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33 呼ばれない背中

ラウラは振り返らなかった。


石畳を踏む靴音だけが、やけに大きく耳に響く。

春の風はさっきまでより少し冷たく感じた。


「……失礼します」


そう言って離れたのは自分なのに、胸のどこかでは、まだ待っていた。


ラウラ。


そんなふうに、後ろから呼ばれるのを。


立ち止まれとか、待てとか、そういうぶっきらぼうな言葉でもよかった。

とにかく、止めてほしかった。


けれど――聞こえてくるのは、自分の足音だけだった。


通路を曲がる。

木立のそばを抜ける。

訓練場のざわめきが、少しずつ遠くなる。


それでも、呼ばれない。


ラウラは唇をきゅっと結んだ。


あんなふうに言われたのだ。

帰れと、はっきり。


それなのに、まだ何かを期待している自分が情けなかった。


やがて校舎の外れに近い案内所の前まで来ると、控えていた騎士学校の職員が驚いたように顔を上げた。


「お嬢様、どうなさいましたか」


ラウラは一瞬だけ言葉に迷う。


「……少し、気分が優れなくて」


嘘ではなかった。

胸の奥がずっと重く、息も少し苦しい。


職員はすぐに姿勢を正した。


「それは失礼いたしました。すぐに控えの馬車を――」


「いいえ、大げさにしないでください」


ラウラは小さく首を振った。


「乗ってきた馬車で戻れれば、それで十分です」


職員は戸惑ったようだったが、伯爵令嬢に無理をさせるわけにもいかないのだろう。

すぐに一礼し、手配のために下がっていく。


ラウラはその場に立ったまま、ぎゅっと手袋の上から指を握った。


本当に帰るのだ。


自分でそう言った。

自分でそう決めた。


なのに、胸のどこかが、まだおかしなほど静かにならない。


もしかしたら今から誰かが来るのではないか。

遅れてでも、呼びに来るのではないか。


そんな馬鹿みたいな考えが、まだ消えない。


けれど、どれだけ待っても、遠くの喧騒以外は何も近づいてこなかった。


やがて馬車の用意が整う。


ラウラは案内されるまま乗り込み、扉が閉まる音を聞いた。


その瞬間、ようやく本当に終わったのだと思った。


騎士学校の石畳が、窓の外でゆっくりと後ろへ流れていく。


高い門。

整えられた建物。

遠くに響く号令。

そのすべてが、ほんの少し前まで自分がいた場所なのに、もうひどく遠い。


そして最後まで、セドリックは来なかった。


ラウラは膝の上で両手を重ねた。


帰れ。


たった二文字の、あんなに短い言葉だったのに、胸に刺さったまま抜けない。


邪魔なんでしょ。


そう言った時、セドリックはすぐに違うと返した。

なのに、その先がなかった。


あの人はいつもそうだ。


一番大事なところだけ、少しも届かない。

肝心なことほど言わない。

今日だって、きっと何か別の意味があったのかもしれないのに、ラウラにはもう考える余裕がなかった。


考えたくなかった、と言った方が正しいかもしれない。


「……ばかみたい」


ぽつりと呟く。


自分に向けた言葉だった。


見に行くと決めたのは自分。

確かめたいと思ったのも自分。

それなのに、見たら傷ついて、勝手に落ち込んで、帰るしかできなかった。


しかも最後まで、呼び止められることをどこかで期待していた。


そんな自分がひどく情けない。


馬車の揺れに合わせて、視界が少しだけ滲む。


泣きたくなんてない。

あんな言葉で泣くなんて、悔しすぎる。


けれど、目を閉じると浮かんでくるのは、訓練場で見たセドリックの姿だった。


騎士学校の制服。

無駄のない動き。

自分の居場所に立つ顔。


きれいだった。

悔しいくらいに。


そして、そのあとセシリアに向けていた、きちんとした話し方。

自然な距離。

自分には見せない空気。


それを思い出すたび、胸の奥がまた痛んだ。


セシリアは何も悪くない。

むしろ、やさしくて、感じがよくて、隙もなくて、立場にもふさわしい人だ。


だからこそ余計に苦しかった。


もし相手が嫌な人なら、まだ簡単だったかもしれない。

けれどセシリアは違う。


ああいう人なら、並んでいて自然だと思われても仕方がない。

そう思ってしまう自分が、何より嫌だった。


馬車が伯爵家へ着いた頃には、日が少し傾き始めていた。


予定より早い帰宅に、玄関へ出てきた使用人が目を丸くする。


「お嬢様、お早いお戻りで」


「少し疲れてしまって」


ラウラはそれだけ言った。


問い返される前に、侍女が察したように一歩前へ出る。


「お部屋へお茶をお持ちしますね」


「……ありがとう」


部屋へ戻ると、急に足の力が抜けた。


扉が閉まるのを待って、ラウラはその場で小さく息を吐く。


ひどく疲れていた。

体ではなく、たぶん心が。


窓辺へ歩き、そっとカーテンの隙間から庭を見る。

春の陽射しはまだやわらかく、花壇の色もいつもと変わらない。


なのに、自分だけがどこか別のところへ置き去りにされたような気がした。


しばらくして侍女がお茶を運んできたが、ラウラはほとんど口をつけられなかった。


カップから立ちのぼる香りだけが、やけに優しい。


「公開演習はいかがでしたか」


侍女がそっと尋ねる。


ラウラは少しだけ視線を伏せた。


「……すごかったわ」


それだけは本当だ。


「でも、少し疲れたの」


侍女はそれ以上聞かなかった。

ただ、静かに一礼して部屋を出ていく。


一人になると、また静けさが戻る。


ラウラはベッドの端に腰を下ろし、両手を膝の上で握りしめた。


帰るんじゃなかった、ではない。

来るんじゃなかった、でもない。


どちらも本当で、どちらも違う気がした。


見たかったのだ。

セドリックがどんなふうに立っているのか。

どんな顔で、どんな空気の中にいるのか。


それは見られた。


でも、それと同じくらい、見たくないものまで見てしまった。


自分の知らないセドリック。

自分の知らない距離。

自分の知らない時間。


そして、最後に向けられた“帰れ”という言葉。


ラウラはそっと顔を伏せた。


やがて、乾いたノックの音がした。


「お嬢様」


侍女が扉の向こうから声をかける。


「ヴァレント家より、お手紙が届いております」


ラウラの肩がわずかに揺れる。


返事をして受け取った封筒には、たしかにヴァレント家の紋章があった。


開けば、中には整った文字が並んでいる。


今日はご一緒できて嬉しかったこと。

途中で気分が優れなくなったようで心配していること。

どうかご無理なさらず、ゆっくりお休みください、という丁寧な文面。


セシリアからだった。


ラウラは手紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。


やっぱり、どこまでも感じがいい。


責めるところがひとつもない。

むしろ、自分の方が礼を欠いたのではないかと思うほどだ。


それでも、手紙の最後まで目を通したあと、ラウラは小さく息をついた。


そこにセドリックの言葉は、もちろんない。


期待していたわけではない。

そんなものがあるはずもない。


なのに、ほんの一瞬だけ、探してしまった。


それがひどく惨めで、ラウラは手紙をそっと机の上に置いた。


夕方、母はラウラの顔を見て何かを察したのか、公開演習のことを細かくは聞かなかった。


ただ、夕食の席で一度だけ、やわらかく言った。


「ずいぶんお疲れのようね」


ラウラはスープ皿に視線を落としたまま、小さく頷く。


「少し、人が多くて」


それも嘘ではない。


人が多かった。

視線も、音も、空気も、何もかも。


そして何より、自分の中にある感情が多すぎた。


夜になって部屋へ戻っても、眠気はなかなか来なかった。


窓の外には、春の夜の静けさが広がっている。


ラウラは寝台の上で目を閉じ、何度も同じ場面を思い返した。


あの時、違う返事をしていたら。

言い返さなければよかったのか。

邪魔なんでしょ、なんて言わなければ。


そう考えて、すぐに首を振る。


違う。


たぶん、そういうことではない。


何を言っても、あの人はきっと上手く言えなかった。

自分だって、上手く受け取れなかった。


そうしてすれ違って、最後に残ったのが、あの二文字だっただけだ。


それでも。


呼び止めてほしかった。


その思いだけは、どうしても消えてくれなかった。


「……来なければよかった」


小さく呟いてから、ラウラはすぐに目を閉じる。


違う。

それも違う。


来たからこそ、知ってしまった。

見たからこそ、苦しくなった。


そして、苦しくなったからこそ、もう前と同じではいられないのだとわかってしまった。


セドリックがどこで、どんなふうに生きているのか。

自分がそこにどれほど入っていけないのか。

それを思い知らされた一日だった。


春の夜は静かだ。


けれど、ラウラの胸の内だけは少しも静かではなかった。


一方その頃、騎士学校では演習後の片づけが進んでいた。


木剣の回収。

訓練場の整列。

教師の確認。


いつもなら体が勝手に動くはずの作業なのに、今日のセドリックはひどく鈍かった。


「おい、どうした」


同級生に声をかけられても、短く「別に」と返すだけだ。


別に、なわけがない。


あのあと、しばらく本当に動けなかった。

追いかけようと思えば、追いかけられたはずだった。


けれど一歩が出なかった。


出たところで、何を言えばいいのかわからなかったからだ。


帰れ、なんて言ったあとで。


拳を握る。

また自分で言った言葉が蘇る。


一人でいるな。

そんなことを言いたかったわけじゃない。


違う。


声をかけられて笑っているのを見て、腹が立った。

知らないやつに気安く話すなと思った。

でも、本当はそれだけでもない。


ラウラが、あの場でひどく居心地悪そうにしていたことにも気づいていた。

セシリアの横で、少しだけ所在なさそうに立っていたことも。


だから、うまくやれなかった自分に腹が立っていた。


なのに、出てきたのはあんな言葉だった。


「……最低だな」


誰にも聞こえないほど低く呟く。


その声は、自分自身へ向けたものだった。


だが、どれだけ悔やんでも、今日のラウラはもう帰ってしまった。


そして自分は、呼び止めなかった。


その事実だけが、胸の奥に鈍く残り続けていた

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