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34 広がる噂

騎士学校から戻って三日が過ぎても、ラウラの胸の奥に残った痛みは、少しも薄くならなかった。


貴族学校の朝は、いつもと何も変わらない。


整えられた制服。

磨かれた廊下。

静かに開かれる教室の扉。

令嬢たちのやわらかな挨拶。


それなのに、ラウラにはその全部がどこか遠く感じられた。


窓際の席に座り、開いた教本に視線を落とす。

けれど、文字はほとんど頭に入ってこない。


――帰れ。


あの一言が、まだ耳の奥に残っていた。


昔から、セドリックは感じが悪かった。

ぶっきらぼうで、言い方もきつくて、優しい言葉なんてほとんどくれない。


でも、昔のそれと今のそれは、少し違う気がしていた。


前はただ、不器用なのだと思えた。

近いからこそ、言い方がきつくなるだけなのだと。


けれど今は、もう同じ意味では受け取れない。


あの騎士学校で見たセドリックは、ラウラの知らない顔をしていた。


セシリアに向ける声。

支援家の令嬢に向ける、礼を尽くしたきちんとした態度。

ちゃんとした大人の顔。


それを見たあとで、自分に向けられたのは、あの冷たい声だった。


――帰れ。


ラウラは小さく息をつく。


「……やだな」


ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くほど弱かった。


そのとき、教室の後ろで小さな笑い声が上がる。


「あの公開演習、本当にすごかったそうですわね」

「ええ、今年は例年以上だったとか」

「セシリア様のお家は、特に深く関わっていらっしゃるものね」


ラウラの指先がぴくりと止まる。


見ないふりをしたかった。

聞こえていないふりもしたかった。


でも、耳は勝手にその続きを拾ってしまう。


「ハーヴェル公爵家のご子息も大活躍だったそうよ」

「まあ、そうでしょうね」

「しかもセシリア様と並んでいらしたとか」

「やっぱりお似合いですわよね」


お似合い。


その言葉に、胸の奥がじわりと痛んだ。


悪意のある噂ではない。

むしろ、皆本当に自然なことのように口にしている。


だからこそ、逃げ場がない。


「でも、リンドグレイ伯爵家のご令嬢もいらしたのでしょう?」

「ええ。婚約者ですもの」

「途中でお戻りになったって聞いたけれど」

「体調でも悪かったのかしら」


もう、そのことまで話になっている。


「どうかしらね。でも、あの場は少しつらかったのかもしれませんわ」

「リンドグレイ伯爵家のお嬢様では、少し釣り合いが弱く見えてしまうのかもしれませんわね」


小さな声で交わされる、いかにも何気ない噂話だった。

責めるような言い方ではない。

けれど、そのぶん余計に、ひとつひとつの言葉が静かに胸へ刺さる。


ラウラは教本に視線を落としたまま、そっと唇を噛んだ。


恥ずかしい。

みじめだ。

そして何より、自分だけが場違いだったことを、周囲にも見抜かれているようで苦しかった。


そのとき、教室の扉が開いた。


入ってきたのはセシリアだった。


淡い色の制服を上品に着こなし、今日も少しも隙がない。

やわらかな微笑みを浮かべるだけで、教室の空気がふっと華やぐ。


令嬢たちが自然にその周りへ集まった。


「セシリア様、この前の公開演習はいかがでした?」

「大盛況だったそうですね」


セシリアは穏やかに微笑む。


「ええ、とても見応えがありましたわ」


「ハーヴェル公爵家のご子息も素晴らしかったのでしょう?」


ラウラの指先が、また止まる。


セシリアは少しだけ目を細めた。


「ええ。とてもお強い方ですもの」


その返事は落ち着いていて、どこにも嘘がないように聞こえた。


「やっぱりそうですわよね」

「しかも、セシリア様ともお親しいのでしょう?」

「学校へのご支援のこともありますし」


ほんの少しだけ沈黙が落ちる。


ラウラは、なぜか息を止めていた。


けれどセシリアは、曖昧に微笑んだだけだった。


「家同士のお付き合いはありますわ」


それだけ。


認めてもいない。

でも、否定もしない。


その曖昧さが、ラウラにはいちばん苦しかった。


否定する必要もないくらい、自然な関係なのだろうと思えてしまう。


家の立場も。

学校とのつながりも。

社交の場で並んだ時の釣り合いも。


全部、きれいに揃っている。


その一方で、自分はどうだろう。


最初から望んでいた婚約ではない。

それはラウラも、セドリックも同じだった。


幼いころ、二人とも「無理」と言い合っていた。

それでも周囲に決められ、そのままずるずると続いてきただけだ。


昔は、それでもよかった。

感じが悪くても、ぶっきらぼうでも、それがいつものことだったから。


でも今は違う。


ラウラは教本の上に落とした視線を、そのまま動かせなかった。


騎士学校で見たセドリックの横顔が浮かぶ。

セシリアに向けていた、きちんとした声。

支援家の令嬢として、まっすぐ向き合うあの態度。


それから、自分に向けられた声も思い出す。


――帰れ。


胸の奥が、また少し痛んだ。


どうしてあんなに違ったのだろう。

どうして自分にだけ、あんな言い方をしたのだろう。


嫌われているのかと思った。

でも、たぶんそれだけではない。


嫌いなら、あんなふうに花のことを覚えていたりしない。

手紙を返したりもしない。

昔の約束を、今さらみたいに忘れずにいたりもしない。


では、何なのか。


ラウラはそこで、ふと呼吸を止めた。


――ああ。


胸の奥に、何かが静かに落ちた気がした。


嫌いなのではなくて。

好きでもないのだ。


ただ、昔から決まっていた婚約だから。

今さら無下にもできなくて。

途中で投げ出すほど冷たくもなくて。

だから、義理を通してくれているだけなのかもしれない。


そう思った瞬間、これまでのことが妙につながってしまった。


ぶっきらぼうなのも。

遠慮がないのも。

自分にだけきついのも。


それは恋ではなく、ただ“そういう相手”だからなのだ。


でも、セシリアには違う。


ちゃんと礼を尽くして。

ちゃんと向き合って。

ちゃんとした顔で話していた。


あれがきっと、“好きな相手”に向ける態度なのだと、ラウラには思えてしまった。


セシリアを好きになったのだと思えば、最初から望まない婚約だった自分との関係を、今のセドリックがどう思っているのかも、少しわかる気がしてしまった。


そこまで考えて、ラウラは膝の上でぎゅっと指を握った。


「……そっか」


小さくこぼれた声は、驚くほど静かだった。


「そういうことだったんだ……」


納得したくなんてないのに、してしまった。


だからこそ、胸の奥がひどく痛んだ。


「ラウラ様」


不意に名前を呼ばれて、ラウラは顔を上げた。


セシリアが静かにこちらを見ていた。


「……なんでしょう」


自然と、少し丁寧な声になる。


セシリアはやわらかく首をかしげた。


「少しお顔の色が優れないようですわ」


「そうでしょうか」


「ええ。もしお疲れでしたら、無理をなさらないでくださいませ」


優しい言い方だった。


責めるでもなく、探るでもなく、本当に気遣うような声音。


ラウラは少しだけ視線を落とす。


セシリアは何も悪くない。

むしろ、どこまでもちゃんとしていて、やさしい。


だからこそ、余計につらい。


「ありがとうございます」


そう答えるのが精一杯だった。


セシリアはそれ以上何も言わなかった。

ただ穏やかに微笑んで、自分の席へ戻っていく。


その後ろ姿を見ながら、ラウラは胸の奥に沈む重さをどうすることもできなかった。


昼休みになると、ラウラは一人で温室へ向かった。


本当は少し休みたかっただけだ。

誰とも話したくなかった。


温室のベンチに腰を下ろし、ガラス越しの光を見上げる。


花は変わらずきれいに咲いている。

なのに今日は、その鮮やかささえ少し遠く見えた。


「……私、なにしてるんだろ」


小さく呟く。


婚約者は自分なのに、恋愛として見られているのは自分ではない。


そう思ってしまう。


最初から望まない婚約だった。

だから、ここまで続いてきたのは気持ちではなく、義理や責任の方だったのかもしれない。


そして今、セドリックに好きな人ができた。


だったら、自分がその場所にいる意味はもうないのではないか。


ラウラはそっと目を閉じた。


好きだから、とはまだ言えない。

そこまで認めてしまったら、もっと苦しくなる気がする。


けれど少なくとも、セドリックの隣に自分ではない誰かがいるように見えると、胸がこんなにも痛むのだと、もうわかってしまっていた。


「……やっぱり」


ぽつりと、声がもれる。


「私じゃないのかも」


誰に聞かせるでもない、小さな独り言だった。


温室の花々は静かに揺れている。


そのやさしい色の中で、ラウラの答えだけが、少しずつはっきりした形を持ちはじめていた。


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