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32 騎士学校

騎士学校の門は、思っていたよりずっと大きかった。


高い石造りの門柱。

その奥に広がる広い訓練場。

規則正しく並ぶ建物。

春の風の中には、土と鉄の匂いが混じっている。


ラウラは馬車を降りたところで、思わず足を止めた。


「……すごい」


小さく漏れた声に、隣のセシリアがやわらかく笑う。


「初めてご覧になると、驚きますわよね」


今日は騎士学校の公開演習の日だった。


貴族学校側にも見学の案内は出ていたけれど、ラウラはセシリアと一緒にここへ来ている。

婚約者である以上、来てもおかしくはない。


けれど、ラウラは無意識に手袋の上から指を握った。


どうしても、少しだけ落ち着かない。


「緊張していらっしゃる?」


セシリアにそう問われて、ラウラははっとした。


「いえ……」


否定しながらも、声は少しだけ固かった。


セシリアは責めるでもなく、ただ穏やかに言う。


「大丈夫ですわ。今日は見学の方も多いですし、皆さま演習の方へ意識が向いていらっしゃいますもの」


その言い方はやさしい。

でも、ラウラは少しだけ苦く思った。


皆の目は演習へ向く。

つまり自分はここでは、主役でも関係者でもなく、ただの見学者なのだ。


そう思うと、胸の奥が少しだけ冷えた。


その言葉を心の中で飲み込み、ラウラは小さく頷いた。


二人が案内されたのは、訓練場を見下ろせる石造りの観覧席だった。


すでに何人かの貴族たちが着席しており、教師や騎士たちが丁寧に挨拶をして回っている。

セシリアには誰もが慣れた様子で頭を下げた。


「本日はありがとうございます、セシリア様」

「ご後援に感謝いたします」


ラウラはその光景を見て、あらためてセシリアの立場を思い知る。


ここは彼女にとって、よく知った場所なのだろう。

少なくとも、自分よりはずっと。


「どうぞ、こちらへ」


案内されて席につく。


目の前の広い訓練場では、すでに何組かの生徒が整列していた。


木剣の音。

号令。

風を切る音。


ラウラは思わず前のめりになる。


「……すごい」


今度はさっきより、少し素直な感嘆だった。


セシリアが微笑む。


「騎士学校の公開演習は人気がありますのよ」


そのとき、訓練場の端にひときわ目を引く人影が現れた。


黒い髪。

高い背。

無駄のない動き。


ラウラの胸が、どくんと鳴る。


セドリックだった。


騎士学校の制服姿で訓練場に立つ彼は、伯爵家の庭で会う時とはまるで違って見えた。


空気が違う。

立ち方が違う。

そこが自分の場所だと、はっきりわかる顔をしている。


ラウラは思わず見つめてしまう。


セドリックはまだこちらに気づいていない。


教師の言葉に短く答え、周囲の生徒たちと位置を確かめ、無駄なく動いていく。

それだけのことなのに、目が離せなかった。


「本当に、目立ちますわね」


セシリアが静かに言う。


ラウラははっとして視線を戻した。


「……そうですね」


それしか言えない。


やがて演習が始まった。


木剣を打ち合わせる音が響き、訓練場の空気が一気に張り詰める。

セドリックの動きは速く、無駄がない。

相手の動きを見て、踏み込み、打ち、引く。


幼いころ庭で見た時とは比べものにならない。


ラウラはただ黙って見ていた。


きれいだった。

怖いくらいに。


「すごいでしょう?」


気づけば、セシリアがそっとこちらを見ていた。


ラウラは少し遅れて頷く。


「……はい」


「お強いのですね」


「ええ」


セシリアは訓練場へ視線を戻した。


「成績もとても良いと伺っていますわ」


それは誇らしげにも、自慢げにも聞こえなかった。

ただ、よく知っている者の口調だった。


そのことが、また少しだけ胸に引っかかる。


演習が終わると、観覧席のまわりが少しざわつき始めた。


生徒たちが引き上げ、教師や関係者が支援家の貴族たちへ挨拶に来る。


「セシリア様、本日はありがとうございます」

「今年もお力添えに感謝いたします」


セシリアはその一つひとつに、丁寧に応じていた。


ラウラは少し離れたところで、その様子を見守るしかない。


自分はここで、何をしたらいいのかわからない。


そのとき、聞き慣れた低い声がした。


「本日はありがとうございます」


ラウラの指先がぴくりと動く。


顔を上げる。


そこにはセドリックが立っていた。


その視線が、一瞬だけラウラに触れる。

けれど次の瞬間には、きちんとセシリアへ向けられていた。


「支援の件、父上も感謝していました」


いつものぶっきらぼうな口調ではない。

礼を尽くした、きちんとした話し方だった。


セシリアも自然に微笑む。


「お役に立てているなら光栄ですわ」


「今年の演習も見事でした」


「そうか」


セドリックは短く答えたが、その空気はぎこちなくない。

慣れている者同士のやりとりに見える。


ラウラは少し離れたところから、その様子を見る。


たったそれだけのことなのに、胸のあたりが少し痛んだ。


セドリックはこういう話し方もできるのだ。


知っていたはずなのに、実際に見ると少し違う。


ラウラといる時には見せない顔。

自分の知らない時間の中で積み上がった、自然な距離。


(……お似合い)


不意にそんな言葉が浮かんで、ラウラは小さく息をのんだ。


同時に、自分で嫌になる。


何を考えているのだろう。


そこへさらに別の教師がセシリアへ話しかけた。

一瞬、空気がほどける。


ラウラはその隙に、そっと視線を逸らした。


ここにいるのが少しだけ苦しくなってきた。


「少し、外の空気を吸ってきます」


誰にともなくそう言って、ラウラはその場を離れた。


セシリアが何か言った気がしたが、きちんとは聞こえなかった。


訓練場の外側へ回ると、少しだけ人が少ない。


石畳の通路の向こうには、小さな木立と休憩用のベンチが見えた。


ラウラはそこでようやく息をつく。


「……なにしてるんだろ」


自分でもよくわからない。


来ると決めたのは自分だ。

見たくて来たのも、自分だ。


なのに、見たら見たでこんなふうに落ち込むなんて、馬鹿みたいだった。


「ラウラ様?」


ふいに、後ろから声がした。


振り返ると、同じくらいの年頃の男子生徒が立っている。


騎士学校の制服姿。

明るい茶髪に、いかにも人懐こそうな笑み。


ラウラは少しだけ身を固くする。


「はい?」


「やっぱり。リンドグレイ伯爵家のご令嬢ですよね?」


「……そうですけれど」


男子生徒はぱっと顔を明るくした。


「よかった、間違ってたら不審者でした」


思いがけない言い方に、ラウラは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑ってしまう。


「今さらですけれど、不審者かもしれませんよ」


「ひどいなあ。ちゃんと騎士学校の生徒です」


彼は胸元を軽く叩いてみせた。


「案内役に立候補しようと思っただけなのに」


「案内役、ですか?」


「はい。公開演習を見に来た令嬢が一人で困っていたら、放っておくと後で教師に怒られるので」


「それは……本当なんですか?」


「半分くらい本当です」


今度はラウラが、くすっと声を漏らした。


ほんの少しだけ、気持ちが軽くなる。


男子生徒も笑って続けた。


「残り半分は、婚約者がいるって聞いていたのに、思ったよりずっと綺麗な方だったので話してみたかった、です」


「……それは正直すぎます」


「正直なのは美徳ですよ」


「騎士学校って、そうなんですか?」


「いえ、僕個人の方針です」


その返しが可笑しくて、ラウラはまた少しだけ笑ってしまった。


ほんの一瞬だった。


その一瞬を、通路の向こうから来た青い目が見逃さなかった。


「おい」


低い声が、空気を切った。


ラウラの肩がびくりと揺れる。


見れば、セドリックがこちらへ歩いてきていた。


その表情を見た瞬間、ラウラは息をのむ。


明らかに機嫌が悪い。

いや、それ以上に、怒っているように見えた。


男子生徒の笑みが一瞬で引く。


セドリックはラウラのすぐ前まで来ると、そのまま相手を見た。


「何してる」


短い言葉。

けれど、声の温度は低かった。


男子生徒は気まずそうに笑う。


「いや、少し案内でもと思って」


「必要ない」


即答だった。


空気が冷える。


ラウラは思わずセドリックを見上げた。


男子生徒はその圧にたじろぎながらも、最後にラウラへ軽く会釈する。


「失礼しました、ラウラ様。機会があればまた」


そう言って下がっていった。


静かになる。


ラウラは助かったと思った。

そのはずなのに、次の瞬間には胸がぎゅっと縮む。


セドリックの顔が、思った以上に険しかったからだ。


「お前」


低い声が落ちる。


ラウラは思わず背筋を伸ばした。


「なに」


「何してるんだ」


責めるような言い方だった。


ラウラの眉がぴくりと動く。


「別に、何もしてないけど」


「一人でふらふらして」


「ふらふらしてない」


「してるだろ」


言い方がきつい。

まるで叱られているみたいだ。


ラウラの胸の奥で、さっきまで沈んでいたものが別の熱に変わる。


「少し外の空気を吸ってただけ」


「それに、話しかけられたのは向こうからだし」


セドリックは眉を寄せたままだった。


「だから余計にだ」


「何が余計になの」


「こんな場所で一人になるな」


ラウラはかっとなった。


「なんで私だけそんなふうに言われなきゃいけないの」


セドリックの表情がわずかに強ばる。


「……は?」


「あなた、さっきまでセシリア様とは普通に話してた」


「ちゃんと礼も言って、あんなふうに話せるのに」


「どうして私にだけ怒るの?」


セドリックの目が見開かれる。


「怒ってるわけじゃない」


「怒ってるよ」


ラウラはまっすぐ睨み返した。


「見ればわかる」


「私がここにいたら邪魔なんでしょ?」


「違う」


返事は早かった。


けれど、それだけだった。


ラウラは唇を噛む。


「じゃあ、なんでそんな言い方するの」


セドリックは一瞬だけ言葉に詰まった。


言えない。

“お前だから気になる”とは、言えない。


その沈黙が、ラウラには肯定に見えた。


近くを通りかかった生徒たちが、ちらりとこちらを見る。

それに気づいたセドリックの眉が、さらに深く寄った。


「……やっぱり」


ラウラの声が少しだけ震える。


「来るんじゃなかった」


「ラウラ」


「私、ここじゃ何をしたらいいのかもわからないし」


「いても場違いだし、邪魔みたいだし」


「それなら最初から――」


「もういい」


低く、強い声が言葉を断ち切った。


ラウラが息をのむ。


セドリックは眉を寄せたまま、吐き出すように言う。


「帰れ」


空気が止まった。


ラウラは固まる。


耳がおかしくなったのかと思った。


「え……?」


「帰れ」


今度は、はっきりと。


命令みたいな言い方だった。


ラウラの指先から、すっと熱が引いていく。


ああ、やっぱり。


ここにいる自分は邪魔だったのだ。


セシリアと話していた時の空気。

自分には向けられない、あのちゃんとした顔。

そして今、自分に向けられる強い言葉。


全部つながってしまう。


ラウラは小さく唇を結んだ。


「……わかった」


それだけ言うのが精一杯だった。


セドリックが何か言いかける気配がした。


でもラウラは、もう顔を上げられなかった。


「……失礼します」


小さく言って、そのまま歩き出す。


通路の向こうへ。

訓練場から遠ざかる方へ。


背中に視線を感じる。


でも振り返らない。


振り返ったら、泣きそうな気がした。


騎士学校の石畳は、来た時よりずっと冷たく感じた。


その場に残されたセドリックは、しばらく動けなかった。


拳を握る。

言いたかったのは、あんなことじゃない。


一人でふらふらするな。

あんな目で見られるな。

笑うな。

いや、違う。


そんなことじゃない。


ただ――


誰かに向けてあんなふうに笑っているのを見た瞬間、腹が立った。

見たことのない顔を、簡単に向けるなと思った。


それなのに、口から出たのは「帰れ」だった。


「……くそ」


低く、吐き捨てるような声。


けれど、その悪態はラウラにではなく、自分に向いていた。


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