28 春の再会
ここから、2章になります。
よろしくお願いします
数年後。
春の陽射しがやわらかく庭を照らしていた。
リンドグレイ伯爵家の庭は、昔と変わらず花に満ちている。
けれど、その景色を眺めるラウラの横顔は、もう幼い頃のものではなかった。
髪は少し伸び、仕草にも自然と落ち着きがある。
休暇中らしい軽やかな装いをしていても、立っているだけで伯爵令嬢らしい品がにじんでいた。
それでも――
「このへん、もう少し切り戻した方がいいかな……」
しゃがみこんで花を覗きこむ姿だけは、昔とあまり変わらない。
ラウラは指先で葉をそっと持ち上げ、小さく首をかしげた。
春休みで伯爵家へ戻ってきてから、こうして庭に出る時間が少し増えた。
貴族学校での生活は忙しく、それなりに楽しくもある。
けれど、気を張ることも多い。
庭にいると、ようやく息がつける気がした。
そのとき、屋敷の方から侍女の声がした。
「お嬢様」
ラウラは振り向く。
「はい?」
「ハーヴェル公爵家の方々がお見えです」
ラウラは一瞬、動きを止めた。
胸の奥が、わずかに跳ねる。
「……そう」
それだけ返して立ち上がる。
驚くほどでもない。
婚約は続いているし、休暇中に顔を合わせることだってある。
なのに。
いざ“来た”と聞くと、どうして少しだけ落ち着かなくなるのだろう。
ラウラは自分の手についた土を軽く払ってから、屋敷へ向かった。
応接室の扉を開ける。
最初に目に入ったのは、やわらかな栗色の髪だった。
「ラウラ」
エリオットが先に気づいて笑う。
昔より背が伸び、輪郭も少し大人びている。
それでも、その人あたりの良い空気は変わらなかった。
「お久しぶりです、エリオット様」
ラウラが軽く礼をすると、エリオットは目を細める。
「すっかり綺麗になったね」
その言い方があまりにも自然で、ラウラは少しだけ目を瞬いた。
「……ありがとうございます」
やはりエリオット相手だと、こういう返しになる。
つい、少しだけ丁寧になってしまう。
「でも、中身はあまり変わってないみたいで安心した」
エリオットがそう言って笑った、そのときだった。
「変わってないのは事実だろ」
低い声が、横から落ちる。
ラウラはその声に、無意識にそちらを向いた。
そこにいたのは、セドリックだった。
黒い髪。
青い瞳。
それは昔と変わらない。
けれど、印象はずいぶん違っていた。
背が伸びている。
肩幅も広くなって、騎士学校の制服がよく似合っていた。
顔立ちの鋭さも増し、以前よりずっと近寄りがたい。
幼いころの面影はあるのに、同じままではいられないのだと、そんなことを思う。
そのとき、セドリックがじろりとこちらを見た。
「なんだ、その顔」
ラウラははっとした。
「別に」
とっさに返したものの、少しだけ間が空いた。
セドリックは眉をひそめる。
「変な顔してる」
「そっちこそ、相変わらず愛想がありませんね」
ラウラが言い返すと、セドリックは小さく鼻を鳴らした。
「お前もそのままだな」
「それ、褒めてるんですか?」
「知らない」
やっぱり可愛げがない。
でも、その応酬が始まった途端、さっきまでの妙な緊張が少しだけほどけた。
エリオットが楽しそうに笑う。
「うん、やっぱり二人とも昔のままだ」
「前とは違います」
ラウラがすぐに言う。
「どこが」
セドリックが低く返した。
ラウラはむっとして腕を組む。
「いろいろです」
「曖昧だな」
「そっちこそ」
ぽん、と言葉が返る。
そのやりとりを聞きながら、ハーヴェル公爵と伯爵はどこか穏やかな顔をしていた。
たぶん、大人たちにとってはこの空気も見慣れたものなのだろう。
やがて話は、休暇中の近況へ移る。
エリオットは学園の話をやわらかく語り、伯爵も楽しそうに聞いていた。
ラウラはその流れの中で、ちらりとセドリックを見た。
騎士学校の話をする時の横顔は、少しだけ違って見えた。
短くしか話さないのに、そこにはちゃんと自分の居場所があるような顔だった。
自分の知らない時間を、きちんと生きてきた顔。
そのことが、妙に胸に残る。
前より遠いような。
でも、変わっていないところもたしかにあるような。
そんなことを思っていると、ハーヴェル公爵が言った。
「せっかくだ。庭でも歩いてくればいい」
ラウラは思わず顔を上げる。
「え?」
「エリオットもいるし、ちょうどいいだろう」
ちょうどいいのかはわからない。
けれど父も自然に頷いてしまっている以上、断りにくかった。
三人で庭へ出る。
春の花が咲き揃う小道を歩きながら、エリオットがあちこちを見回して感心したように言った。
「やっぱりきれいだね」
「あちらの花壇は、今年少し植え替えたんです」
ラウラがそう返すと、エリオットはやわらかく笑った。
「ラウラらしいね」
その言い方に、ラウラも少しだけ笑う。
昔より背が伸びても、エリオットはやっぱり落ち着いて話せる。
優しくて、返し方も綺麗で、こちらまできちんとしようと思ってしまう。
その少し後ろを、セドリックが黙って歩いていた。
ラウラはなんとなく気になって振り向く。
「……なに」
セドリックが眉を寄せる。
「なんでもない」
「今、見ただろ」
「見ていません」
「嘘だな」
相変わらず感じが悪い。
けれど、そう言い返しかけて、ラウラは少しだけ躊躇した。
前ならもっとすぐに返せた。
けれど今は、二人きりでなくても、こうして近くにいるだけで妙に落ち着かない。
前より背が高い。
声も低い。
ぶっきらぼうなのは変わらないのに、昔みたいにぽんぽん返すには、ほんの少しだけ勇気がいる。
その一瞬の間を、セドリックは見逃さなかったらしい。
「……なんだよ」
ラウラはわざと眉を上げる。
「無愛想だなって思っただけです」
するとセドリックは、なぜか少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうか。ならいい」
「なに、その返事」
「別に」
「またそれですか」
やっぱり、そこで戻る。
ラウラは小さく息をついた。
なんだかんだ言っても、この人はこういう人だ。
変わったようで、肝心なところは昔のまま。
そう思ったら、少しだけおかしかった。
そのとき、前を歩いていたエリオットが庭の奥へ視線を向けた。
「あそこ、温室かな」
「ええ。冬の間に弱った苗を移したので、今は春の花も少し入ってます」
「へえ、見てみたいな」
エリオットは興味深そうに頷いた。
それから少し歩いたところで、ふと立ち止まる。
「そういえば」
振り返って、意味ありげに笑う。
「セドリック、騎士学校ですごく目立ってるんだよ」
ラウラは目を瞬く。
「そうなんですか?」
「うん。強いし、顔もいいし、愛想はないけど」
最後の一言に、ラウラは思わず吹き出しそうになる。
「たしかに」
「余計なことを言うな」
セドリックが低く返す。
エリオットは楽しそうだ。
「令嬢たちの間でもけっこう名前が出てるよ」
ラウラは小さく首をかしげる。
「へえ……」
そう返しながら、胸のどこかがわずかにざわついた。
別に、おかしなことではない。
セドリックが目立つのは当然だ。
それなのに、その話を聞くと落ち着かない。
ラウラが無意識に黙りこんだのを見て、エリオットはほんの少しだけ目を細めた。
セドリックもまた、ちらりとラウラを見る。
でも、何も言わない。
その代わり、エリオットがふっと足を止めた。
「ごめん、僕ちょっと先に行ってる」
ラウラが顔を上げる。
「え?」
「あそこの温室、やっぱり気になるんだよね」
軽い調子でそう言ってから、エリオットはラウラを見た。
「すぐ戻るから」
本当に軽く言っただけだった。
でも、その目は少しだけ何かを知っているようにも見えた。
ラウラが返事をするより先に、エリオットはひらりと手を振って小道の先へ行ってしまう。
残されたのは、ラウラとセドリックだけだった。
急に静かになる。
さっきまで気にならなかった鳥の声や、風に揺れる葉の音が妙にはっきり聞こえた。
ラウラは少しだけ歩く速さを迷って、それから結局、セドリックと並ぶでも離れるでもない中途半端な距離を保った。
そのぎこちなさが、自分でも嫌になる。
セドリックが低く言う。
「なんで離れる」
ラウラは目を瞬く。
「離れていません」
「離れてるだろ」
「気のせいです」
返しながらも、声が少しだけ固くなる。
前ならもっとすぐに言い返せた。
でも今は、二人きりだと思うだけで落ち着かない。
セドリックは少しだけ眉を寄せた。
「……変だな」
「何がですか」
「お前」
ラウラはむっとする。
「失礼ですね」
「前はもっとうるさかった」
その言い方に、ラウラは言葉を詰まらせた。
たしかにそうかもしれない。
前なら、二人きりでももっと気安く言い返していた。
でも今は違う。
変わってしまったのは、たぶんセドリックだけではない。
ラウラは視線を逸らして、咲き始めた花の方を見る。
「……セドリック様の方こそ、変わりました」
その言葉に、セドリックがわずかに目を細める。
「どこが」
「いろいろです」
「また曖昧だな」
「だって、そうですから」
ラウラは小さく息をつく。
自分でも、何がどう違うのかを、きれいに言葉にできるわけではない。
前より背が高くなった。
声も低くなった。
顔つきも変わった。
でも、そういうことだけではない。
前より少し遠い。
前よりちゃんと、知らない人みたいに見える時がある。
そのくせ、ぶっきらぼうな返しだけは昔のままだ。
その全部が、妙に落ち着かない。
セドリックはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……お前もだろ」
ラウラは思わず顔を上げる。
「私?」
「ああ」
それだけ言って、セドリックはそこで止まった。
何が、どう変わったのか。
続きがあるのかと思ったのに、またそれ以上は言わない。
ラウラは胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
「なんですか、それ」
「別に」
「またそれですか」
「そうだ」
ラウラは思わず小さく息をつく。
会話が続くようで、続かない。
近づくようで、近づかない。
昔からそうだったはずなのに、今はその半端さが妙に気になる。
前より少し低くなった声も。
自分を見る時の視線も。
すぐ逸らされる言葉も。
全部が落ち着かない。
風が吹く。
花びらが揺れて、その影が石畳の上をかすかに動いた。
ラウラはそっと前を向く。
「……騎士学校、楽しいんですか」
不意に出た問いに、自分でも少し驚いた。
セドリックも一瞬だけ目を瞬く。
けれど、返ってきたのは思ったより静かな声だった。
「まあな」
短い返事。
でも、それで終わりかと思ったら、少し間を置いて続く。
「お前のところよりは、面倒が少ない」
「何ですか、それ」
「そのままだ」
ラウラはむっとした。
でも、その返しが少しだけ昔みたいで、胸の奥が妙にざわつく。
「感じ悪い」
「知ってる」
その返事があまりにも自然で、ラウラは一瞬だけ言葉を失った。
前と同じはずなのに。
前と同じ言い方なのに。
どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
そのとき、少し先からエリオットの声がした。
「ごめん、待たせた?」
振り返ると、エリオットがこちらへ戻ってくるところだった。
ラウラは小さく息をついた。
ほっとしたような、少し物足りないような、自分でもよくわからない気持ちになる。
エリオットはそんな二人を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「なんか変な空気じゃない?」
「気のせいです」
ラウラがすぐに言うと、セドリックが低く返す。
「気のせいだろ」
二人の返事がほとんど同時で、エリオットが吹き出した。
「息ぴったりじゃん」
「違います」
「違う」
またほとんど同時だった。
ラウラは思わずセドリックを見る。
セドリックも一瞬だけこちらを見た。
その目が合っただけで、なぜか胸が少しだけ跳ねる。
すぐにラウラは視線を逸らした。
春の風が、三人のあいだを静かに吹き抜けていく。
変わったもの。
変わらないもの。
その両方が、今ここにある気がした。
その時のラウラは、まだ知らなかった。
この再会のあと、少しずつ“変わってしまうもの”の方が増えていくことを。
そしてその始まりが、もうとっくに胸の奥へ入りこんでいたことも。




