄のない動きで剣を振っていた。


きれいなくらい真っ直ぐで、鋭くて、迷いがないように見える。


でも、エリオットにはわかる。


あれは落ち着いているのではない。

考えすぎないように、剣に逃がしているだけだ。


「ほんと、不器用」


誰にともなく呟く。


その声は、風に紛れて消えた。


けれどエリオットの中では、もう決まっていた。


噂が広がる前にではなく、もう広がってしまった今だからこそ。

今度は自分が、ラウラの方へ行かなければならない。


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