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30 支援家の令嬢

春休みが明け、貴族学校にはまたいつもの朝が戻っていた。


磨かれた廊下。

静かに開く教室の扉。

令嬢たちのやわらかな挨拶。

整えられた空気の中に、少しだけ新しい季節の匂いが混じっている。


ラウラもいつものように席についた。


教本を開き、窓の外に目をやる。

中庭の花壇には、春の花がやわらかく咲いていた。


けれど、気持ちはまだ少し落ち着かない。


春休みに会ったセドリックのことを、思い出さない日はなかった。


昔と同じように言い返した。

昔と同じように感じが悪かった。

ぶっきらぼうで、言葉足らずで、何を考えているのか少しもわからない。


それなのに、二人きりになった時の、あの妙な間だけが胸のどこかに引っかかっている。


前と同じではなかった。


けれど、だからといって何かがわかったわけでもない。

むしろ前より、わからなくなった気がする。


セドリックがどう思っているのか、今ひとつ見えない。

自分をどう見ているのかも。

婚約者だというのに、肝心なことほど少しも伝わってこない。


「ラウラ様」


後ろから名前を呼ばれて振り向くと、同じ学年の令嬢が二人、こちらへ歩いてくるところだった。


「おはようございます」


「おはようございます」


軽く挨拶を交わす。


そのまま一人が、少し弾んだ声で言った。


「聞きまして? 今度の騎士学校の公開演習」


ラウラは目を瞬く。


「公開演習?」


「ええ。毎年この時期にあるのでしょう?」


「今年は例年より大きな形になるそうですわ」


もう一人も頷く。


「王都の貴族学校にも案内が来るそうよ」


「支援家の方々も関わっていらっしゃるみたい」


その言葉に、ラウラの胸の奥がわずかに引っかかった。


支援家。


春休みの夜、侍女たちの話し声で耳にした言葉だった。


「支援家って、騎士学校とも関わりが深いのですか?」


ラウラがそう尋ねると、令嬢は少し驚いたように目を丸くした。


「まあ、ご存じなかったの?」


「わたくし、あまりそのあたりに詳しくなくて……」


そう答えると、令嬢は悪意なく笑う。


「いくつかの家は、設備や研究、行事の運営にも関わっていらっしゃるのですって」


「中でもヴァレント家は有名ですわ」


ヴァレント家。


聞き慣れない名ではなかった。

支援家として王都で名の通った家だと、父か母の会話で聞いたことがある。


「そちらのご令嬢が、セシリア様ですの」


「とても綺麗な方で、成績もよろしいのよ」


もう一人が、少し声をひそめるようにして続けた。


「騎士学校とも関わりが深いから、ハーヴェル公爵家のご子息ともお話しされることがあるそうですわ」


ラウラの指先が、教本の端でぴたりと止まる。


何でもないふうを装って、静かに聞き返した。


「そうなんですか」


「ええ。家同士のお立場も近いですものね」


「それに、並んでいらっしゃるととても自然だと聞きましたわ」


自然。


その言葉が、妙に胸に残る。


令嬢たちは、それ以上深い意味を持たせているわけではなさそうだった。

ただ、社交界でよくある“よく似合う二人”の話をしているだけだ。


なのに、ラウラはその言葉を軽く流せなかった。


「もっとも、あくまでそういう場でお見かけした方のお話ですけれど」


「噂なんて、少し大きくなるものですものね」


そう言って二人は笑う。


ラウラも小さく笑みを返した。

でも、胸の内側だけが少しだけ冷える。


噂。


たしかに、噂だけで決めつけるのはおかしい。

そう頭では思う。


けれど、知らない名前だったものが、急に輪郭を持ってしまった。


学校と関わりの深い家の令嬢。

騎士学校ともつながりがある家。

そして、セドリックと“並んでいて自然”だと言われる人。


「……セシリア様って、どんな方なんですか?」


気づけば、そう聞いていた。


令嬢たちは顔を見合わせる。


「とても感じのいい方ですわ」


「やわらかくて、きちんとしていて、誰にでも丁寧で」


「それでいて、お高くとまったところが少しもないの」


「いかにも“育ちの良い令嬢”という感じですわね」


その説明は、あまりにも綺麗だった。


悪く言うところがひとつもない。

だからこそ、ラウラの中でその人の姿が勝手に整ってしまう。


やわらかくて。

きちんとしていて。

騎士学校とも縁があって。

家の立場も近い。


それはたしかに、“自然”なのかもしれなかった。


そのとき、教室の扉が開いた。


何気なくそちらを見た令嬢たちの表情が、少しだけ華やぐ。


「まあ」


「ちょうど噂をしていたところですわ」


ラウラもつられて視線を向けた。


そこに立っていたのは、一人の令嬢だった。


淡い色の制服を、少しの乱れもなく着こなしている。

柔らかな栗色の髪。

落ち着いた表情。

微笑んでいなくても、どこかやわらかい。


派手ではないのに、目を引く。

教室へ入ってきただけで、空気が少しだけ整うような人だった。


「セシリア様」


誰かがそう呼ぶ。


その人は足を止め、穏やかに一礼した。


「おはようございます」


声まで、きれいだった。


よく通るのにやわらかく、押しつけがましさがない。

ただそれだけで、令嬢たちに好かれる理由が少しだけわかる気がした。


セシリアは近くの席の令嬢と言葉を交わし、それからラウラたちの方へも視線を向けた。


一瞬だけ、目が合う。


ラウラは思わず背筋を伸ばした。


セシリアはやわらかく微笑んだ。


「ごきげんよう」


「ご、ごきげんよう」


ラウラも慌てて返す。


そのやりとりは、それだけだった。


たったそれだけなのに、ラウラの胸は妙に落ち着かなかった。


近くで見ると、想像していたよりもずっと自然な人だった。

隙がないのに、冷たくない。

きれいなのに、近寄りがたいわけでもない。


こういう人なら、たしかに誰と並んでも自然に見えるのかもしれない。


まして、支援家の令嬢として騎士学校と関わる立場なら。


ラウラは視線を教本へ戻した。


けれど、頭の中にはもう文字など入ってこない。


「……変なの」


小さく呟く。


セドリックとこの人が並んでいるところなど、見たこともない。

話しているところだって、聞いたことがあるだけだ。


それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。


ただの噂かもしれないのに。

何も知らないのに。


けれど、名前を持たなかった“誰か”が、急にはっきりとした輪郭を持ってしまった今、前よりよほど意識してしまう。


昼休み、ラウラは一人で廊下を歩いていた。


食堂へ向かう令嬢たちの楽しそうな声が、遠くで重なっている。

春の光が窓から差し込み、床に長く落ちていた。


角を曲がったところで、ふと前方にセシリアの姿が見えた。


教師らしい女性と静かに話している。

相手が話し終えると、セシリアは落ち着いて頷いた。


「はい、承知いたしました」


短い返事。

それだけなのに、きちんとしていて、無理がなくて、妙に絵になる。


教師が去っていくと、セシリアはふと視線を上げた。

そして、少し離れた場所にいたラウラに気づく。


「ラウラ様」


やわらかい声だった。


ラウラは少しだけ迷ってから、近づく。


「……ごきげんよう、セシリア様」


「ごきげんよう」


セシリアは穏やかに微笑んだ。


近くで見ると、やはり整っている。

けれど、その美しさよりも先に、落ち着いた空気の方が印象に残る。


「先ほどは、きちんとご挨拶もできませんでしたので」


「いえ、私こそ」


ラウラは少しだけ視線を揺らした。


会話に困るような相手ではないはずなのに、なぜだか少しだけ身構えてしまう。


セシリアはそんなラウラの様子に気づいているのかいないのか、やわらかく続けた。


「もうすぐ公開演習がありますわね」


ラウラの胸が小さく鳴る。


「……はい」


「今年は例年より少し規模が大きくなるので、支援家の方でもいくつか準備を手伝っておりますの」


そう言って、セシリアは穏やかに微笑んだ。


「ですから、もしよろしければ、ラウラ様もいらっしゃいませんか?」


ラウラは目を瞬く。


「私が……ですか?」


「ええ」


セシリアはやわらかく頷く。


「貴族学校の方にも案内は出ておりますけれど、初めてですと少し緊張なさるでしょう?」


「同学年の方がご一緒なら、わたくしも心強いですし、見学席のことなどもお手伝いできますから」


あまりに自然な誘い方だった。


押しつけがましさはなく、けれど社交辞令だけでもない。

本当に気を回してくれているのがわかる声音だった。


ラウラはすぐには返事ができなかった。


公開演習。


その言葉を聞いただけで、胸の奥がざわつく。


行けば、セドリックを見ることになる。

それだけではない。


セシリアの隣に立つセドリック。

自然に言葉を交わす二人。

立場も近く、周囲から見てもよく似合うと囁かれる光景。


そんなものを見せつけられるくらいなら、行かない方がいいのではないか。


見たくない。

胸の奥で、そう思う。


けれど同時に、見なければずっとこのままだとも思った。


噂だけでざわついて、勝手に想像して、勝手に落ち込む。

そんな自分の方が、もっと嫌だった。


セドリックは昔から肝心なことを何も言わない。

今だって、何を考えているのかちっともわからない。


だからこそ、自分の目で見るしかないのかもしれない。


セシリアは急かすことなく、ただ静かにラウラを見守っていた。


その穏やかさが、かえってラウラの迷いを隠せなくする。


「……公開演習では」


ラウラは少しだけ唇を湿らせてから言った。


「騎士学校の方々も、たくさんいらっしゃるのですよね」


「ええ、もちろん」


セシリアは変わらないやわらかさで答える。


「上級生の演習は見ごたえがありますし、今年は特に注目されておりますの」


その“騎士学校の方々”の中に、セドリックがいる。

言葉にしなくても、それははっきりわかった。


ラウラの指先が、スカートの上で小さく揺れる。


行きたくない。

でも、知りたい。


見たくない。

でも、見ずにいる方が、きっと苦しい。


しばらくの沈黙のあと、ラウラはそっと顔を上げた。


「……ご一緒しても、よろしいのですか?」


セシリアの目がやわらかく細められる。


「もちろんですわ」


その答えには、少しの迷いもなかった。


「では、当日はご案内いたします」


「ありがとうございます……」


返事をしながら、ラウラの胸は少しも軽くならなかった。


むしろ、決めてしまったことで、ざわめきは前よりはっきりした気がする。


本当に行くのだ。

本当に、この目で見るのだ。


セシリアはそんなラウラの揺れを見透かすようなことはせず、ただ穏やかに言った。


「きっと興味深い一日になりますわ」


その一言が、なぜだか胸に残る。


ラウラは小さく頷いた。


「はい」


それ以上の会話はなく、セシリアは上品に一礼して去っていく。

その背中は、最後まできれいだった。


ラウラはその場に立ち尽くしたまま、窓の外の春の光を見つめた。


やさしい光。

やわらかな風。

花の匂いを含んだ、穏やかな昼。


それなのに、胸の奥だけが少しも静かにならない。


「……変なの」


また同じ言葉がこぼれる。


たった今、自分で決めたはずなのに。

見に行くと決めたのに。


本当は、行きたくない気持ちだってまだ残っている。


セドリックとセシリアが並ぶところを見たら。

噂どおりの“自然さ”をこの目で見てしまったら。


きっと、平気ではいられない。


でも、見ずにいることも、もうできなかった。


知らないままではいられない。

曖昧なまま、胸をざわつかせている方が苦しい。


セドリックは、何も言わない。

言葉が足りない。

昔からそうだ。


だからこそ、自分の目で確かめるしかないのだ。


公開演習の日に。

騎士学校で。

セドリックがどんな顔をしているのか。

誰の隣に立っているのか。

自分はそれを見て、どう思うのか。


その全部を。


ラウラはそっと息を吐いた。


見たいような。

見たくないような。


そのどちらともつかない気持ちを抱えたまま、ラウラはゆっくりと歩き出した。


春の廊下に落ちる光はやさしい。

そのやさしさとは裏腹に、ラウラの胸のざわめきだけが、もうごまかせないものになりつつあった。

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