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27 旅立ちの前日

旅立ちの前日。


リンドグレイ伯爵家の屋敷は、朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。


使用人たちが行き来し、荷の確認をし、必要なものを運び込んでいく。

ラウラの部屋にも、貴族学校へ持っていく本や衣服、小物がきれいに並べられていた。


けれど、ラウラはその真ん中で、なんとなくぼんやりしていた。


机の上には、あの花の本がある。

ヴィルネアのページには、今でも栞が挟まれたままだ。


ラウラはそっとその頁を開いた。


白い花弁に、淡い桃色。

あの時と同じ絵。


指先でそっと栞に触れる。


「……ほんとに行くんだ」


小さく呟いてから、自分でもおかしくなる。


行くに決まっている。

もう荷造りだって終わりかけているのだ。


それでも、明日から今までとは違う日々になるのだと思うと、胸の奥が少し落ち着かなかった。


そのとき、部屋の扉が軽く叩かれた。


「お嬢様」


「はい」


侍女が顔をのぞかせる。


「庭にお客様です」


ラウラは目を瞬く。


「お客様?」


侍女は少しだけ笑った。


「ハーヴェル公爵家のセドリック様が」


心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。


ラウラはすぐに立ち上がる。


「……行く」


自分でも少し早口だった気がする。


侍女は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。


庭へ出ると、夕方にはまだ早い柔らかな光が芝の上に落ちていた。


花壇のそばに、セドリックが立っている。


黒い髪。

青い瞳。

相変わらず、少し不機嫌そうな顔。


けれど、その姿を見た瞬間、ラウラはなぜだか少しだけ安心した。


「……来てたんだ」


思わずそう言うと、セドリックが眉を寄せる。


「来たら悪いのか」


「そうは言ってない」


「ならいい」


やっぱり感じが悪い。


ラウラは小さく鼻を鳴らした。


「相変わらずだね」


「お前もな」


短いやりとり。


なのに、今日はそれだけで少し胸があたたかくなる。


ラウラはセドリックのそばまで歩いていった。


足元にはシーフがいる。

少し離れた枝の上にはアルトもいた。


本当に、最後までこの二匹は当然のように一緒だ。


「また父上の用?」


ラウラが聞くと、セドリックは少しだけ視線を逸らした。


「……まあな」


「ほんとに?」


「なんだよ」


「別に」


ラウラはじっと見る。


セドリックは少しだけ黙ってから、ぼそりと言った。


「顔を見に来ただけだ」


ラウラはきょとんとした。


今、なんと言ったのか、一瞬わからなかった。


「え?」


セドリックはすぐに顔をしかめる。


「……明日出るんだろ」


ぶっきらぼうに言い直す。


「だから来ただけだ」


顔を見に来た、ということに変わりはない。


ラウラは思わず目をぱちぱちさせた。


「それ、もっと普通に言えばいいのに」


「うるさい」


「感じ悪い」


「お前、それ便利だな」


いつもの言い返し。


でも、さっきの言葉は、ちゃんと胸に残っていた。


ラウラはなんとなく落ち着かなくなって、視線を花壇のほうへ向けた。


「……明日、朝早いの?」


「たぶんな」


「そっか」


それだけなのに、会話が少し途切れる。


今までは、会えば自然と何か言い合っていた気がするのに、今日は変に静かだった。


きっと、お互い少しだけ同じことを考えているからだ。


明日から、しばらく会えなくなる。


ラウラは少し考えてから、花壇の縁に腰を下ろした。


セドリックも少し遅れて、その隣に立つ。

座りはしないけれど、帰る気配もない。


「騎士学校、行ったら忙しくなるのかな」


「だろうな」


「手紙くらいは書ける?」


セドリックがちらりと見る。


「なんだ急に」


「急じゃないけど」


ラウラは膝の上で指を組んだ。


「今までも書いてたけど、学校に行ったらもっと会えないし」


そこまで言ってから、自分の言葉に少しだけ引っかかる。


まるで会いたいみたいだ。


違う。

別に、そういうことではない。

たぶん。


ラウラはごまかすように続ける。


「花のこととか、知らせるって言ったし」


セドリックは少しだけ黙る。


それから低く言った。


「……書ける」


たった一言。


でも、その答えだけで十分だった。


ラウラは少しだけ口元をゆるめる。


「短そう」


「うるさい」


「だって短いじゃん、いつも」


「必要なことは書いてる」


「足りないんだよ」


ラウラがそう返すと、セドリックは珍しく言葉に詰まった。


「……何が」


「いろいろ」


「曖昧だな」


「そっちが言う?」


その返しに、セドリックはわずかに眉を動かした。


ほんの少しだけ、困ったようにも見えた。


ラウラはそれを見て、ふと笑いそうになる。


本当にこの人は、肝心なところで言葉が足りない。


感じが悪いくせに、たまに変に正直で、しかもすぐ言葉を引っ込める。


やっぱり、よくわからない。


そのとき、シーフがラウラの足に鼻先を押しつけてきた。


「わっ」


ラウラが少しよろける。


次の瞬間、腕を引かれた。


「危ないだろ」


低い声。


気づけば、セドリックの手がラウラの腕を支えていた。


強いけれど、乱暴ではない力。


ラウラは一瞬だけ息を止めた。


近い。


セドリックも、はっとしたように目を細める。


けれど、すぐには手を離さなかった。


ラウラの体がちゃんと戻るまで、きちんと支えている。


そのあとで、ようやく手が離れた。


「……ちゃんと立てよ」


ぶっきらぼうな声。


けれど少しかすれていた。


ラウラは頬が少し熱くなるのを感じながら、わざとむっとした顔を作る。


「言い方」


「助けたのに文句か」


「文句じゃない」


「文句だろ」


「違う」


いつものやりとりに戻すと、少しだけ落ち着く。


でも、さっき触れられた腕の感覚は、なかなか消えてくれなかった。


シーフは満足そうに尻尾を振っている。

アルトまで枝の上で羽を揺らしていた。


「……二人とも、絶対わざとでしょ」


ラウラが小さく言うと、セドリックが鼻で笑った。


「神獣に文句言うな」


「そっちこそ、いつもシーフに振り回されてるじゃん」


「お前ほどじゃない」


「何それ」


「事実だろ」


またそんな言い合いになる。


それなのに、さっきまでの変な緊張が少しだけほどけていく。


風が吹いて、花壇の葉が揺れた。


ラウラはしばらく黙って、その音を聞いていた。


やがて、ぽつりと言う。


「……忘れないでね」


セドリックが見る。


「何を」


「花」


ラウラは視線を前に向けたまま続ける。


「咲いたら知らせるって言ったし」


「それに……」


そこで少しだけ詰まる。


本当は、花だけじゃない。


でもそこまでは言えない。


代わりに、ラウラは少し意地を張るように言った。


「せっかく栞もあげたんだから、なくさないでよ」


セドリックは一瞬だけ黙った。


それから、懐に手を入れる。


取り出されたのは、あの押し花の栞だった。


ラウラは目を見開く。


「持ってたの?」


「当たり前だ」


「なくしても知らないって言ってたのに」


「なくしてない」


ぶっきらぼうに言いながら、セドリックはその栞を一度だけ見下ろした。


それからまた、大事そうに懐へ戻す。


ラウラは胸の奥が少しだけきゅっとなるのを感じた。


ちゃんと持っていた。

本当に。


そのことが、妙にうれしい。


「……そっちこそ」


今度はセドリックが口を開いた。


「忘れるなよ」


ラウラは顔を上げる。


青い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


「何を」


「全部だ」


短い答え。


それだけなのに、ラウラは言葉を失った。


花のこと。

手紙のこと。

約束のこと。

たぶん、もっとほかにもいろいろ。


全部。


セドリックはすぐに視線を逸らした。


「……お前、すぐ変な顔するな」


ラウラは我に返る。


「してない」


「してる」


「そっちこそ」


「してない」


「感じ悪い」


「お前な」


結局また、そこへ戻る。


でも、それでよかった。


最後の最後に、もっと気まずくなるよりずっと。


そのとき、屋敷の方からエリオットの声が聞こえてきた。


「セドリック、そろそろだよ」


振り向くと、エリオットが回廊の端に立っていた。

アルトがすっとその肩へ移る。


エリオットは二人を見て、少しだけやわらかく笑った。


「邪魔しちゃった?」


「してる」


セドリックが即答する。


ラウラは思わず吹き出しそうになった。


エリオットは肩をすくめる。


「ひどいなあ」


でも、その目は少しだけ優しかった。


たぶん、この空気をわかっているのだ。


セドリックは小さく息をついてから、ラウラを見た。


「じゃあな」


短い言葉。


でも、今日はそれだけでは終わらなかった。


ほんの少しだけ間を置いて、セドリックは続ける。


「……行ってくる」


ラウラは一瞬、目を丸くした。


それは今までの「また来る」や「忘れるなよ」とは少し違う響きだった。


ちゃんと、相手に向けた言葉だ。


ラウラは小さく唇を開いて、そしてようやく答える。


「……うん」


それだけでは足りない気がして、もう少しだけ言葉を足す。


「いってらっしゃい」


セドリックは何も言わなかった。


ただ、ほんの少しだけ目を細めて、それからくるりと背を向けた。


シーフがその後を追う。

エリオットも静かに並ぶ。


二人と二匹の姿が庭の向こうへ遠ざかっていく。


ラウラはその場に立ったまま、しばらく動けなかった。


胸の奥が、少しだけ変な感じだった。


寂しいのか。

ほっとしているのか。

それとも別の何かなのか。


自分でも、まだよくわからない。


ただひとつわかるのは――


明日から、きっと何かが変わるということだ。


ラウラはゆっくりと、花壇の方へ視線を戻した。


咲き終わった花。

これから咲く蕾。

そして、手元には何もないのに、あの栞の感触だけが残っている気がした。


春の終わりの風が、庭を静かに吹き抜けていく。


幼い日々は、少しずつ終わろうとしていた。


けれど、二人のあいだに残された約束は、まだ途切れていない。


それは、これから先の長い時間をつなぐ、小さなしるしになるのかもしれなかった。

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