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29 遠くなった距離

その日の夜。


ラウラは自室の机に向かったまま、しばらく動けずにいた。


窓の外では、春の夜風が庭の木々をやわらかく揺らしている。

昼間はあんなに穏やかだったのに、今は妙に静かだった。


机の上には、読みかけの本が一冊。

その脇に、小さな箱がある。


ラウラはそっと手を伸ばして、その箱を開いた。


中に入っているのは、何枚かの手紙と、色の褪せた押し花の栞。

幼いころ、セドリックに渡したものと、同じ花を自分のためにもひとつ作っておいたのだ。


指先でそっと触れる。


「……遠くなったな」


ぽつりと呟いてから、ラウラはすぐに眉を寄せた。


何を、そんなふうに思っているのだろう。


今日、ちゃんと会った。

顔も見た。

会話もした。


感じが悪いのも相変わらずだった。


なのに――


(前みたいじゃなかった)


昔は、もっと簡単だった気がする。


会えばすぐに「感じが悪い」と言えたし、セドリックもすぐに言い返した。

今も言葉だけ見れば、たしかに似たようなやり取りはしている。


それなのに、その前に一瞬だけ間ができる。


目が合う。

少し黙る。

そのあとで、ようやく昔みたいな言葉が出る。


その“ひと呼吸”が、妙に落ち着かなかった。


見上げるたび、前より背が高い。

声も低い。

目を合わせるだけで、なぜだか少しだけ気持ちがざわつく。


昔と同じように言い返しているはずなのに、どこかだけ同じではない。


ラウラは息をついて、箱の中の手紙を一通取り出した。


封の端は少し擦れている。

何度も読み返した手紙だった。


開いてみる。


中に書かれているのは、短い文だけだ。


花は咲いたか。

こっちは変わりない。

体調に気をつけろ。


たったそれだけ。


ラウラはその文字を見つめながら、少しだけ唇を尖らせた。


「……短いんだよね」


これでも昔よりはまだ少しだけ増えた方だ。

最初のころなど、もっとひどかった。


わかった。

そうか。

別に。


まるで会話の切れ端みたいな返事ばかりだった。


それでも、まったく返ってこないわけではない。

花が咲いたと書けば、必ず何かしら返ってきた。

ラウラが学校で困ったことを書けば、短くても気遣う一文はあった。


気遣っているのは、わかる。


でも。


(それが婚約者だからなのか、私だからなのか、わからない)


そこが、少しだけ苦しかった。


ラウラはまた別の手紙を取り出す。


今度は自分が書いたものだ。


ヴィルネアが咲きました。

今年は去年より少し色が薄い気がします。

でも綺麗です。


その返事は、


そうか。

また見たい。


だった。


たったそれだけの言葉だったのに、そのときは少しだけうれしかったのを覚えている。


ラウラはそっと紙をたたんだ。


うれしかったはずなのに。

今思い返すと、その短さに少しだけ寂しさも混じる。


会えば、前より気まずい。

離れていれば、手紙は短い。


婚約者なのに、近いのか遠いのか、今のラウラにはもうよくわからなかった。


今日だってそうだ。


エリオットがいたから、なんとか昔みたいに言い返せた。

でも二人きりになった途端、うまく話せなくなった。


セドリックも、同じようで少し違っていた。


前ならもっと遠慮なく言ってきたはずなのに、今日は何度か言葉を止めていた。

こちらを見るくせに、肝心なことは言わない。

何か言いかけたようで、結局「別に」で終わる。


その半端さが、昔よりずっと気になった。


前と同じなら、もっと簡単だったのに。


同じなら、こんなふうに箱を開けて、昔の手紙を読み返したりしない。


そのころ。


ハーヴェル公爵家の一室でも、同じように一通の手紙が机の上に置かれていた。


セドリックは椅子にもたれ、無言でその紙を見下ろしている。


騎士学校の休暇で戻ってきたばかりの部屋は、以前よりずっと質素に感じられた。

必要なものしかなく、整いすぎていて、どこか息が詰まる。


その机の上にあるのは、ラウラから届いた手紙だった。


今日はありがとうございました。

庭の花も、変わらず綺麗でした。

また、機会があれば。


きれいな字。

整った言い回し。

きちんとしすぎるほど、きちんとしている。


セドリックは眉を寄せた。


「……なんだこれ」


礼儀としては、何もおかしくない。


なのに、妙に距離がある。


昔のラウラなら、もっと違った。


来たんだ。

感じ悪い。

でも花はちゃんと見てたね。


そんなふうに、もっとそのままの言葉で書いてきた気がする。


今の手紙は、綺麗すぎる。


綺麗で、遠い。


昼間のラウラもそうだった。


言い返してはいた。

でも、その前に少し考えるような間があった。

昔みたいに、何も考えず飛んでくる言葉ではなかった。


それが妙に気に障る。


いや、気に障るというより――落ち着かなかった。


「なに、難しい顔してるの」


部屋の入口から声がした。


エリオットだった。


ノックもそこそこに入ってきて、セドリックの向かいへ腰を下ろす。


「ラウラから?」


セドリックは返事をしない。


それだけで十分だったのか、エリオットは机の上の手紙に目をやり、ふっと笑った。


「ずいぶんよそよそしいね」


「……そうか?」


「うん」


エリオットはあっさり頷く。


「ちゃんとしてるけど、壁がある」


セドリックは手紙を見下ろしたまま、少し黙る。


それから低く言った。


「お前は、いちいちそういう言い方をするな」


「わかりやすいからね」


「何が」


「君には」


エリオットは肩をすくめた。


「再会してからずっと、ラウラのこと気にしてるでしょ」


セドリックはすぐに顔をしかめた。


「してない」


「してるよ」


「してない」


即答だった。


エリオットはそれ以上言い返さず、代わりに机の上に視線を落とした。


そこには、別の紙も一枚置いてある。


セドリックがまだ書きかけの返事だ。


花は見た。

お前は――


そこから先だけが、どうしても続かなかった。


エリオットは目を細める。


「また途中?」


「……うるさい」


「そこ、いちばん大事なんじゃないの」


セドリックは舌打ちした。


大事なのはわかっている。


でも、書けない。


花は見た。

庭は綺麗だった。

お前も、変わっていた。


そこまで書こうとして、手が止まる。


何を書けばいいのかわからない。


綺麗だった、なんて書けるはずがない。

会えてよかった、も違う気がする。

次も会いたい、なんてもっと無理だ。


それに、そんなことを書いたら、今までとは違ってしまう気がした。


今まで通りでいたいわけではない。

けれど、変わったと認めるのも、妙に落ち着かなかった。


結局、余計なことを書こうとするほど、何も書けなくなる。


エリオットはそんなセドリックを見て、小さく息をついた。


「それ、伝わらないよ」


「別にいい」


「よくないから言ってるんだけど」


「うるさい」


また同じ返し。


エリオットはわざとらしく肩を落としてみせる。


「はいはい。不器用だね」


「誰が」


「君が」


セドリックは本気で嫌そうな顔になった。


でも否定はしなかった。


その頃、ラウラはまだ机の前にいた。


手紙を箱へ戻しながら、ふと昼間のことを思い出す。


庭を歩いていたときのセドリックの横顔。

エリオットにからかわれて不機嫌になっていた顔。

そして、令嬢たちに名前が出ると言われたときの、あのなんとも言えないざわめき。


ラウラは無意識に、窓の外を見た。


春の夜空には、細い月がかかっている。


「……人気、あるんだろうな」


ぽつりと漏れた言葉に、自分で少し驚いた。


別に、今さらだ。


幼いころから顔は良かったし、公爵家の嫡男で、騎士学校に通っている。

人気がない方がおかしい。


それなのに、その現実味が急に増した気がして、なぜか胸の奥が少しだけざわついた。


ラウラはそれを振り払うように、箱の蓋を閉じた。


「……私には、関係ないわ」


小さく言う。


婚約者なのに、そんな言い方も変かもしれない。

でも今のラウラには、それくらいしかうまく言えなかった。


そのとき、廊下の方から侍女たちの話し声が聞こえてきた。


「ハーヴェル公爵家のご子息は、騎士学校でも評判だそうよ」

「学校と関わりの深い家の令嬢とも親しいとか」


ラウラの指先が、ぴたりと止まる。


学校と関わりの深い家の令嬢。


その言葉が、妙に耳に残った。


花の本のそばに置かれた指先に、少しだけ力が入る。


まだ名前も知らない。

でも、なんとなく胸が騒いだ。


ラウラはそっと目を伏せる。


「……やだな」


何が嫌なのか、自分でもはっきりしない。


ただ、さっきまで静かだった心が、少しだけざわついていた。


春の夜は静かだった。


けれど、その静けさの下で、二人のあいだには少しずつ“遠さ”が積もり始めていた。

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