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31 公開演習の日

公開演習の日の朝は、よく晴れていた。


窓から差し込む光はやわらかく、春らしい穏やかな空気が部屋の中にも満ちている。

けれど、ラウラの胸の内だけは少しも穏やかではなかった。


鏡の前に座り、侍女に髪を整えられながら、ラウラは小さく息をつく。


「本日はよくお似合いです、お嬢様」


侍女が明るく言った。


鏡の中の自分は、たしかにきちんとして見える。

公開演習の見学にふさわしいよう、派手すぎず、それでいて伯爵家の令嬢として失礼のない装いに整えられていた。


けれど、どれだけ外見が整っていても、胸のざわめきまでは隠せない。


今日、騎士学校へ行く。


セシリアと一緒に。

そして、そこでセドリックを見ることになる。


そう思うだけで、胸の奥がまた小さく鳴った。


「お嬢様?」


侍女に呼ばれて、ラウラははっとする。


「……なに?」


「少し緊張していらっしゃいますか?」


優しく問われて、ラウラはすぐには返事ができなかった。


緊張している。

それはたしかだった。


けれど、その理由をきちんと言葉にすることはできそうになかった。


「初めての場所ですもの」


侍女はそれ以上深くは聞かず、やわらかく微笑んだ。


ラウラは小さく頷く。


「ええ……たぶん、それもあるわ」


“それも”。


口にしたあとで、自分でも少しだけ苦くなる。


本当は、それだけではない。

騎士学校という知らない場所へ行くことよりも、そこで見るかもしれない光景の方がよほど落ち着かなかった。


セドリックが、自分の知らない顔で立っているかもしれない。

セシリアと自然に言葉を交わしているかもしれない。

噂どおりの“自然さ”を、この目で見ることになるかもしれない。


見たい。

けれど、見たくない。


そんな気持ちを抱えたまま、ラウラはゆっくりと立ち上がった。


朝食の席では、母が穏やかな眼差しを向けてきた。


「今日は公開演習でしたね」


「はい」


「セシリア様がご一緒なら安心でしょう」


その名を聞くだけで、ラウラの胸の奥がまた少しだけざわつく。


安心。


たしかに、セシリアはそう思わせる人だった。

落ち着いていて、丁寧で、気遣いも自然で、無理がない。


けれど同時に、ラウラにとってセシリアは、どうしても少しだけ息苦しい相手でもあった。


騎士学校と関わりがあり、そこへ自然に足を踏み入れられる人。

自分の知らない場所の空気を、少しは知っている人。

そして――セドリックと並んでも自然だと噂される人。


ラウラはカップを置いた。


「……行ってまいります」


母はそれ以上何も言わず、やわらかく微笑む。


「ええ。気をつけて」


屋敷の前に、ヴァレント家の紋章をつけた馬車が止まったのは、約束の時刻ちょうどだった。


扉が開き、外へ出る。


春の光の中に立つセシリアは、今日も変わらず整っていた。


淡い色合いの装いは上品で、目立ちすぎないのに自然と目を引く。

ただ美しいだけではなく、その場の空気に馴染みながら、きれいに場を整えてしまうような人だった。


セシリアはラウラの姿を見ると、穏やかに微笑んだ。


「ごきげんよう、ラウラ様」


「ごきげんよう、セシリア様」


挨拶を返しながら、ラウラはほんの少しだけ背筋を伸ばす。


セシリアはその固さに気づいたのかもしれない。

けれど何も言わず、ただ自然に言葉を続けた。


「本日はご一緒できて嬉しいですわ」


「……こちらこそ」


声が少しだけ固くなった気がした。

それでもセシリアは気にした様子もなく、穏やかに頷く。


「道中はそう長くありませんけれど、どうぞ気を楽になさってくださいね」


決めつけるでもなく、踏み込むでもない言い方だった。

それがありがたくて、ラウラは小さく息をつき、頷いた。


二人で馬車に乗り込む。


扉が閉まり、車輪が静かに動き出した。


窓の外には、春の王都の景色が流れていく。

花を飾った店先。

行き交う馬車。

よく晴れた朝の光。


今日は公開演習の日だからだろうか。

いつもより人通りが少し多く、街全体がどこか落ち着かない華やぎをまとっていた。


「毎年、見学に来る方は多いのですか?」


気づけば、ラウラの方から尋ねていた。


セシリアは向かいの席で静かに頷く。


「ええ。社交の場というほどではありませんけれど、やはり注目はされますわ」


「ご家族が見にいらっしゃることもありますし、支援家の者や関係者もおりますから」


「そうなのですね」


当たり前の返事しかできない。


ラウラにとって騎士学校は、まだ遠い場所だった。

婚約者が通う学校であるはずなのに、自分には知らないことの方がずっと多い。


その中でセドリックは毎日を過ごしている。

そう思うだけで、胸の奥がまた小さくざわついた。


セシリアは、そんなラウラの表情を見ていたのだろうか。


「ご心配なさらなくても大丈夫ですわ」


やわらかい声が落ちる。


ラウラは顔を上げた。


セシリアは穏やかに微笑んでいる。


「見学席は整っておりますし、教師の方々も案内に慣れていらっしゃいますもの」


「初めてでも、困ることはないと思いますわ」


その言葉はやさしい。

けれど、ラウラの胸には少しだけ別の感情も生まれた。


初めてでも困らない。

つまり、困るかもしれない自分を、最初から見越されているのだ。


もちろん、それは親切からの言葉だ。

セシリアには少しも悪気などない。


でも、そういうふうにごく自然に気を配れること自体が、彼女が“こちら側”の人なのだと感じさせた。


ラウラは窓の外へ視線を向けた。


「ありがとうございます」


「いいえ」


短いやりとりのあと、馬車の中には穏やかな静けさが戻る。


気まずくはない。

むしろ、セシリアといる沈黙はとても整っていて、呼吸が乱されることもない。


それなのに、ラウラの心の中だけはちっとも整わなかった。


騎士学校に着いたら。

セドリックはどんな顔をしているのだろう。


演習の前だから、いつもより引き締まっているだろうか。

仲間たちと並んでいたら、庭で会った時よりももっと遠く見えるだろうか。

それとも――セシリアと話しているところを見たら、噂どおりだと思ってしまうのだろうか。


そこまで考えて、ラウラは自分の手袋の上から指先を握った。


見に行くと決めたのは自分だ。

確かめたいと思ったのも、自分だ。


けれど、いざ近づくにつれて、知りたい気持ちと同じだけ、知るのが怖い気持ちも強くなっていく。


「騎士学校は、厳しい場所ですか?」


不意に、そんな問いがこぼれた。


セシリアは少しだけ視線を伏せ、やがて静かに答えた。


「厳しいと思いますわ」


「けれど、その分だけ誇りも強い場所です」


誇り。


その言葉に、ラウラは春休みの庭で見たセドリックの横顔を思い出す。

騎士学校の話をしていた時の、あの短い言葉の端にあったもの。


たしかに、あそこには彼の居場所があった。


自分の知らない顔。

自分の知らない時間。

それが少し寂しくて、でも、知りたいとも思う。


「……セシリア様は、騎士学校へよくいらっしゃるのですか」


問うたあとで、ラウラは少しだけ後悔した。

踏み込みすぎた気がしたからだ。


けれどセシリアは気を悪くした様子もなく、やわらかく首を横に振った。


「“よく”というほどではありませんわ」


「ただ、家の関係で訪れることはございます」


「そうなのですね」


やはり、それだけしか言えない。


もっと聞きたいことはあった。

その“家の関係”の中に、セドリックもいるのか。

話す機会はあるのか。

噂は本当にただの噂なのか。


でも、そこまでは聞けなかった。


聞いた瞬間、自分が何を気にしているのかがはっきりしてしまいそうで怖かったからだ。


馬車がゆるやかに速度を落とす。


その揺れに、ラウラの胸もまた大きく鳴った。


「もうすぐですわ」


セシリアの一言に、ラウラは窓の外へ目を向ける。


見えてきたのは、高い石造りの外壁だった。

貴族学校とも、伯爵家の屋敷とも違う、張りつめた空気をまとった建物。

華やかさよりも、整えられた厳しさが先に立つ場所。


その向こう側に、セドリックがいる。


ラウラは小さく息をのんだ。


本当に来てしまった。

本当に、ここで見るのだ。


馬車が止まる。


扉が開き、外の空気が流れ込んできた。

少しひんやりしているのに、ラウラの手のひらは妙に熱い。


先に降りたセシリアが振り返り、自然に手を差し出した。


「どうぞ」


ラウラはその手を借りて馬車を降りる。


地面に足をつけた瞬間、胸の奥がさらにざわめいた。


本当は、まだ少しだけ帰りたかった。

見たくない気持ちが消えたわけではない。


けれど、それでも来たのだ。

ここまで来たのなら、もう目を逸らしたくはなかった。


セシリアがやわらかく言う。


「こちらですわ」


ラウラは頷き、顔を上げる。


そして、その先に広がる光景を見た。


――騎士学校の門は、思っていたよりずっと大きかった。


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