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26 約束のしるし

春が少しずつ終わりに近づいていた。


リンドグレイ伯爵家の庭では、先に咲いていた花が静かに季節を終え、代わりに初夏の気配を含んだ緑が増え始めている。


ラウラは朝の光の中、庭の小道をゆっくり歩いていた。


足元にはシーフ。

少し離れた枝の上にはアルト。


最近では、この妙な組み合わせにもだいぶ慣れてしまった。


「もうすぐ、学校なんだよね……」


ぽつりと呟く。


騎士学校。

貴族学校。


それぞれ進む場所が決まり、出立の日も近づいていた。


今までみたいに、ふらりと顔を合わせたり、庭で花を見たり、図書室で本を広げたりすることは、きっと少なくなる。


そう思うと、胸の奥に、なんとも言えない空白みたいなものができる。


別に、もう会えなくなるわけじゃない。

婚約がなくなるわけでもない。

それでも、“今まで通りではなくなる”ことが、少しだけ寂しかった。


そのとき、後ろから聞き慣れた声がした。


「そんな顔するな」


ラウラは振り向く。


そこに立っていたのは、セドリックだった。


黒い髪。

青い瞳。

相変わらず、少し不機嫌そうな顔。


そして、その少し後ろにはエリオットもいる。


「また来たよ」


エリオットはいつものやわらかい笑みを浮かべていた。


ラウラは軽く目を瞬く。


「二人で?」


「父上の用事でね」


エリオットはそう言ってから、ラウラとセドリックを見比べる。


その目がほんの少しだけ面白そうに細められた。


「僕は伯爵様のところに顔を出してくるよ」


「何が“顔を出してくる”だ」


セドリックがすぐに眉を寄せる。


エリオットは肩をすくめた。


「二人で話せるだろう?」


「話すことなんかない」


「あるんじゃない?」


にこりと笑って、エリオットはくるりと身を翻す。


アルトは一度だけ主の肩を見たあと、なぜかそのまま枝の上へ残った。


「アルトまで置いていくの?」


ラウラが思わず言うと、エリオットは振り返りもせず手だけ振った。


「そのほうが落ち着くらしいから」


その言い方に、ラウラは少しだけ頬を膨らませる。


「なんか含みあるんだけど」


「気のせいじゃない?」


楽しそうな声だけを残して、エリオットは屋敷の方へ去っていった。


残されたのは、ラウラとセドリック。

そしてシーフとアルト。


ラウラは小さく息をつく。


「なんなの、あの人」


「知らない」


即答だった。


「感じ悪い」


「お前もな」


いつもの返し。


それだけで、少しだけほっとしてしまう自分に、ラウラは気づかないふりをした。


セドリックは庭のほうを一度見てから、ラウラの隣へ来る。


シーフは当然のように少し位置をずらし、アルトは上から静かに二人を見ていた。


「また父上の用?」


ラウラが聞くと、セドリックは短く答えた。


「まあな」


「まあな、って」


「細かく聞くな」


「感じ悪い」


「うるさい」


言い合いながらも、今日はどこか空気が穏やかだった。


たぶん、二人ともわかっているのだ。

こうして顔を合わせるのも、しばらくは少なくなると。


しばらく並んで歩く。


風が吹いて、庭の葉がさわりと鳴った。


ラウラは少し迷ってから口を開く。


「騎士学校って……やっぱり大変なの?」


セドリックは少しだけ視線を動かした。


「どうだろうな」


「でも、楽ではないだろ」


「へえ」


「へえ、ってなんだ」


「セドリックが自分で“楽じゃない”って言うの、ちょっと珍しいなって」


セドリックは眉を寄せる。


「お前、俺をなんだと思ってるんだ」


「感じ悪い人」


「最低だな」


「事実でしょ」


すぐそう返すと、セドリックは小さく息をついた。


けれどその横顔には、前ほどの刺々しさがない。


ラウラは少しだけ視線をやわらげた。


「でも」


「でも?」


「ちゃんとやれそうだよね」


セドリックが見る。


ラウラは少しだけ視線を逸らした。


「そういうの、得意そうだし」


ぶっきらぼうで、感じも悪くて、言葉は足りない。

でも、やるべきことはちゃんとやる人だと、ラウラはなんとなく知っていた。


セドリックは少しだけ黙る。


それから、珍しく低い声で言った。


「……お前もだろ」


「え?」


「お前だって、貴族学校で困るようには見えない」


ラウラは目を瞬いた。


そんなふうに言われると思っていなかった。


「それ、褒めてる?」


「知らない」


「感じ悪い」


「お前な」


その返しに、ラウラは少しだけ笑ってしまう。


笑うつもりはなかったのに、勝手に口元がゆるんだ。


セドリックはそれを見て、ほんの一瞬だけ言葉を止める。


けれど、すぐに前を向いた。


「……そうやって笑ってればいいだろ」


ラウラはきょとんとする。


「なにそれ」


「別に」


「またそれ?」


「本当に別にだ」


感じ悪い。


でも、今の言葉は少しだけ胸に残った。


二人はそのまま庭の奥へ歩いていく。


やがて、ラウラは花壇の端で足を止めた。


そこには、少し前に咲いていた花の名残が残っている。


咲き終わった花を見て、ラウラはふとしゃがみこんだ。


花弁はもう落ちているが、形のきれいなものがひとつだけ、石の脇に引っかかるように残っていた。


ラウラはそれをそっと拾い上げる。


「何してる」


「これ、まだ使えそうだなって」


セドリックが眉をひそめる。


「使う?」


「押し花にするの」


ラウラはそう言って立ち上がった。


「栞にもできるし」


その言葉に、セドリックの視線がわずかに動く。


ラウラは花を指先に乗せたまま、少し考える。


それから、ふと口を開いた。


「……ちょっと待ってて」


「は?」


「すぐ戻る」


セドリックの返事も待たず、ラウラは屋敷の中へ駆けていった。


セドリックはその場に残され、わずかに眉を寄せる。


「なんなんだ、あいつ……」


けれど、そのまま待っていた。


シーフは足元に伏せ、アルトは枝の上から静かに見下ろしている。


しばらくして、ラウラが戻ってきた。


手には、小さな紙包みを持っている。


少し息を弾ませながら、ラウラはセドリックの前に立った。


「これ」


差し出されたのは、細長い栞だった。


白い厚紙に薄い布を貼り、その間に小さな押し花が閉じ込められている。

花の色は少し淡くなっているが、それでもやさしい姿は残っていた。


上には細い紐もついている。


セドリックは一瞬だけ黙る。


「……何だこれ」


「栞」


「見ればわかる」


「なら聞かないで」


ラウラは少しだけむっとしてから、続けた。


「学校で本使うでしょ」


「そのとき使えばいいかなって」


セドリックは栞を見たまま、しばらく何も言わなかった。


ラウラは少し不安になる。


「いらない?」


そう聞くと、セドリックはようやく顔を上げた。


「……誰がそんなこと言った」


ぶっきらぼうな声。


けれど、さっきより少し低い。


ラウラはほっとしたような、くすぐったいような気持ちで続ける。


「学校に行ったら、前みたいには会えないでしょ」


「だから……その」


そこで少しだけ言葉が止まった。


寂しいから、とは言いたくなかった。


代わりに、少しだけ意地を張る。


「持ってれば、忘れないかなと思って」


セドリックの指が、ようやく栞を受け取った。


長い指の中に、小さな押し花の栞が収まる。


その光景を見て、ラウラはなんだか変な気持ちになった。


セドリックは栞を見下ろす。


「……なくしても知らないぞ」


やっと出てきた言葉がそれだった。


ラウラは眉を上げる。


「感じ悪い」


「本当に可愛くない」


「そっちが先でしょ」


言い返しながらも、栞を返されなかったことに、ラウラはひそかに安堵していた。


セドリックはそのまま、栞を一度だけ指でなぞる。


それから、ごく自然に懐へしまった。


ラウラは目を瞬く。


今、ちゃんとしまった。


大切にするのかどうかはわからない。

でも少なくとも、その場で雑に扱う気はないらしい。


それだけで、少しだけうれしくなる。


そのとき、アルトが枝からふわりと降りてきて、ラウラの肩へ止まった。

同時に、シーフもラウラの足元へ擦り寄る。


セドリックはそれを見て、小さく息をついた。


「……最後までそうなんだな」


「なにが?」


「神獣」


ラウラは肩の上のアルトを見上げ、足元のシーフを見る。


「二人とも、学校にまでついてきたりしないでよ」


そう言うと、シーフは尻尾を振り、アルトは羽を小さく揺らした。


まるで返事をしているようで、ラウラは思わず笑う。


その笑顔を見て、セドリックの視線がほんの一瞬だけ止まった。


でもすぐに、いつものように少し眉を寄せる。


「……花が咲いたら」


ラウラは顔を上げる。


「え?」


セドリックは視線を逸らしたまま言った。


「知らせろ」


短い言葉。


でも、それで十分だった。


ラウラは小さく目を丸くする。


「……言われなくても、そのつもり」


「忘れるなよ」


「そっちこそ」


その返しに、セドリックはほんの少しだけ口元を動かした。


笑ったのかと思ったけれど、またすぐに見えなくなる。


ラウラはじっと見つめてしまいそうになって、慌てて視線を逸らした。


そのときだった。


庭の向こうから、明るい声が飛んでくる。


「そろそろ帰るよ」


エリオットだった。


いつの間にか戻ってきていたらしい。

アルトがすっとラウラの肩から離れ、ふわりとエリオットのもとへ飛んでいく。


エリオットは二人を見比べ、そしてセドリックの懐をちらりと見た。


「へえ」


その一言だけで、少し笑っているのがわかる。


セドリックはすぐに眉を寄せた。


「何だ」


「別に?」


まったく別に見えない顔で、エリオットは肩をすくめる。


ラウラはなんとなく落ち着かなくなって、視線を逸らした。


たぶん、栞のことに気づいたのだ。

でも今ここで何か言われたくはない。


エリオットはそれ以上は何も言わなかった。

ただ、楽しそうに目を細めるだけだ。


春の終わりの風が、庭を静かに吹き抜ける。


もうすぐ、今までとは違う日々が始まる。


離れて過ごす時間。

それぞれの学校。

それぞれの毎日。


でも、その前に。


ラウラの作った小さな栞は、確かにセドリックの手に渡った。


たったそれだけなのに、それが妙に大切なことのように思えた。


ラウラは胸の奥に生まれた小さなざわめきを、まだ言葉にできないまま、庭の花壇を見つめる。


咲いては散り、散ってはまた咲く花のように。


二人のあいだにも、まだ名前のないものが少しずつ積もっていた。

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